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ラウドな人生(パート3):スラッシュ、デス、ブラック・メタルの誕生
80年代半ばまでに、へヴィ・メタルのアメリカナイゼーションと、そしてとりわけ、スラッシュ・メタルの台頭は(ラウドな人生シリーズのパート2で検証したとおり)ジャンルの人気に一役買ったが、ラジオとテレビを独占していたパステル・カラーのポップ・バンド達から、メインストリーム・メディアの注目を逸らすことは出来なかった。しかし一方では、“ペアレンツ・ミュージック・リソース・ センター”(以下PMRC)の注目を集めることとなってしまった。当時上院議員の(そして未来のアメリカ副大統領)アル・ゴアの妻ティッパー・ゴアが、娘が聴いていたプリンスのアルバム『Purple Rain』の歌詞を耳にし、そのオープニング・ナンバー「Darling Nikki」の歌詞にショックを受け、キャピトル・ヒル仲間の“ワシントンの妻達”等と共に1985年に設立した委員会だ。
全音楽の歌詞の内容の精査を呼びかけるPMRCは、RIAA(アメリカレコード協会)に影響を与え、不愉快にさせられる可能性のある作品の購入者に警告する為に、さまざまなタイプの警告ステッカーの導入に同意させた。PMRCは更に最も不愉快と見なした曲のリストを作成した。“下品な15作”と名づけたリストの中には、プリンス(シーナ・イーストンとプリンスの共演作「Sugar Walls」のお陰で、2度登場)、マドンナとシンディ・ローパーが含まれていたが、メタル・バンドのヴェノム、W.A.S.P.、モトリー・クルー、トゥイステッド・シスター、ブラック・サバス、ジューダス・プリーストも危険人物にしようとしたのだ。
[layerslider id=”0“]しかし、PMRCの試みは見事裏目に出ることになる。西欧諸国中のさまざまなメインストリーム・ニュースや出版メディアが取り上げたお蔭で、このキャンペーンは同ジャンルに対して、新たなオーディエンスの注目を引くことになった。1985年9月19日、トゥイステッド・シスターのヴォーカリスト、ディー・スナイダーがフランク・ザッパとフォーク・ロック・ミュージシャンのジョン・デンバーと共に、RIAAの決定に異議を唱えるべく公聴会に出頭。その証言によってRIAAを説得し、歌詞の内容を明確に分類した記述的表示ではなく、アルバムに包括的な警告を与えることが決定する。
言うまでもなく、そして当然のことながら、子供達は両親に衝撃を与えるような音楽を購入したがり、アルバム・カヴァーに“ペアレンタル・アドバイザリー”(露骨な内容)なる警告ステッカーを付けたバンドの売上驚くべき効果を発揮した。この論争は、アンスラックス、スレイヤー、メガデス、エクソダス、テスタメントと、ジャンルに君臨する王メタリカの成功もあり、世界中のアンダーグラウンド・クラブやテープ・トレーディング・コミュニティでその地位を確立しつつあった、スラッシュ・メタルの興隆とも見事合致した。
メタリカは人気の絶頂にあった1986年の伝説的アルバム『Master Of Puppets(邦題:メタル・マスター)』発売後のツアーの途中で大打撃を受けた。アンスラックスとスウェーデンのユングビューをツアー中の1986年9月27日、24歳のベーシストのクリフ・バートンが不慮のバス事故で死亡。多くのバンドにとって、そのような悲劇から生還するのは並大抵なことではないだろう。しかしメタリカはグループを立て直し、アイコニックなベーシストに代わる人物を見つけ、これまでの道を毅然と歩み続け、やがてメタル界のみならず、音楽業界全体を代表する世界最大のバンドのひとつになる。
メタル・ミュージックもまた、引き続き名声を高めていった。80年代半ばから後半を通して、ボン・ジョヴィ『Slippery When Wet(邦題:ワイルド・イン・ザ・ストリーツ)』、アイアン・メイデン『Somewhere In Time』、スレイヤー『Reign In Blood』、メガデス『Peace Sells… But Who’s Buying?』(全て1986年)、そしてアンスラックス『Among The Living』、デフ・レパード『Hysteria』、モトリー・クルー『Girls Girls Girls』、ザ・カルト『Electric』(全て1987年)等々、高く評価されたアルバムが数多く発表された。更にMTVが時流に乗り、世界中にいる膨大な数のファンへ向け、グラム・ロックとメタルのビデオのローテーションをしっかり組んだ。
スラッシュ・メタルの人気は驚くべき早さでエスカレートしていったが、しかしいつものように、好みによる相違と、それに加え、さらに一層荒々しくで攻撃的なものを求めるファンの要望に応え、メタルから派生したバンドがこの後も次々と登場。ヴェノムのアルバム『Welcome To Hell』及び『Black Metal』のリリース(それぞれ1981年と82年)後、数多くのグループがスラッシュ・メタルの限界を押し広げ、よりカオスな方向へと進んでいった。スウェーデン出身のヘルハマーとバソリーが、それぞれ『Death Fiend』(1983年)と『Bathory』(1984年)を、そしてアメリカでは、ポゼストが1985年に最も影響力があり画期的なアルバムのひとつと考えられている『Seven Churches』をリリース。それぞれのアルバムはデス・メタルの青写真となり、この攻撃性に溢れた真新しい世界は、最終的には、スカンジナヴィア諸国から不穏な子孫、ブラック・メタル誕生のきっかけを与えた。
デス・メタルの正式な故郷とされるフロリダでは、メタルの非常にディープでダークなサブカルチャー的要素から影響された、デス、モービッド・エンジェル、オビチュアリー、ディーサイド、オートプシー等多数のバンドが産声を上げた。歌詞中で人間行動の最も穏やかならざる側面に取り組むデス・メタルは、露骨な暴力、悪魔信仰、オカルティズム等、ショッキングで胃がむかつくようなテーマを扱った血に染まった世界に没入。“デス・メタル”なるジャンルに初めて言及した人物が誰なのかたびたび論議されてきたが、サンフランシスコの4人組ポゼストの初期デモ・テープのタイトル・トラックであり、シンガーのジェフ・ベセーラが1983年に、学校の英語プロジェクト時に生み出した言葉に由来すると、大多数のファンは信じている。
スラッシュ・メタルの先人達同様、デス・メタルは北米の裏通りのバーや閑静な住宅街から出現し、その後ウィルスの如くひっそりと国内中に広がっていった。この場合もまた、その人気はアンダーグラウンドなテープ・トレーディングの産物であり、それは今日までに、熱狂的なファンによるグローバルなコミュニティを確立させるまでに成長した。
デス・メタル・バンドの中で群を抜いて重要な存在のひとつが、フロリダに拠点を置くデスだった。今は亡きチャック・シュルディナー(1967-2001年)率いるバンドは、1985年デモ・カセット『Infernal Death』及び独創性に富んだ1987年リリースのデビュー作『Scream Bloody Gore』で、ジャンルの根幹を揺るがした。チャック・シュルディナーのギターの妙技を誇るグループは、ヴェノムとヘルハマーの荒々しさを持ち込み、ポゼストのメロディと曲構成への取り組み方を取り入れ、他のバンドがサウンドを膨らませ挑戦する為の道を開いた。
80年代末から90年代初頭はフロリダのデス・メタルの黄金期であり、1989年には極めて重要なアルバムが多数発売された。デスの『Leprosy』、オビチュアリーの『Slowly We Rot』、モービッド・エンジェルの『Alters Of Madness』、オートプシーの『Severed Survival』等、そしてディーサイドが1990年リリースのセルフ・タイトル・アルバムで、新たな10年をスタートさせた。しかし、この頃になると、この音楽はアメリカの他の場所にも届き、高評価のアルバムがニューヨーク(その中心にいたのはカンニバル・コープスで、1990年『Eaten Back To Life(邦題:屍鬼~イーテン・バック・トゥ・ライフ)』、翌年『Butchered At Birth(邦題:斬鬼~ブッチャード・アット・バース)』、そして1992年『Tomb Of The Mutilated(邦題:殺鬼~トゥーム・オブ・ミューティレイテッド)』を発表)やヴァージニア(ディシースドの1991年作品『Luck Of The Corpse』のお陰で)から生まれた一方、シカゴ(デスストライク)、オハイオ州ウェルスヴィル(ネクロファジア)、ミシガン州フリント(リパルジョン)、そしてサンタモニカ(クリプティック・スローター)等、先駆的アーティストが国内の至る場所から登場した。
デス・メタルは、世界中でも徐々に支持を集めていた。ブラジルが生んだセパルトゥラは、1986年『Morbid Visions』とその翌年のリリース作『Schizophrenia』で頭角を現した。イギリスはナパーム・デスが1987年に『Scum』、1988年に『From Enslavement To Oblivion』を、カーカスが同じく1988年に『Reek Of Putrefaction(邦題:腐乱屍臭)』、ボルト・スロワーが1991年に『War Master(邦題:闘将:War Master)』等著名な作品を世に送り出した。スウェーデンは、エントゥームドとアット・ザ・ゲイツがそれぞれ『Left Hand Path(邦題:顛落への道)』(1990)と『Slaughter Of The Soul』(1995)で貢献した。
80年代後半に出現したメタルの中で、何よりも邪悪で何よりも不穏な雰囲気を持っていたのは、ブラック・メタルだった。デス・メタルのエッセンスを抜き出したこの音楽は、丸鋸のようなギター・リフと原始的で苦悩に満ちたヴォーカルの原始的なアレンジで聴く者の感覚を攻撃した。NWOBHM、スラッシュ・メタル、そしてデス・メタルの要素を組み込んだブラック・メタルは、スカンジナヴィアの霜害を受けやすい地域から伝わり、先人達の要素を取り入れながら、それを天国の門の遥か向こうまで引きずって行った。
ブラック・メタルはこれまでで最もエクスペリメンタルなメタルの形態だと、一部では考えられていた。曲構成に対する画期的で新しい取り組み方と、ハイ・ピッチ・ヴォーカルとしゃがれたデス・ヴォイスのコンビネーションに、ブラスト・ビート・テンポとさまざまな拍子記号による長いインストゥルメンタル・セクションを組み合わせていたのだ。バソリーはブラック・メタル・シーンのゴッドファーザーと見なされ、創設メンバーのクォーソン(別名セス・フォレスバーグ)の洞察力がバンドの特徴的サウンドと精神の形成に一役買った。親族のデス・メタル同様、ブラック・メタルは人間の邪悪な側面からインスピレーションを得ながら、メタルの中でも最もヴィジュアル的にインパクトの強いサブジャンルへと進化していった。レザー、スパイク、コープス(死体)・ペイント、火炎、そして時には切断された動物の身体が、ライヴ・パフォーマンスに共通するものだった。
スカンジナヴィア・シーンの盛り上がりと共に、メイへム、エンペラー、ゴルゴロス、エンスレイヴド、ダークスローン、ディセクション、イモータル、バーズム等、かなりの数のスカンジナヴィアの地元バンドが浮上した。バンド・メンバーは奇怪なステージ・ネームを取り入れながら、NWOBHM全盛期以来ほぼ初めて、メタルに再びファンタジーの要素を取り戻した。彼等はまた過激な振る舞いに熱中し、中でも組織的宗教(とりわけキリスト教)に対する呪いの言葉に煽られ、コミュニティ内で暴力の爆発へと発展した時期もあった。
それでもブラック・メタルの耳障りな音は、NWOBHM、あるいは他のどんなメタル・ジャンルとはまるで異なるものだった。そして、長く続いたモラル・パニックの後、史上初めて、へヴィ・メタルはとても重大で物騒な問題に見舞われる。主流マスコミが、1992年にリレハンメルで、エンペラーのドラマーのバード・G.イーサン(別名ファウスト)が、同性愛者男性に対して起こした残虐殺人を始め、スカンジナヴィアで起きていた凶悪犯罪について報じたのだ。
偶然にも、ブラック・メタルの人気が上昇していたその年、ノルウェーではキリスト教の千年紀を祝っていた。ファンとミュージシャンによる教会への放火が、1992年から1996年の間に連続し、計50件の放火が世界中のメディアの注目を集めた。バーズムの首謀者ヴァルグ・ヴィーケネスは、シーンの象徴的存在であり、4つの教会への放火及び、1993年にメイへムのギタリスト、オイスタイン・“ユーロニモス”・オーシェトを殺害した罪で有罪判決を受けた。その後の投獄により、彼は同ジャンルのダイ・ハードなファンの間で伝説的存在になった。
ブラック・メタルは不純な動機でメインストリームでの露出が増えていたが、ジャンルで最も著名なリリースは、メタルの発展の礎として現在も捉えられており、世界で最もエクストリームなバンドの幾つかに国際的な人気をもたらした。その中でも、メイへムの『De Mysteriis Dom Sathanas(邦題:狂魔密儀)』とディセクションの『The Somberlain』(どちらも1993年)、ダークスローンの『Transilvanian Hunger』とエンスレイヴドの『Frost』(どちらも1994年)、そしてイモータルの『Battles In The North』(1995年)は必聴だ。
へヴィ・メタルは時代と共にその姿を変えていったが、その中でスラッシュ・メタル、デス・メタル、そしてブラック・メタルは、恐らく間違いなく最も重要なムーヴメントだろう。前の時代に現われたものを足場にしながら、そのジャンルの地平線は、ブラック・サバスやアイアン・メイデン等創設メンバーが夢にも思わなかったようなレベルへと広がっていった。90年初頭までには、メタルは世界で主要な音楽勢力へと成長し、スタジアム・ツアーや、ドニントンのモンスターズ・オブ・ロック等巨大フェスティバルをソールド・アウトにし、記録的な数の参加者を魅了した。そうして苛酷なツアーと並外れた忍耐によって漸く報いが得られ、メタルの創始者的バンドの多くは、マルチ・プラチナ・セールスを誇るアーティストになった。
しかし、サンフランシスコのスラッシュ・メタル王国から南へ僅か数時間のところにある、ロサンゼルスのサンセット・ストリップの安酒場では、アメリカン・ハード・ロックの第二の波が勢いを増していた。80年代末にガンズ・アンド・ローゼズが牽引する、新世代バンドが上昇しつつあり、首を傾げたくなるような彼等の態度が、へヴィ・メタル・ジャンル全体を瀕死の状態へと導くことになる。誰も覚悟していなかったような未来が、この後に待ち受けていた…。
– Oran O’Beirne
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