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へヴィ・メタル・サンダー – ”へヴィ・メタル”の誕生を追う
ヘヴィ・メタルがこの世に誕生したのは1839年。本来は化学用語であり、しばしば人間に有害という定義で、鉛、鉄、水銀、リチウム等の大まかに関連した金属一式を表している。その100年以上後、ヘヴィ・メタルはウィリアム・S.バロウズが1961年に発表した小説『ソフト・マシーン』 の登場人物の1人、天王ウィリーこと「ヘヴィ・メタル・キッド(重金属小僧)」として、文学界に現れた。バロウズは文芸雑誌のザ・パリス・レビュー誌にこう語っている。「ヘヴィ・メタル(重金属)とは、“中毒”に関する究極の表現のようなものだと感じた。実際のところ、“中毒”には金属的な何かがあり、到達する最終段階は無機質になるほど廃人状態ではない」。
その6年後、あるロックの名曲を通してヘヴィ・メタルは領域を超えて音楽界へ進出した。1967年録音、1968年リリースのステッペンウルフのデビュー・アルバム『Steppenwolf』に収録された「Born to be Wild」には、
「I like smoke and lightnin’, heavy metal thunder / 俺はマリファナと稲光が好きなのさ、ヘヴィ・メタル(重金属=バイク)の爆音が」
という有名な歌詞が登場する。
音楽を説明する際に「ヘヴィ・メタル」という言葉が初めて使用されたのは、その後の1970年だった。ローリング・ストーン誌に掲載された“メタル・マイク・サンダース”によるハンブル・パイ『As Safe As Yesterday Is』のアルバム評に、初めて登場したのだ。
[layerslider id=”0“]他の音楽ジャンルと同様に、ヘヴィ・メタルはある時にある特定の場所で進化したのではなく、数多くの場所で同時発生した。カリフォルニアからニューヨーク、そして大西洋を越えてイギリス。特にイギリスでは工業の中心地となったバーミンガムで盛り上がりを見せた。また、ヘヴィ・メタルのサウンドは数多くの手法により進化し、それが顕著に見られたのはクリーム、ブルー・チアー、アイアン・バタフライ、ディープ・パープルといったバンド等だった。
クリームがデビュー・アルバム『Fresh Cream』をリリースしたのは、1966年のこと。ブルース、ロック、ポップスを融合させ、新たに結成した「スーパー・グループ」は間違いなく独自の「サウンド」を見出した。うねるようなドラムのタム、ロックするインスト・セクション、コーラス箇所の重く突き刺すような「Sweet Wine」は、同アルバムのポップス/ブルース・ロック的要素以上に、未来のヘヴィ・メタルのサウンドに貢献している。彼らによるマディ・ウォーターズ「Rollin’ and Tumbling」のカヴァーは、この後に登場するメタル・サウンドを示唆した。つまり、初期クリームの音楽は、60年代後半から70年代にかけてのよりハードなロック・サウンドへ与えた主となる影響であることを証明していたのである。
“重いギア”は1967年までの間に回転し始めた。クリームは、現在アイコニックなロック・アンセムの名曲として知られる「Sunshine of Your Love」が収録されたセカンド・アルバム『Disraeli Gears』をリリース。この楽曲の影響力は大きく、リリース後は映画のサウンドトラックのみならず、大量のロック・コンピレーション盤にも収録されてきた。また、「Sunshine of Your Love」が与えた偉大な影響は、ギター初心者の大半が演奏を習得する最初の1ケ月目にこの曲のギター・リフを学ぶことからも明白だろう。
そして、1968年までにヘヴィ・メタルのギアは本格的に稼働した。ヘヴィなロック・サウンドはL.A.からU.K.まで全世界で制作され、「ヘヴィ・メタル」という言葉はステッペンウルフによって、より広い一般層にも浸透した。世界中のバンドが騒々しいサウンドを手がけ始め、新たな道を開拓し、今日我々が「ヘヴィ・メタル」として認識している音楽へと繋がったのだ。その中でサンフランシスコ出身のブルー・チアーは、しばしば見落とされがちな「ヘヴィ・メタルの建築家」である。
真のヘヴィ・メタルに必要なものをひとつ挙げるとしたら、それは間違いなく強力なドラマーだろう。アイコニックなハードロック/ヘヴィ・メタルとして崇拝される全てのバンドには驚異的なドラマーが存在する。ラッシュのニール・ピアート、レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナム、トゥールのダニー・キャリー、スレイヤーのデイヴ・ロンバード等と並び、ブルー・チアーのドラマー、ポール・ウェイリーもその一人。ポール・ウェイリーの狂気的で強力な演奏は、ブルー・チアーのサウンドにおける最重要要素であった。彼らは、クリームのジンジャー・ベイカーが始めたことを続けると同時に、高い評価をうけなかったこのサンフランシスコ出身バンドによって新たなレヴェルへと昇華された。ブルー・チアーはけたたましい轟音と攻撃性という、ヘヴィ・メタルの本質的な二大要素を備えていた。彼らのデビュー・アルバム『Vincebus Eruptum』収録の「Doctor Please」には、後にヘヴィ・メタルを区別することになる全要素が含まれていた。つまり、それは金切り声を上げるヴォーカル、ヘヴィに激しく打ちつけるようなインスト・セクションの上に乗せたワイルドなギター・ソロ、そして7分50秒の長尺楽曲を締めくくるにあたり速度が加速し、躁病的になる壮大なエンディング部分である。『Vincebus Eruptum』収録のもう1つのハイライト曲「Parchment Farm」では、スラッシュ系リズムと泣きのギター・ソロがゆっくりとフェード・アウトし、卓越したテンポ変更を経てダーティでヘヴィなグルーヴを生み出している。1968年にスティーヴ・アレンのテレビ番組出演でエディ・コクランの「Summertime Blues」をカヴァーしたブルー・チアーは、スティーヴ・アレンに「皆さん、次はブルー・チアーです。死ぬほど激しく突っ走ります」と紹介された。それが彼らの全てを語っている。
同年、ブルー・チアーは『Vincebus Eruptum』に続くセカンド・アルバム『Outsideinside』を発表。デビュー・アルバムよりもヘヴィで更に進化を遂げたように思われる『Outsideinside』は、狂気的なドラミング、ギター・ハーモニー、ワウ・ペダルで音色を変えたギター音をフィーチャーしており、前作よりずっと多岐に渡るサウンドを堪能できる。とりわけ「Come And Get It」は、クラッチ、カイアス、そしてクイーン・オブ・ザ・ストーン・エイジ等のデザート・ロック(ストーナー・ロック)として知られるヘヴィ・ロック系の先駆者のようなサウンドに仕上がっている。ブルー・チアーは、当時の自由恋愛主義(フリー・ラヴ)とヒッピー・ムーブメントのアンチテーゼだった。また、彼らはドアーズのジム・モリソンから「これまでに見た中で最も強力なバンド」と呼ばれた。疑いの余地もなく、ブルー・チアーの初期2枚のアルバムは、後に登場するへヴィ・メタルの兆しであった
概念的に、「ヘヴィ」という言葉は1960年に「強力、深い」という概念で使用され、アイアン・バタフライのデビュー・アルバム『Heavy』にインスピレーションを与えたように思われるが、ヘヴィ・メタルという言葉を一般層に浸透させたのはステッペンウルフである。
「Born To Be Wild」は、歌詞とサウンドの両面において、当時のロックン・ロールの本質を押さえていた。また、この楽曲は、自由な人間らしさ、ベトナム戦争に反対する平和運動、アメリカ政府と「権力者」に対して募るフラストレーションも捉えた。実際のところ、この「Born To Be Wild」を書いたのはステッペンウルフではなく、同バンドのドラマーの兄、マーズ・ボンファイアーことデニス・エドモントンであった。マーズ・ボンファイアーは1992年に受けたメレル・ファンカウザーとのインタビュー内で、この楽曲は自身の新車と、その新車を手にしたことで味わった自由な気持ち、更にはハリウッド・ブルバード沿いのある店にあったショー・ウィンドウで目にした、火山から噴火したバイクに「Born To Ride」とキャプションがついていたことからインスピレーションを得て、フォーク・バラード曲を書いたと述べている。何故「ヘヴィ・メタル」という言葉を同楽曲の歌詞に入れたのだろうか?これに関してはわからない。だが、マーズ・ボンファイアーのお陰でヘヴィ・メタルは誕生したのだ。
ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの元マネージャーの“チャス”・チャンドラーは、あるインタビュー内でヘヴィ・メタルは「ニューヨーク・タイムスに掲載されたジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのライヴ評で初めて使用された言葉」であり、明らかに「空から落ちて来たヘヴィ・メタル(重金属)を聴くこと」というフレーズが出てくることを主張している。だが、この主張を裏付けする起源探しは、人々には(証拠不足のため)理解し難いものであった。
音楽に沢山のジャンルがあるように、テクノロジーはへヴィ・メタルの歴史において非常に重要な役割を担った。1962年に「轟音の父」ことジム・マーシャルが初の真空管アンプを作ったのだ。標準的なハイエンドなアンプより大きな音を出すことが可能になったジム・マーシャルによるVox AC-30は、ヘヴィ・メタルのような音楽スタイルで必須となるボリュームを上げることができた。この新技術なしでバンドが爆音を出すことはあり得なかったし、ハードロックとヘヴィ・メタルものが轟音以外で演奏することもあり得なかった。もう1つのイギリス発のアイコン、オレンジ・アンプリフィケーション社のアンプは1968年以降にレッド・ツェッペリンやフリートウッド・マック、ジェームス・ブラウン、B.B.キング等が気に入っていたことから人気を集め、 ライヴ会場のサウンドと広さが必要とする爆音を作り出すことを容易にした。その結果、オレンジ・アンプのザクザクとしたミッド・レンジの特徴的な音は、ブリティッシュ・ロックのスタンダード・サウンドとなった。
1968年10月にクリームはL.A.のフォーラムでのコンサートを録音し、帰国後にはロンドンでスタジオ録音した数曲を加えて、解散を迎えた最後の作品を飾るべく明快に『Goodbye』と名付けたアルバムを発表した。ライヴ音源のうちの1曲はミシシッピ・シークス(彼らは間違いなく1930年代に登場した初のロック・バンドだろう)の楽曲「Sitting On Top Of The World」をハウリン・ウルフによるアレンジでカヴァーし、これはまさにヘヴィ・メタルを具現化したものであった。
クリームの『Goodbye』がリリースされる少し前にはレッド・ツェッペリンがデビュー・アルバムを発表し、ヘヴィ・メタルにブルースを混ぜた2つの音楽的要素は心地良い組み合わせであった。同年(1969年)にレッド・ツェッペリンはセカンド・アルバムをリリースし、この2作は彼らの評判を決定的なものにした。実際、1969年はヘヴィ・メタルの雷が轟音を立てた1年であった。ステッペンウルフは同年3月に3枚目のアルバム『At Your Birthday Party』を発売し、ジェフ・ベックがロッド・スチュワートとロニー・ウッドをフィーチャーした『Beck-Ola』もヘヴィ・メタル作品と呼べるだろう。また、前述のハンブル・パイ『As Safe As Yesterday Is』が7月に、続いて同年末までに次作となる『Town and Country』がリリースされた。年月を重ねるにつれて、彼らは真のヘヴィ・メタル界の開拓者となり、そのスタジアムをロックするツアーは1971年発表のライヴ盤『Performance – Rockin’ the Fillmore』で頂点に達した。
1969年8月にはグランド・ファンク・レイルロードがヘヴィ・ファンクとグルーヴ感溢れるロック系デビュー・アルバム『On Time』を発表し、続いて12月には楽曲「Paranoid」を収録したセルフ・タイトル・アルバムをリリース。その一方で、ザ・ローリング・ストーンズがデビュー・シングルを録音したことで知られるロンドンのリージェント(・サウンド)・スタジオでは、1969年10月にバーミンガム出身のブラック・サバスがデビュー作をレコーディングし、その半年後にはセカンド・アルバムの『Paranoid』を録音した。ヘヴィ・メタルはそこから第2章に突入することになるが、その詳細はまた後に….。