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音楽プロデューサーとは何をする人なのか?:レコーディングとスタジオワークの革命と変遷
レコーディング・スタジオの歴史は、概ね、2つの時代に分けることができる。60年代前と後だ。正確に何年だと指摘するのは、意見が分かれるところだろう。しかし、1965~67年の間に重要な出来事がいくつも起こり、スタジオはミュージシャン、エンジニア、プロデューサーたちの単なる仕事場から創作の拠点へと変貌した。
基本的に、“サマー・オブ・ラヴ”(*訳注:1960年代後半にアメリカを中心に起こった文化的、政治的主張を含む現象)までに、スタジオはそれ自体が、楽器、創作プロセスの一部、実験の場となり、再評価されるようになっていた。スタジオそのものが変わったというわけではない。もちろん、機材は進化し続けていたが、壁や天井、ケーブル、スクリーン、マルチ・トラックなどがあるスタジオで音をならしてテープに録音するという一般的な原則はそのままだった。では何が変わったのか? 意識改革が起き、プロデューサーの役割がひっくり返ったのだ。サナギから蝶が変身するように、プロデューサーは、単なる監視役からアーティストのパイプ役になった。ブライアン・イーノが「音楽で描く / painting with music」と例えたように、プロデューサーを通じ、サウンドのテクスチャーが描かれるようになった。
しかし、その変化はどうやって起きたのだろう? プロデューサーはそこにたどり着くまでに一体何をしたのか? この改革はポップ・ミュージックにどんな影響を与えたのか? これらの質問に答えるには、そもそもの始まりまで遡ってみる価値がある。
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19世紀、録音の発明
1877年、音を録音し再生する機械を初めて考案したのは、発明家のトーマス・アルバ・エジソンだった。彼は後に、よくあることだが、この発明は偶然の産物だったとこう振り返っている。
「電話の送話口に向かって歌っていたら、ワイアーが振動し、極細スチールの針が僕の指に触れたんだ。それで思いついた。この針の動きを記録し、後にそれを針で辿ることはできないだろかと。できないことはないって思ったよ」
彼は、それに取り組み始めた。 マウスピースに向かって大きな声で話すことで、彼の声の振動が、針を取り付けた振動板に伝わり、その針が回転するスズ箔を貼ったシリンダーに接触し、小さな傷をつける。これが最初の録音の仕組みだ。再生するには、その手順を逆にすればいい。針が、回転するシリンダー表面の傷をなぞると、その振動が振動版を通じスピーカーへ戻ってきた。単純ではあるが、素晴らしい発明だった。
サウンド・レコーディング初期の時代は、音質の向上が重視された。リスナーが目を閉じて聴いたとき、まるでその居間でシンガーやミュージシャンがパフォーマンスしているように感じるくらいクリアに録音することが目標とされた。“忠実に”がモットーだったのだ。
プロデューサーとは管理する人
音楽が録音されるようになって最初の50~60年間、プロデューサーは概して、忠実な会社人間だった。レコーディング・セッションを監視すること、アーティストやミュージシャン、アレンジャー、ソングライター、エンジニアたちを集めることがプロデューサーの仕事だった。
曲を売り込もうと音楽出版社が訪ねてくると、プロデューサーはその曲に合うシンガーを見つけ、スタジオ、アレンジャー、演奏するミュージシャンらのスケジュールを押さえた。エンジニアは最適な場所にマイクを設置。プロデューサーは時間内、そして予算内にセッションが終わるようにした。これらをしっかり管理し、1日で2~3曲のシングルを完成させるのがいいプロデューサーだった。
1949年、重ね取りができるテープが導入される前、レコードはよくディスクに直接カットされていた。ミュージシャンがプレイする間、リアル・タイムでディスクがカットされた。パフォーマンスが失敗、もしくは劣っていた場合は、やり直しだ。そのため、プロデューサーは、サッカー・チームの監督が試合前、ベンチで選手を扇動するのと同じで、ライヴ・パフォーマンスが上手くいくようみんなを励まし、発破をかけなくてはならなかった。しかし、これは全て変わろうとしていた。1人のアメリカ人が、音楽の録音に第2の革命をもたらそうとしているところだった。
レス・ポールによる多重録音の発見
ウィスコンシン州ウォキショー出身のレスター・ポルスファスは、すでにミュージシャンとして名を成し、コマーシャル・ソングを作ったり、ビング・クロスビーやナット・キング・コールらのためにギターを演奏していた。1947年にキャピトル・レコードと契約し、レス・ポールという芸名のもと、妻メリー・フォードと多くのヒット曲を発表した。しかしながら、他の人たちとは違い、彼はレコード会社所有のスタジオでレコーディングするのではなく、自宅ガレージでヒットを生み出していた。
ポールは好奇心旺盛な男だった。いつも物事の仕組みを解明しようとしており、この知的好奇心が、彼を多重録音の発明へと導くことになる。後にマルチ・トラッキングとして知られるようになるものの原型は、同じアセテート・ディスクにいくつかのギター・トラックを次々録音していくものだった。彼はこう振り返っている。
「ディスク・マシーンを2台持っていたんだ。それぞれの曲をそこに交互に送った。1台に最初のパートを、もう1台に次のパートを録音し、それらを重ね続けた」
ビング・クロスビーが新品のテープ・マシーンAmpex 300シリーズを買ってくれると、レス・ポールはすぐに彼の技術をテープ・レコーダーで応用した。彼は、いつもそうだが、このマシーンも説明書通りに使うだけでは満足しなかった。彼は、エキストラ・ヘッドを取り付けることで、繰り返し録音できる、同じテープでサウンドの上にサウンドをレイヤリングできると信じた。「驚くなかれ、上手く行ったんだ!」と、彼は話している。ポールはずるをしていると考える人たちもいた。確かに、これは本来の目的からずれ忠実さともかけ離れていたが、この規格外の方法はすぐ世間に広まり、どんなサウンドが作れるか試してみようと、ポールの斬新なトリックを取り入れる人が続出した。
サム・フィリップスとロックン・ロール
しかし、みんながみんな、マルチ・トラッキングに目を向けていたわけではない。1950年1月3日、アラバマ出身のタレント・スカウト、DJ、エンジニアがテネシー州メンフィスのユニオン・アヴェニューにメンフィス・レコーディング・サービスを開いた。サム・フィリップスは、アマチュア・シンガーたちにも扉を開き、彼らの音楽をレコーディングし、そのテープを大手レコード会社へ売り込もうとした。
彼はすぐに、B.B.キングやハウリン・ウルフを惹きつけることになる。ブルース・ファンのフィリップスは、彼の小さなスタジオでサウンドを作り出し、そこは新しいスタイルが芽生えるのに適していた。そのスタイルとは、ロックン・ロールとリズム&ブルースだ。
1951年3月、彼は、アイク・ターナー率いるジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツをレコーディング。彼らの曲「Rocket 88」は、一般にロックン・ロール初のレコードと見なされている。1952年、フィリップスは自身のレーベル、サン・レコードを創立し、エルヴィス・プレスリー、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイス、カール・パーキンス、ジョニー・キャッシュら多くのアーティストを発掘した。マイクをどこにセットすべきか、音響効果をどう用いれば自分が望む音を作れるか熟知していたフィリップスは、最高のパフォーマンスをさせるために、どうやってアーティストを本来の自分に目を向けさせればいいかもわかっていた。
ジョー・ミークと英国での動き
一方、大西洋の向こう側では、英国の地方グロスタシャー州出身の電気技術者、ジョー・ミークが、オーディオ・エンジニアになるためミッドランド電力を退職していた。彼のサウンドの実験は、すぐに実を結んだ。彼がコンプレッションとサウンド・モディフィケーションを手掛けたハンフリー・リッテルトンの「Bad Penny Blues」がヒットした。
ミークは1960年、ロンドンの304ハロウェイ・ロードの店の上の3フロアを貸し切り、彼にとって初となるレーベルを設立した。風変りな人物ではあったが、彼の才能は疑う余地がなかった。彼がレコーディングしたザ・トルネイドースの「Telstar」はUKで1位になった上、アメリカでもチャートのトップに輝いた最初の英国産シングルの1枚となった。この別世界のようなサウンドは、ミークの来世への妄想を反映したものだった。彼は、“あの世”にいるバディ・ホリーをレコーディングしようと試みていたのだった。
フィル・スペクターの“ウォール・オブ・サウンド”
話をアメリカに戻すと、1人の若いシンガー・ソングライター、ミュージシャンがレコード・プロダクションに着手しようとしているところだった。テディ・ベアーズの一員として、初のヒット「To Know Him Is To Love Him(会ったとたんに一目ぼれ)」を生んだフィル・スペクターは、ソングライターのレジェンド、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーと仕事をし始めていた。彼は、自分の技術を磨く前に、いくつかマイナーなヒットを作り出していた。
60年代初め、彼はこれらのマイナーなヒットをメジャーなヒットに変え始めた。彼の最初のNo.1は、クリスタルズの「He’s A Rebel」だった。スタジオでたくさんの楽器をダブリングすることで、シンフォニックなサウンドを築き上げる技を披露している。スペクターは、ベーシスト、ドラマー、キーボーディスト、ギタリストがそれぞれ2~3人ずつプレイすることで、レス・ポールがマルチ・トラッキング技術を使ったのと同じように、音をレイヤリングできると考えた。
ロネッツがパフォーマンスしたスペクターの「Be My Baby」は、いまでも史上最高の7インチ・シングルの1枚として残っている。彼は長期に渡り、素晴らしい才能を輝かせ、それから10年、彼はアイク&ティナ・ターナー(「River Deep – Mountain High」)、ライチャス・ブラザーズ(「You’ve Lost That Loving Feeling’(ふられた気持ち)」「Unchained Melody」)と、壮大で象徴的なポップ・ヒッツを生み、ザ・ビートルズの「Let It Be」をプロデュースした。
しかし、スペクターを影響力のあるプロデューサーにしたのは、かの有名な“ウォール・オブ・サウンド”だ。カリフォルニア出身のビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは、そのサウンドの大ファンだった。当時、自分のレコードを自分でプロデュースするアーティストなど、ほとんど聞いたことがなかった。しかし、1964年頃、ブライアン・ウィルソンが始めたのは正にそれだった。彼はツアー・バンドを辞め、LAの家にこもり、スタジオに全ての関心を向けることにした。
ブライアン・ウィルソンのセルフ・プロデュース
「Be My Baby」に取りつかれていた若きウィルソンは最初、彼のヒーロー、フィル・スペクターを模倣しようと試みると、すぐに本領を発揮し、LAの一流ミュージシャンたちを意のままにした。レッキング・クルーとして知られるセッション・ミュージシャンたちは、一流の人たちとしかプレイしないほどの腕前を持つものばかりだった。しかし、ブライアンは、彼の中で思いついた信じられないほど複雑な音楽について行くよう要求し、彼らを限界まで追い込んだ。
太陽から照らされ、星から愛されるシンプルなサウンドのポップ・ミュージックを作るため、明るいサウンドのレイヤーに次ぐレイヤーを繰り広げたビーチ・ボーイズは、すぐにチャック・ベリー風のロックン・ロール「Surfin’ Safari」「Fun, Fun, Fun」から、彼らのトレードマークであるハーモニー、夢のようなクライマックスを生み出すレイヤーを武器にした「California Girls」へとシフトした。この曲で最も注目されたのは、オーケストラルなイントロだ。完璧な音の組み合わせを目指したウィルソンは、スタジオを使い、後に“神へのティーンエイジ・シンフォニー”と呼んだものの作曲に挑み始めた。
ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』(1966年)は、史上最高のアルバムの1枚に挙げられている。LA中のスタジオで行われた永遠に続くかのように見えたセッションにより、天からの歌声とさして変わらないボーイズの究極のサウンドと、革新的なサウンドの調和、エフェクトとマルチトラック・ハーモニーが特徴の美しいアルバムが作られた。しかし、ウィルソンはこの結果に満足せず、すぐにこれに勝る曲に取り掛かった。彼は「Good Vibration」を、モジュール形式でレコーディングしたのだ。
ヴォーカルに与えるサウンドのために1つのスタジオを使い、パーカッションを捉えるために別の場所を使った。ほとんどの楽曲が1日で作られている時代、ウィルソンはこの彼の傑作を作り出すために90時間のテープを使用した。彼の完璧を求める探求に対して、現在の価値で50万ドル(約5,600万円)に値する金額が費やされた。50年経ったいまでも、このシングルに匹敵する先駆的で創意に富み、壮麗なレコードはほとんどない。「Good Vibration」は世界中でチャートの1位に輝いた。
ジョージ・マーティンとザ・ビートルズ
しかし、ブライアン・ウィルソンには、常に肩越しに様子をうかがう存在があった。彼が目を向けていたのはロンドンのアビー・ロード・スタジオだ。そこでは、ジョージ・マーティンとザ・ビートルズが、レコーディングのプロセスの全ての常識を一気にひっくり返していた。
ジョージ・マーティンは1950年からEMIで仕事をしてきた。若きプロデューサーは、フランダース&スワン、バーナード・クリビンズ、ダドリー・ムーア、そして特にザ・グーンズと一緒にコメディやノヴェルティのレコードを作ることで、サウンドの実験に楽しみや満足感を見出していた。
しかしながら、1962年になると、彼にはパーロフォン・レーベルのラインナップにヒットするポップ・アクトを加えなくてはならないというプレッシャーがかかっていた。そこで彼はザ・ビートルズというグループと契約を交わし、最初は彼らが生み出す音をそのまま捉えることを目指し、彼らのデビュー・アルバムは1日で完成した。またもや、忠実に、だ。
しかし、1965年、バンドはライヴでは再現できない音楽を作り始めた。例えば、ジョン・レノンからの要望で、マーティンは『Rubber Soul』に収録される「In My Life」のインストゥルメンタル・ブレイク用にバッハ風のピアノ・ソロを書いたが、望むスピードでは演奏できないことがわかった。そのため、彼らはテープを遅く回すことにし、マーティンも半分のスピードでプレイした。それを通常のスピードで再生すると、まるでハープシコードのように聞こえた。
ザ・グーンズのレコードで音のトリックに精通していたマーティンは、“違う”サウンドのレコードが作りたいというザ・ビートルズの高まる欲求を満たすのに最適な人だった。彼らの実験は、その後数年、速度を増し「Rain」で初めて使われた録音したテープを逆に再生するバックバスキングなどを発明。しかし、彼らの革新が開花したのは、次のアルバム『Revolver』だった。
「Taxman」「I’m Only Sleeping」でのギターの逆奏など、「Tomorrow Never Knows」でフィーチャーされた前代未聞のサウンドに比べたら何でもない。ロックのリズムに、インドのモティーフ、楽器で作られたのではないサウンドが加えられた。この奇妙なサウンドは、テープをループし、ミキシング過程でフェード・イン・フェード・アウトすることで作られた。ミキシング自体が、再現することのできないパフォーマンスとなった。この頃になると、マーティンとザ・ビートルズはスタジオを楽器として使用していた。
次のアルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』で、彼らはさらに先へ進んだ。彼らは、マーティンに遊園地の音や、信じられないほどのクレッシェンドのサウンドを作るよう要請し、それらを砕いて無にすることを繰り返した。これらのセッションの間、ジョージ・マーティンとそのアシスタント達は、多くの革新的なテクニックやプロセスを発展させ、その結果、このアルバムはレコードの作り方を永遠に変えることになった。
プロデューサーの指示のもと制作するのではなく、彼をパートナーとして扱ったザ・ビートルズは、またもやポップ・ミュージックの側面を変えた。ここから、ミュージシャンたちはスタジオではライヴ・パフォーマンスの興奮を捉えるのではなく、スタジオで何が作れるのかを考えるようになった。ジョージ・マーティンは当時、こう話している。
「テープをカットしたり、編集したり、スロウダウン、スピードアップ、逆再生。レコーディングではこれらのことができるが、もちろん、ライヴでやるのは不可能だ、ライブはその会場で作り上げる音楽だから」
しかしながら、ザ・ビートルズ自身は、ほかのブリティッシュ・インヴェージョンのバンドの多くと同様、アーティストが主導権を握った作品や実験好きの人たちが作った楽曲じゃないものを好んで聴いていたかもしれない。そしてその頃のアメリカ全土にはヒットを続出するプロダクション・ラインがあちこちに存在した。
モータウンとスタックス
ダイアナ・ロス&シュープリームス、フォー・トップス、テンプテーションズ、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダーらのヒットに次ぐヒットを続出した、おそらくポップ史上最も成功した音楽工場だろう。“ハウス・サウンド”を維持することで、ゴーディと彼のプロデューサー・チームは、モータウンというブランドをレコード会社というだけでなく、それ自体、音楽のジャンルに発展させた。
メンフィスにも同じようなプロダクション・ラインがあった。オーティス・レディング、サム&デイヴ、ルーファス・トーマスによるヒット曲は、スタックス・レコードをサザン・ソウル・ミュージックの一大勢力に押し上げた。モータウンでは、プロデューサーがほとんど専制的に全てを仕切ったのに比べ、スタックスでは、ミュージシャン自身がレコードをプロデュースするよう奨励していた。このため、プロデューサーとミュージシャンの境は事実上、存在しなかった。
プロデューサーが一度、自分のスタジオで上質なサウンドを作ることに成功すると、人々はそこでレコーディングしようと群がった。アラバマ州マッスルショールズに、リック・ホールが運営するフェイム・スタジオがあった。そこで彼が生み出した独創的で魅力的なサウンドは、エタ・ジェイムス、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケットらを惹きつけた。
シカゴにはフィル&レナード・チェス兄弟のスタジオがあり、マディ・ウォーターズ、ボ・ディドリー、リトル・ウォルターらのブルースの最愛のサウンドが作られた。そして、テネシー州ナッシュビルでは、チェット・アトキンス、ポール・コーエン、ビリー・シェリルなどのプロデューサーがカントリー音楽のサウンドを作り、ジャマイカでは、リー・“スクラッチ”・ペリー、コクソン・ドッド、デューク・リードらが、レゲエとなる音楽を生み出していた。
アーティストが管理する時代
60年代終わりになると、テクノロジーはより多様な曲を作るのを可能とした。ザ・ビートルズが『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を作るのに使用した4トラック・コンソールはすぐに8トラックに置き換えられ、次に16、そして24トラック・デスクへと交換された。すぐに可能性は無限となった。アーティストはしばし、プロデューサーに代わり、自分のレコードを自分で管理することを好むようになった。しかし、監視役を取り除くことにより、自己中心的な気ままさを誘発することもあった。70年代は、アーティストがベストを望むあまり、レコードを完成するまでに時間がかかることで有名となった。例えば、フリートウッド・マックはアルバム『Rumours(噂)』を完成させるのに1年かけた。
一方その頃、トム・ショルツは、自信のバンドであるボストンのセルフ・タイトル・デビュー・アルバムを制作し、さらなる一歩を踏み出した。しかし現実にはバンドは存在していなかった。ボストンというバンドはトム・ショルツのことであり、アルバムのレコーディングは、彼の地下室で、彼が大半の楽器をプレイした。彼は、自身が生み出した曲をライブ・パフォーマンスするためにバンドを結成したのだ。
この頃になると、プロデューサーとアーティストの境はより曖昧となった。70年代が進むと、ロック・ミュージックはよりビッグでより複雑になることが重視された。クイーンの名作「Bohemian Rhapsody」は、ブライアン・ウィルソンが「Good Vibrations」で好んだモジュラー・プロセスに似ていなくはない方法で、ロイ・トーマス・ベイカーがプロデュース。ジェフ・リンのエレクトリック・ライト・オーケストラは、ザ・ビートルズ・サウンド(を彼らが直面したテクニカルの制限なしに)をアップデイトしようと目論み、マイク・オールドフィールドの『Tubular Bells』はテクノロジーの限界に挑んだ。
ヒップホップの登場
これらは全て、ロックの世界で起きたことで、ニューヨークのストリートでは別の革命が起きていた。黒人にとって困難な時代は、DJ・クール・ハーク、アフリカ・バンバータ、グランドマスター・フラッシュらの音楽に反映された。ヒップホップとラップは、カリビアンにそのルーツがあり、ストリートに設置されたモバイル・サウンド・システムを使い、レゲエの“トースティング”のニュー・ヴァージョンにループするリズム・トラックを乗せた。
これらの画期的なアーティストたちは、自分の音楽を自分でプロデュースしたため、プロデューサーの必要性はさらになくなった。真新しいサウンドを作るため、他の人たちのレコードをサンプリングしたのは、多くの意味で、レッド・ツェッペリンら英国のグループが彼らの愛するブルースを模倣しつつ新しいものを生み出したことのハイテク・ヴァージョンだった。
シックの「Good Times」に後押しされシュガーヒル・ギャングの「Rappers Delight」が世界中で大ヒットしたのに続き、ラップ・ミュージックの旋風は、音楽史上最も革新的なプロデューサーたちにインスピレーションを与えた。サンプリングのテクノロジーはライヴDJたちが直面していた限界を取り除いた。
リック・ルービンは、彼がプロデュースしたLL・クール・Jの成功を楽しんだ後、Run DMCと手を組んだ。ルービンはロックン・ロールとヒップホップを一体化するため、Run DMCとエアロスミスの「Walk This Way」を結合し、このアンダーグラウンドのスタイルをメインストリームに定着させた。ルービンはこう話している。
「点と点を結び、人々を理解させるのに役立った。“ああ、この曲は知っている。ラッパーがやっていて、ラップのレコードみたいに聴こえるが、エアロスミスがやったものとそう変わらないし、多分、好きになっても許されるだろう”ってね」
リック・ルービンはその後、全く異なるスタイルのプロデュースにも乗り出し、ジョニー・キャッシュのキャリアを復活させてもいる。ドクター・ドレーやパフ・ダディ、それにパブリック・エナミーをプロデュースしたボム・スクワッドといったヒップホップ・プロデューサーは、ヒップホップをさらに成長させ、世界最大のサウンドにした。
90年代以降のプロデューサー
ヒップホップがお馴染みの存在になると、アーティストとプロデューサーの違いが消滅しただけでなく、音楽がジャンルにより拘束されることもなくなった。90年代以降は、何でもありだ。ビッグ・アーティストにとって、成功し続けるには、先見の明のあるプロデューサーと組むことが鍵だった。
ポップ・スター、マドンナはヒップホップの革新者ティンバーランドとのコラボを望み、マライア・キャリーは同じようにネプチューンズと手を組んだ。デンジャー・マウスはレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、アデル、GORILLAZとコラボした。マーク・ロンソンの需要は高く、彼はエイミー・ワインハウスからロビー・ウィリアムス、レディー・ガガ、ポール・マッカートニーまで、多くのアーティストと共作してきた。
かつて、プロデューサーの役割は、レコード会社を代表し、アーティストを見つけ、ヒットを願い、彼らと曲を結びつけることだったが、今やプロデューサーの中には、アーティストやレーベルと同じくらいビッグになる人も現れた。モータウンがそうであったように、ヒット工場になる人も現れた。しかし、彼らの後ろに何億ドルもの価値がある業界がついていようとも、今日のプロデューサーは、仕事場のエジソン、地下室のレス・ポールと何ら変わることなく、物事に挑戦し、境界線を押し広げ、何か新しいものを作ろうと尽力している。
ジョージ・マーティンが昔こう語っている。
「僕が初めてレコード業界に足を踏み入れたとき、スタジオにいるレコーディング・エンジニアにとって、可能な限り実物そっくりなサウンド、完璧に正確な写真を作ることが第一の目的だった。しかし、スタジオは完全に変わった。素晴らしい写真を撮る代わりに、絵を描き始めることができるようになった。オーヴァーダブやスピードを変えることで…、サウンドで絵を描くんだ」
Written By Paul McGuinness
ザ・ビートルズ『Let It Be』(スペシャル・エディション)
2021年10月15日発売
5CD+1Blu-ray / 2CD / 1CD / 4LP+EP / 1LP / 1LPピクチャーディスク
- ロキシー・ミュージック、デビュー盤発売45周年盤発売
- アメリカで唯一100万枚を売り上げたロキシー・ミュージックの『Avalon』
- ブライアン・イーノの20曲
- 改名し、時代の寵児となったマーク・ボランと『Electric Warrior』
- T. レックス改名後1発目のシングル「Ride A White Swan」
- T.レックス、2曲目の全英1位「Get It On」の制作秘話
- マーク・ボランの20曲
- ザ・フー 最高傑作『Tommy』
- 史上最高のフロントマンとフロントウーマン50名
- T.レックス、全英シングルチャート1位「Get It On」の制作秘話