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白人男性はブルースを演奏できるか?
「Can Blue Men Sing The Whites?(ブルーな男はホワイツを歌えるか?)」とボンゾ・ドッグ・バンドが音楽的な疑問を投げかけたのは、1968年代後半のことだった。いかにもボンゾ・ドッグ・バンドらしく、「白人男性はブルースを演奏できるか?」という、当時の音楽ジャーナリストが提起していた疑問にひねりをきかせたのだ。元ザ・ローリング・ストーンズのビル・ワイマンは、この疑問を投げかけられると、明快にこう答えた「とことん努力すればな」。
この疑問は、ザ・ローリング・ストーンズとジョン・メイオールによって1960年前半に始まったブリティッシュ・ブルースのブームで引き起こされた。エリック・クラプトンは、ブルースから影響を受けたヤードバーズに在籍後、ジョン・メイオールのブルースブレイカーズを経て、クリームを結成。ブルース色の強いソロ・キャリアも持つ彼は、「白人男性はブルースを演奏できる」ことを示すために、大半のアーティストよりも多くのことをやってのけた。その後、ゲイリー・ムーアが登場し、ブルースという由緒ある伝統に独特のギター・スキルをもたらした。
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ボンゾ・ドッグ・バンドが「白人男性がブルースを演奏する」ことに関する疑問をパロディ化したのは、ブリティッシュ・ブルースが始まってから5年後のことである。ザ・ローリング・ストーンズは、「白人の少年たちがミシシッピ・デルタの音楽と、シカゴのエレクトリック・ブルースに興味を持つ」という、ロンドン中心で起っていたムーブメントの最前線にいた。彼らはシカゴ・ブルースの帝王、マディ・ウォーターズが1958年にリリースしたベスト盤の収録曲をバンド名に冠したのだ。デビュー当初は、楽曲の表記と同様に、The Rollin’ Stonesというスペルが使われることも多かった。
ロンドンにおけるブルース・シーンのゴッドファーザーは、ユダヤ系オーストリア人の父親と、トルコ/ギリシャの血を引く母親のもとに生まれたアレクシス・コーナーだ。後にザ・ローリング・ストーンズとなる若者達が出会ったイーリング・ブルース・クラブを作ったのは、アレクシス・コーナーとシリル・デイヴィスである。彼らはこのクラブで、アレクシス・コーナーのバンドに参加し、スライド・ギターを弾いていたブライアン・ジョーンズに出会った。ブライアン・ジョーンズは、自身のヒーローだったエルモア・ジェイムズの演奏を真似していた当時のイギリス唯一の人物だった。
ザ・ローリング・ストーンズが1963年初頭にリッチモンドのクロウダディ・クラブで主催公演を行った頃、彼らのセットリストはチャック・ベリー、エルモア・ジェイムズ、マディ・ウォーターズ、ジミー・リード、ボ・ディドリーといったのブルース楽曲で占められていた(なお、同クラブの名前は、ボ・ディドリーの曲のタイトルに因んでつけられている)。ストーンズがレコード契約を獲得すると、ヒット・レコードを放つよう仕込まれたため、ブルースは二の次になった。しかし彼らは1965年、5枚目のシングルでハウリン・ウルフの「Little Red Rooster」をカヴァーし、シングル・チャートのトップへと送り込んだ。これがイギリスのシングル・チャートで首位を獲得した初めてのブルース・レコードだ。
アレクシス・コーナーは、ジョン・メイオールのキャリアにも関与していた。ジョン・メイオールはマンチェスターから30マイル先で生まれた。最初はギターを弾いていたが、ブルーノート・レコードのミード・ルクス・ルイスとアルバート・アモンズの作品を聴いて影響を受け、ピアノへと転向する。マンチェスターのアート・スクールに通っていた彼は、バンドも結成していたが、その後アレクシス・コーナーの勧めにより、ロンドンで急成長していたブルース・シーンに乗じる。1963年、30歳のジョン・メイオールはブルースブレイカーズを結成。ブルースブレイカーズは現代音楽史の中で、最も豪華なメンバーが在籍したバンドとされている。ストーンズが最初に契約したレーベルでもあるデッカ・レコードと契約し1964年5月に発売したブルースブレイカーズのファースト・シングル「Crawling Up The Hill」は、「Mr. James」とカップリングされたがヒットには至らなかった。ジョン・メイオールのバンドでベースを弾いていたのは、ジョン・マクヴィー。エリック・クラプトンがヤードバーズを脱退してジョン・メイオールのバンドに加入した1965年10月には、ヒューイー・フリントがドラムを担当していた。そして1966年初頭、傑作アルバム『Bluesbreakers With Eric Clapton』がリリースされた。同アルバムはヒットしたが、それから程なくしてエリック・クラプトンは同バンドを脱退し、ピーター・グリーンが加入する。そしてピーター・グリーンは後年、同じくジョン・メイオールのバンドに在籍していたミック・フリートウッド、ジョン・マクヴィーとともに、後年フリートウッド・マックを結成した。
ピーター・グリーンの脱退後、ジョン・メイオールは18歳の神童、ミック・テイラーを採用した。ミック・テイラーはそれから2年後、ブライアン・ジョーンズの後釜としてザ・ローリング・ストーンズに加入すると、キース・リチャーズのブルース的な感性の中に、彼ならではのホワイト・ボーイ的リード・ギターを注入。これが、センセーショナルなコンビネーションとなった。
ザ・ローリング・ストーンズは、キャリアを始動するためにブルースを使ったが、その後もブルースに対する愛や信仰を失ったわけではなかった。ブルースに対する彼らの敬意は、『Sticky Fingers』収録の「You Gotta Move」でもはっきりと聞くことができる。これは、ミシシッピ・フレッド・マクダウェルによる楽曲のカヴァーで、クリス・キムジーのアコースティック・ギターとミック・テイラーのスライド奏法が光っている。
ミック・テイラーは1969年、有名なロンドンの公園、ハイド・パークでザ・ローリング・ストーンズとのステージ・デビューを果たした。それはブライアン・ジョーンズの悲劇的な死から数日後のことだった。ミック・ジャガーは、エリック・クラプトンのハイド・パーク公演を見て、自分もここでコンサートをやろうと考えた。なお、エリック・クラプトンは1969年末にブルース・ロック・トリオ、クリームを解散し、自身の新バンド、ブラインド・フェイスで同公園でコンサートを行った。ちなみにストーンズは、同公演のオープニング曲に、オリジナル曲ではなく、テキサスのブルース・ギタリスト、ジョニー・ウィンターの曲を選んでいた。
スティーヴ・ウィンウッドをリード・ヴォーカルに擁したブラインド・フェイスは、ブルースに大きな影響を受けていた。同バンドの解散後、1年も経たないうちに、エリック・クラプトンはとりわけ大きな影響力を誇るブルースのサポーターとなり、白人ブルースマンの権化となった。彼は、ロバート・ジョンソンのトリビュート・アルバムや、B.B.キングとのアルバムをリリースした他、過去50年間に制作された彼のソロ・アルバムの全てにブルースの要素が注入されている。エリック・クラプトンによるベッシー・スミスの「Nobody Knows When You’re Down And Out」(『Layla And Other Assorted Love Songs(邦題:いとしのレイラ)』に収録)は、ホワイト・ボーイズもブルースを歌い、ブルースを演奏することができるという決定的な証拠である。
エリック・クラプトンは、謎めいたタイトルを冠した2013年のソロ・アルバム『Old Sock』で、「Still Got The Blues」をカヴァーし、アイルランド出身のブルース・ギタリスト、ゲイリー・ムーアを追悼している。同曲は、ゲイリー・ムーアが1990年にリリースしたアルバムのタイトル・トラックで、ジョージ・ハリスンのほかに、ブルース・レジェンドのアルバート・キングとアルバート・コリンズが客演している。ゲイリー・ムーアが最大の影響を受けたのはピーター・グリーンで、彼は1995年のアルバムを『Blues For Greeny』でピーター・グリーンに捧げ、ピーター・グリーンの1959年製レス・ポール・スタンダードを演奏している。ピーター・グリーンはこのギターをゲイリー・ムーアに貸し出し、その後ゲイリー・ムーアはギターを買い取っている。
ブルースを演奏することに大きな魅力を感じているのは白人男性だけだと考えているなら、それは間違いだ。ボニー・レイットとスーザン・テデスキの演奏を聴いてほしい。2人は、メンフィス・ミニーやシスター・ロゼッタ・サープから始まった女性ブルース・ギタリストの伝統を継承する現代アーティストだ。
Written By Richard Havers
ザ・ローリング・ストーンズ『オン・エア』12月1日発売!
『ブルー&ロンサム』の原点はここにある!
初期のラジオ用ライヴ音源を発売!未発売音源も収録!
1963年~1965年に出演したBBCのラジオ番組『Saturday Club』、『Top Gear』、『Rhythm and Blues』、『The Joe Loss Pop Show』などからの貴重なライヴ音源の数々を収録。
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