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「戻って来て、永遠にここにずっと」:ボーイズ・グループがいかに頂点に上り詰めたか
“ボーイ・バンド(ボーイズ・グループ)”という語の辞書的な定義は、“主に10代の若い聴衆を対象にして作られた音楽とイメージを備えた、魅力的な若い男性達から成るポップ・グループ”だ。それならば同じような漠然とした説明を、ザ・ビートルズからマルーン5まで、あらゆるグループに当てはめることが出来るだろう。時代を下るに従って、その言葉自体が流行り廃りを経験。その意味もまた、幾つもの年代を経る中で変化を遂げてきたが、魅力的な若い男性達から成る音楽グループという概念が、廃れたことは一度もない。
だが、ボーイ・バンドとは、正確には一体何なのだろう? 例えば、確かにマルーン5はその説明に合致しているが? マルーン5が結成されたのは、何しろ創設メンバーがそれぞれまだ高校に在籍していた時であったし、彼らのイメージと音楽の両方が10代の青少年の心に訴えるものであることは否定できない。「Moves Like Jagger」は2011年夏の特大ヒットとなり、同曲には往年のティーン・スター、クリスティーナ・アギレラも参加。しかし何百万もいるマルーン5のファンは、彼らをロック・スターと捉えることを好み、“ボーイ・バンド”と呼ぶ人は殆どいないはずだ。同様に、このグループのファン層は、より年齢の高い聴衆にもまたがっている。だがその点では、ワン・ダイレクションも同じだ。ならば、ボーイ・バンドとは何なのか、そして彼らの起源はそもそもどこあるのだろうか?
[layerslider id=”0“]和声で歌う若い男性達の集まりという概念そのものは、若者達がレコードを購入するようになって以来、ポップ・ミュージックの基盤となってきた。 揃った振り付けで動く、それぞれ独自の才能と魅力を持った4人の青年達というアイディアは、米国南部のゴスペル・グループに端を発し、北部のシカゴやニューヨークのような場所へと伝わった。そこでは10代の若者グループが街角の街灯の下にたむろして、延々と四部合唱を練習。そのヴォーカル・パートの多くに歌詞がついていなかったことから、ドゥー・ワップとして知られるようになった。
魅力的な若い男性達から成るこのようなグループは、今日では“ボーイ・バンド”として知られている。この語は定義として用いられているだけでなく、しばしば否定的な意味でも使われる。恐らく『Xファクター』のようなオーディション番組出身の、“人工的に作り上げられた”とされるグループが、 “昔ながらの方法” で結成したバンド——言い換えれば、いつか自分達の集団名に光が当たることを夢見て、10代の時に友人同士で結成したグループ——と一緒くたにされているのだろう。 評論家達は、価値があると思える作品があってもそれを考慮の対象から外すため、そういった集団に“ボーイ・バンド”というレッテルを貼り、貶めることがよくある。そのレッテル貼りによって、「彼らは本物のバンドではない」と暗示し、ひとつの巨大産業を——そして言うまでもなく、独立した芸術の一形式を——生み出したポップ・ミュージックの豊かな歴史に、彼らの居場所はないと仄めかしているのだ。しかしそのような主張は、ポップ・ミュージックにおけるボーイ・バンドの真の物語について、何も知らないということの証明である。
有名な英国人の日記作者サミュエル・ピープスは、彼自身熱心なアマチュア・ミュージシャンであり、仲間と作ったインストゥルメンタル音楽“バーバーズ・ミュージック(理髪師の音楽)”の制作について、日記に記していた。歴史的に、理髪店は地域社会の人々が集う社交場であり、ピープスの記述は、後に“バーバーショップ・ミュージック”(理髪店の音楽)として発展する音楽について言及した最初期の資料である。19世紀には、このスタイルの密集和声ヴォーカル・ミュージックは、アフリカ系アメリカ人の間で人気を博すようになった。彼らが歌っていたのは、霊歌(スピリチュアル)や、大衆の間で親しまれていた民謡(フォーク・ソング)だ。レコードの出現により、このスタイルは、白人のミンストレル・グループ(※ミンストレル=白人が黒人に扮して行うショー)が取り上げるようになった。
男性ヴォーカル・ハーモニー・グループは、急速に発展する音楽業界の主流となり、そこから初期の偉大なスター勢が数多く生まれた。 1935年、若きフランク・シナトラが、シンガー3人組のザ・スリー・フラッシズに加わり、ホーボーケン・フォーを結成。人気ラジオ番組『メジャー・ボウズのアマチュア・アワー(Major Bowes’ Amateur Hour)』で成功を収めた。しかしシナトラは、他の3人とは真の意味での調和を成していなかった。それでも彼が、成功に至る道としてハーモニー・グループを捉えていたという事実に、その重要性が示されている。
1930年代から40年代にかけて最も高い人気を誇ったグループは、恐らく、こざっぱりとした清潔感のある黒人系アメリカ人の4人組、インク・スポッツだろう。「Whispering Grass (Don’t Tell the Trees)」や「Memories Of You」といった曲でヒットを飛ばした彼ら。ジャーナリストのジョン・オーモンド・トーマスは、1947年のピクチャー・ポスト誌で、彼らについてこう描写していた。「拍子を揃え、中の脚を揺らめかせながら、メランコリーなムードに合わせて動く、折り目のついたズボンを穿いた8本の足。控えめではあるが、豊かなバリエーションで手振りをする8つの手。抑制のきいたワイルドなリズムを体現する8本の腕。歌詞の韻の1つ1つを味わう8枚の唇」と。数値的なヴァリエーションを除けば、その描写は、インク・スポッツやジャクソン5から、バックストリート・ボーイズに至るまで、あらゆるグループに当てはまり得る。それがボーイ・バンドの持つ永遠の魅力だ。
しかし、ヴォーカル・ハーモニー・グループの人気の高さにもかかわらず、レコード会社は尚も決定的なスターを探し求めていた。シナトラであれ、ビング・クロスビーであれ、エルヴィス・プレスリーであれ、雑誌の表紙を一人で飾れる者は貴重な存在であった。だがそれも、リヴァプール出身のあの4人の若者達が、シーンに登場するまでのこと。以降、カリスマ性を備えた4人組(または3人組、もしくは5人組)の若い男性グループを求めることが、レコード会社にとって究極の目標となったのである。
ザ・ビートルズを始め、後に続いたザ・ローリング・ストーンズや、ビーチ・ボーイズ(彼ら自身はアメリカン・ヴォーカル・ハーモニーの伝統から生まれ、バーバーショップ・カルテットのフォー・フレッシュマンのファンであった)のようなグループが空前の人気を博したことが、音楽業界の様相を決定的に変えた。それ以後、ありとあらゆるレーベルが、ヒット曲を生む若い男性グループと契約しようとしたのである。
1966年、米テレビ・ネットワークNBCはさらに一歩進み、一連のオーディションを通じて独自のグループを結成。バンドを人工的に作り出すという発想は、革命的な手であった。音楽グループを成功させる上で必要な要素を抽出することにより、NBCはポップ・ミュージックを生み出す全く新しい方法を切り開いた。しかし、4人の俳優兼ミュージシャンを管理下に置いて上手く操るのがNBCの目的であったにも拘らず、そこから誕生したザ・モンキーズはすぐにカウンター・カルチャーの信用を得て、その後50年にわたるキャリアを通じ、約7,500万枚のアルバムを売り上げることとなる。
架空のバンドには、斬新さが付き物であった。60年代後半には、アメリカン・コミックから誕生し、「Sugar、Sugar」で大ヒットを飛ばした、アニメ・バンドのアーチーズすら登場したが、成功への青写真に合わせてグループを組ませるという原理は、今日に至るまで人気があると共に成功を収めている。マネージャー、興行主、プロデューサー達は、ある漠然としたスターの資質を備えている個人を長い間探し求めていたが、バンド(グループ)という形態が定着すると、彼らは若い青年達から成る集団を発掘して、そのイメージを大衆受けするよう整える極意を見つけ出そうとした。
リヴァプールのビジネスマン、ブライアン・エプスタインが金鉱を掘り当てたのは、彼のレコード店<NEMS>にレイモンド・ジョーンズと名乗る若者が訪れ、ザ・ビートルズという地元バンドについて問い合わせた時だ。エプスタインは彼らを捜し当てたものの、革ジャンに身を包んだ男っぽいルックスや、ステージ上での未熟な振る舞いのままでは、大成功は望めないと考えた。それで洗練されたスーツを彼らに着せ、ステージ上での行動に幾つかの制約——禁煙、悪態禁止、ポテトチップスのつまみ食い禁止等——を設けることで、より幅広い聴き手に受けやすいイメージをバンドに与えることにしたのである。しかし時代が60年代から70年代に変わる頃には、それを受け継ぐ新たな世代が現れた。しかも今度は、年齢層がさらに若返ったのである。
50年代後半にベリー・ゴーディが設立したモータウン・レコードは、自ら『若きアメリカの音(The Sound Of Young America)』と名乗っていた。 モータウン所属のスターの多くは、リトル・スティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイのようなソロ・シンガーだったが、同レーベルから放たれた最大のヒット曲の多くが、グループ・ヴォーカルというフォーマットによるものだった。ジョージア州から米北部デトロイトに移住していたゴーディのルーツは、南部伝統のゴスペル・カルテット——若い男性グループが歌う四部合唱——にあった。 60年代のモータウンは、フォー・トップスや、テンプテーションズ、ザ・ミラクルズで大きな成功を収めていたが、70年代になると、同レーベルの成功は、さらに若いグループによって新時代へと続いていくことになる。
1969年、ゴーディがジャクソン家の兄弟をモータウンと契約させた頃には、既に彼らは何年もの間、共に活動を行っていた。彼らの初シングル「I Want You Back(邦題:帰ってほしいの)」は、1970年1月、ザ・ビートルズの最後のシングル「Let It Be」を引き摺り下ろす形で、全米シングル・チャート1位を獲得。それによって、ポップ界のメイン・テーブルに変化が起きていることを示したのである。世を席巻したジャクソン・マニアは、ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロン、そして幼いマイケルの写真が、雑誌の表紙からポスター、弁当箱など、ありとあらゆる所を飾るのを目にし、またアーチーズのように、彼らは土曜朝のアニメ番組にまで登場。ジャクソン5は80年代に入るまで成功を収めていたが、最終的にその王座を奪首したのは、彼ら自身の一員であった。モータウンはすぐにマイケルのソロ活動を開始させ、彼は1971年に「Got To Be There」でソロ・デビュー。このシングルは、後にキング・オブ・ポップと呼ばれることになる彼が2009年に亡くなった後も、永遠に終わりが来ないかのように、今日まで聴き継がれている一連のヒット曲の最初の1枚であった。
ジャクソン5向けに用意されていたある曲が、70年代初頭に大人気を博したもう1つのボーイ・バンド(ボーイズ・グループ)に発射台を提供することになる。ジョージ・ジャクソンが手掛けた「One Bad Apple」は、元々ジャクソン5用に書かれたものだったが、ゴーディが却下。そのため、ジョージはこの曲をMGM所属の“白人版ジャクソンズ”ことオズモンズに歌ってもらおうと考え、MGMに持ち込んだ。オズモンズもまた、アフリカ系アメリカ人から成るライバル勢同様に、何年も一緒に歌っていた家族グループであった。ジャクソンズと同じく、オズモンズのルーツも彼ら自身の文化的伝統に根ざしており、彼らの場合もまた、バーバーショップ・ハーモニーの歌唱からの影響が伺えた。驚異的な成功を見せたオズモンズは、隆盛が続いていたロックンロール・リバイバルやグラム・ロックの要素を取り入れ、「Crazy Horses」を始めとするヒット曲で、オズモンド・マニアと呼ばれたファンを熱狂させた。そして同時代の他のグループと同じように、グループの成功により、人気メンバーのダニーがソロ・キャリアに乗り出しただけでなく、末っ子ジミーや、妹マリーの派生的キャリアにも繋がった。
ボーイ・バンド現象として、現在捉えられているものを培養したシャーレが70年代だとすれば、80年代にはそれが、想像もつかない程の規模で実を結ぶことになる。
80年代初頭、ポスト・パンク/ニュー・ロマンティックのシーンからは、アダム&ジ・アンツ、デュラン・デュラン、スパンダー・バレエら、数多くのポップ・グループが出現。主に若いティーンエイジャーを対象に、魅力的な若い男性達をプロフェッショナルなやり方で世に提示するという基準を、彼らは満たしていた。だがこの中に、ボーイ・バンドと呼ばれる者がいるだろうか? 恐らくいないはずだ。では彼らと、80年代後半に英国とヨーロッパで莫大な成功を収めることになるブロスのようなアクトとを分けるものは何なのか?
あるアクトを正当に評価する一方で、別のアクトを評論家達が忌避する理由は、何世代もにわたり悩ましい問題であり続けている。単にデュラン・デュランがブロスよりも優れているというだけなのか、それともそれ以上の理由がそこにあるのか? デュラン・デュランがクラブを仕事場とし、社会的に価値を認められたシーンの出身である一方、ブロスは著名なマネージャー(ペット・ショップ・ボーイズも手掛けたトム・ワトキンス)の巧みな操作によって成功を収めたと見なされているということだろうか? その違いは、単なる高尚気どりなのか、それとも評論家の目には、解りやすい芸術的価値の方が、純粋なポップ感覚より優れて見えるのだろうか?
評論家の考えがどうであれ、ボーイ・バンドの存在は既に世の中に定着していた。 90年代が幕開ける頃、世界の頂点に君臨するボーイ・バンド、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックはその王座を維持し続ける決意でいたが、彼らの前には挑戦者達が列を成して待っていた。アフリカ系アメリカ人のR&Bハーモニー・シンガー4人組、ボーイズ・II・メンを擁して、このフォーマットの長い歴史を引き継いだのはモータウンだ。ヒップホップに影響を受けたビートと、伝統的なソウルのハーモニーを融合させることにより、このグループにはほぼ普遍的な魅力が備わっていた。彼らが1992年に発表したシングル「End Of The Road」は、13週間連続で全米チャート1位を制覇し、新記録を樹立。この記録は、25年を経た今日に至るまで続いているキャリアの中で、彼ら自身が何度も打ち破っている。
ポップの歴史において、ボーイズ・II・メンよりも多くの週を全米チャート1位で過ごした者は、数えるほどしかいない。それは、このようなアーティストの人気が揺るぎないことの証明である。いわゆるボーイ・バンドの多くが、駆け出しの頃には評論家達に軽くあしらわれるものの、彼らに対して批判的な評論家達が好む最先端とされるバンドの殆どを上回る、長いキャリアを築く者が数多くいることも事実だ。もちろんそれは、順応性による所が大きい。どんな音楽分野においても、時代の流れに順応して巧みに変化出来るアーティストが、キャリアを長続きさせられるのである。
一方、英マンチェスターでは、ナイジェル・マーティン=スミスが、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックのような米国出身アクトの成功を見習おうとしていた。既に若手ソングライターのゲイリー・バーロウと契約を結んでいた彼は、世界最大となることを目指したボーイ・バンドの結成に着手していた。その結果誕生したテイク・ザットには、ゲイリー・バーロウの他、ロビー・ウィリアムス、ジェイソン・オレンジ、マーク・オーウェン、ハワード・ドナルドが参加。 1990年から96年にかけ、彼らは英国およびヨーロッパで大きな成功を収め、その人気はビートルマニアと比較される域に達した。1996年に彼らが解散した際には、ショックを受けたファンの心のケアのため、特別な電話相談ホットラインすら開設されたほどだ。そして、ゲイリー・バーロウ、マーク・オーウェン、ロビー・ウィリアムスの3人は、それぞれソロでも成功を手にしている。中でもロビー・ウィリアムスの成功は、テイク・ザットに匹敵する規模で、彼らはほぼ常に表舞台で注目の的となっていた。テイク・ザットは2006年に再結成。第1期よりも大きな賞賛を浴び、現在も3人組として活動中だ。
ボーイゾーンもまた、テイク・ザットに続き、英国で大きな成功を収めたもうひとつのグループであった。意外な展開として、ボーイゾーンの一員、ローナン・キーティングは、ボーイゾーンのイメージに倣って結成したグループ、ウエストライフの共同マネージャーとなり、そのウエストライフはボーイゾーン同様の成功を収めることになる。
しかし、マーティン=スミスの願いにもかかわらず、テイク・ザットは、ボーイゾーンやウエストライフ同様に、英国と同じレベルの名声を米国で得ることは殆どなかった。米国では、また別のヴォーカル・グループが、彼が夢にしか見られなかったような類いの成功に向けて準備していたからだ。バックストリート・ボーイズは、米フロリダ州で1993年に結成。グループ名を冠したアルバムで1996年にデビューすると、世界中でセンセーションを巻き起こした。その後20年間、彼らは史上最高売り上げを記録したボーイ・バンドとなり、ほぼ全ての先輩達の2倍以上となる、1億6,500万枚のアルバム・セールスを全世界で達成したと伝えられている。
フロリダ出身のアクトがもうひとつ、ソロ・キャリアでの成功の踏み台としてのボーイ・バンドという伝統を引き継いだ。バックストリート・ボーイズのオーディションの過程で誕生したイン・シンクもまた、1996年にシングル「I Want You Back」でデビュー。だが彼らが「It’s Gonna Be Me」で全米チャート1位を獲得したのは、4年後のことである。同曲は、彼らの2作目のアルバム『No Strings Attached』からのシングル・カットで、リリース初週に240万枚の売り上げを記録。このボーイ・バンドの人気は、衰えの兆しを全く見せていなかった。だがもしかしたらイン・シンクは、ジャスティン・ティンバーレイクにキャリアの基盤を提供したことで、最もよく知られているかもしれない。ジャスティン・ティンバーレイクはグループ脱退後、音楽界と映画界の両方で並外れた成功を収めた。
21世紀に入ると、ボーイ・バンドは、『Xファクター』に代表されるタレント発掘オーディション番組から生まれる傾向が強まった。サイモン・コーウェルが仕掛け人を務めるヒット製造番組『Xファクター』で、2010年、ワン・ダイレクションは3位に終わったものの、それ以後、世界中で何百万枚ものアルバムを売り上げるまでになった。彼らは、デビュー作から4作目までのアルバム全てが全米チャートで首位を獲得した初めてのグループにすらなり、彼らがヘッドライナーを務めたツアーは、男性ヴォーカル・ハーモニー・グループによる史上最高の興行収入を達成したと伝えられている。
確かに、ワン・ダイレクションやバックストリート・ボーイズのようなアクトの成功は、ボーイ・バンド現象が現在も拡大中であることの証明となっている。それでもまだ我々は、その定義の本質にはたどり着いていない。マルーン5は依然として多くの点でその条件を満たしているが、それならザ・ビートルズも同様だ。あるいはジョナス・ブラザーズだってそうである。商業的および批評的に高い評価を常に受けてきたアルバムの数々を世に送り出しているというキャリアを以ってしても、テイク・ザットがボーイ・バンドであるということについて、異を唱える者は誰もいないだろう。突き詰めれば、各々のグループの評価は、彼らの音楽の質と順応力に委ねられているのだ。どのアクトも、その生死は自身の実力にかかっている。従って、彼らをボーイ・バンドだと見なそうが見なすまいが、一般的な図式においては、全く関係がないことなのだ。確かに分かっていることは、主に10代の若い聴衆を対象にして作られた音楽とイメージを備えた、魅力的な若い男性達から成るグループが、やがてまたひとつ誕生するだろうということである。
– Paul McGuinness
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