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【特集】アバ伝説 – スウェーデン最大の輸出品の歴史

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Abba

素晴らしいヒット曲の数々、秘宝が散りばめられたアルバムを通じ、我々はアバのレガシーに触れることができる。彼らのアルバムは世界で数億枚ものセールスを記録し、ミュージカル/映画『Mamma Mia!』は大成功、スウェーデン最大の輸出品であるアバの魅力は保証されている。

1974年の<ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト>で優勝したアバは、この40年間で最も影響力を持つグループの1つになった。70年代の彼らは、60年代のザ・ビートルズと同じだった。どちらのグループも、ほかに類を見ないほどポップ・ミュージックを支配した。ベニー・アンダーソンとビヨルン・ウルヴァースによる名曲の数々、美しい2人の女性フリーダとアグネタを中心にした素晴らしいパフォーマンス。要するに彼らは――史上最高と言ってもいいだろう――完璧なポップ・グループだった。

2013年5月、<ユーロヴィジョン・ソング・コンテスト>がスウェーデンで開催され、アグネタはニュー・アルバム『A』をリリースし、ストックホルムに彼らの博物館がオープンした。アバのレガシーは今、これまで以上に強力だ。

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Abba

彼らと「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」(以下ユーロヴィジョン)との関係は切り離せない。アバは多分、「ユーロヴィジョン」史上最もビッグな優勝者だ。1974年に開催されたコンテストでの彼らの「Waterloo(邦題:恋のウォータールー)」のパフォーマンスは、彼らが世界へ飛び立つきっかけとなった極めて重要な瞬間であり、「ユーロヴィジョン」を語る上で欠かすこともできない。

アバが「ユーロヴィジョン」で優勝するまでの道のりは滑らかだった、彼らがその才能を注ぐようになったとき優勝するのは運命づけられていたと見る向きもあるが、これは間違っている。「Waterloo」前、ベニーとビヨルンは「ユーロヴィジョン」の出場権を得ようと、ひっきりなしと言っていいほど何度も挑戦していたのだ。これら初期の失敗は、アバを結成するきっかけとなった。

ベニーがスウェーデン代表を目指し、「ユーロヴィジョン」コンテスト用に初めて曲を書いたのは1969年だった。これは上手くいかなかったが、その予選で彼は未来の妻/グループ・メンバーとなるアンニ・フリード(フリーダ)と出会った。このノルウェー人の女性は、別の曲で出場していた。彼らは、ベニー&ビヨルン同様、相棒となり、いいコラボレーターとなった。同じころ、ビヨルンは、すでにスウェーデン・チャートで1位を獲得し名声を確立していたシンガー、アグネタ・フォルツコグと組んでいた。アバの基礎は築かれた。しかし、輝かしい「ユーロヴィジョン」優勝はまだ遠く先のことだった。

Abba

ベニーとビヨルンは一緒に活動するようになり、「ユーロヴィジョン」の出場権を得ようと挑戦し続けた。1971年は失敗したが、1972年の曲はスウェーデン大会の3位まで行った。4人による初のアルバム『Ring Ring』をレコーディングし、彼らは新たな自信を抱き、タイトル・トラックで「ユーロヴィジョン」に応募した。同曲は最終的にはファンのお気に入りになったが、スウェーデン大会の3位、またもや国の代表にはなれなかった。

1973年、グループ名をアバに変え、ベニーとビヨルンは翌年の「ユーロヴィジョン」に備え、曲を作りレコーディングし始めた。この曲が、アルバムと同名タイトルの「Waterloo」だった。これは予選を通過し、彼らは初めてスウェーデン代表の資格を手に入れ、最終的に1974年度の「ユーロヴィジョン」で優勝した(この年の開催国イギリスは0点との評価を下したにもかかわらず)。コンテスト優勝後、「Waterloo」は600万枚近くのセールスを上げ、イギリスも含め世界各国で1位を獲得、史上最も売れたシングルの1枚になった。「ユーロヴィジョン」優勝が、アバの世界的な成功の始まりだった。しかし、これは多くの人達が信じているほど、単純でもあっという間の出来事でもなかった。

Abba

アルバム『Waterloo』に続き、バンドはアルバム『ABBA』(1975年)を発表し、最も愛されている彼らの曲の2つ「SOS」と「Mamma Mia」をヒットさせたが、またもや驚くことに全英チャートでは10位に入らなかった。しかし、そのすぐ後リリースした、まだ早すぎるようにも見えた初のベスト盤『Greatest Hits』は1位に輝き、2年以上に渡りチャート・インし続けた。『ABBA』の次のスタジオ・アルバム『Arrival』(1976年)は「Money, Money, Money」「Dancing Queen」「Knowing Me, Knowing You」など完璧なポップを収録しているにも関わらず、リリースされたとき、Rolling Stone誌から酷評されたことで有名だ。同誌は2004年の『The Rolling Stone Album Guide』で新たにポジティブなレビューを捧げている。

『ABBA: The Album』はもともと1977年にリリースされたが、UKでは翌年まで待たなくてはならなかった。前例のない予約の数で、プレスが追い付かなかったのだ。同時に、ポップ・ミュージック・ファンの間でカルト的な存在となった映画『ABBA: The Movie』が公開された。続く『Voulez-Vous』(1979年)は、幅広い人気を得たタイトル・トラックをはじめ、ほとんど全ての曲――10曲収録のうち7曲がシングル・カット(いくつかはB面だったが)された。

もう一枚のベスト盤『Greatest Hits Volume 2』を1979年にリリースした後、翌年、『Super Trouper』が発表された。名曲「The Winner Takes It All(邦題:ザ・ウィナー)」を収録する同作は、UKでその年最も売れたアルバムになった。彼らが一緒にレコーディングした最後のアルバムが、8枚目の『The Visitors』(1981年)だ。これは、大ヒットした「One Of Us」を含め、彼らの作品の中で最も革新的で洗練された曲のコレクションだと評価されている。1981年以降、ニュー・アルバムは発表されていないが、アバのコンピレーションはリリースされ続けている。その中には、1977年と1979年のツアーを収録したライブ・アルバム『ABBA Live』(1986年)もある。

Abba

グループは正式には解散していないかもしれないが、2組の夫婦は破局した(ビヨルンとアグネタは1979年に、ベニーとフリーダはその翌年に離婚した)。そして、メンバーはそれぞれ、変化に富み高く評価されている“バンド後”のキャリアを楽しむことになった。“アバのレガシー”は、アバというグループだけではない!

1983年初め、ベニーとビヨルンはティム・ライスと組み、ミュージカル『Chess』のために曲を作り始めた。『Chess』は1986年にロンドンのウエスト・エンドで開幕し、すぐにブロードウェイに進出、いまでも世界中で上演されている。ビヨルンとベニーが深く関与したミュージカル『Mamma Mia!』は、1999年にロンドンで初上演され、『Chess』同様、世界中でプレイされている。2008年7月には、メリル・ストリープ、アマンダ・セイフライド、ピアース・ブロスナン、コリン・ファース、ジュリー・ウォルターズが出演した『Mamma Mia!』映画版が公開された。

フリーダとアグネタは、ソロ・キャリアの道を進み、成功を収めた。フリーダが1982年にリリースした『Something’s Going On』は、アバ最期の数ヶ月にレコーディングされたもので、よりロック風なサウンドを聴かせ、フィル・コリンズの演奏とプロデュースが目玉となった。アグネタもソロ・シンガーとして活動を続け、世間の注目を集めるのを避けているにも関わらず、とくにスウェーデンでは成功し続けている。フリーダの『Something’s Going On』の翌年、彼女が発表した『Wrap Your Arms Around Me』はUKアルバム・チャートの18位をマークした。2013年の英語で歌ったアルバム『A』では、ゲイリー・バーロウ(テイク・ザット)とコラボし、アグネタのヴォイスがいまだポップ界のトップレベルであることを証明した。

Abba

アバの1992年に発表されたコンピレーション・アルバム『ABBA Gold』は、大セールスを記録し、英国の4家族に1つはこのアルバムを持っているらしい。ここに収録される曲が幅広くカヴァーされてきたのは驚きではないだろう。ザ・ビートルズ同様、アバもカヴァー・ヴァージョンが人気を博すバンドだ。その中には、リチャード・クレイダーマンがプレイした「Dancing Queen」、元セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスによる「Take A Chance On Me(邦題:テイク・ア・チャンス)」、イレイジャーの「Lay All Your Love On Me」、カルチャー・クラブの「Voulez Vous」などがある。さらには、レザー・ナンの「Gimme! Gimme! Gimme! (A Man After Midnight)」、サンフランシスコ・ゲイ・マンズ・コーラスの「Does Your Mother Know」は異質のカヴァーも誕生した。

文:リチャード・ハヴァーズ



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