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家族や、兄弟の絆で世界を席巻したミュージシャンやバンド達
訪問販売のセールスマンだったアルヴィン・カーターは、ヴァージニア州のある一軒の家の前庭に足を踏み入れた時、5バーのオートハープ(訳注:19世紀にドイツ人のツィマーマンが発明したと言われる楽器。日本の琴に似た構造の板状楽器だが、コードバーと呼ばれる棒状の木が横に、弦がタテに張られており、コードバーの数でプレイできるコードの種類が決まる。コード名の書かれたボタンを押し、弦をかき鳴らしてリュートのようにプレイする)を弾きながら、機関車の事故を描いた定番曲「Engine 143」を歌うティーンエイジャーのサラ・ドハーティーという娘に出逢った。この1914年の偶然の出会い、そして一年後の彼らの結婚が、その後一世紀以上にわたるカントリー・ミュージックの歴史の中で連綿と受け継がれることになった音楽一家の出発点だった。
A.P.カーター、彼の妻、そして義理の妹のメイベルは「Bury Me Under The Weeping Willow」、「Keep On The Sunny Side」、そして 「Wildwood Flower」といったカントリー・ミュージックの名曲を発掘したり、書いたり、レコーディングすることで、20年代から30年代にかけて絶大な人気を誇った。
[layerslider id=”0“]もっとも商業的成功を手にしたからと言って、彼らが日常的な家庭の問題と無縁でいられたわけではなかった。A.P.カーターとサラは1939年に離婚し、その後彼女は従兄と結婚したが、ザ・カーター・ファミリーは1943年までずっと活動を共にし、アメリカ全土で放送されていたラジオの冠番組の力もあって、国内きっての音楽スターとして君臨していた。
1943年の解散後も、メイベルと彼女の娘たちはファミリーのレガシーを守り続けた。その名門に新風が吹き込んだのは50年代、ジューン・カーターがジョニー・キャッシュと恋に落ちた時だった。二人の声はデュエット・ソングの中で美しく溶け合い、絡み合った。1966年、ジューン・カーターとジョニー・キャッシュがようやく結婚することになるその2年前に、ジョニー・キャッシュはこれっきりで構わないから一緒に歌って欲しい、とサラとメイベルを口説き落とし、『An Historic Reunion: Sara And Maybelle The Original Carters.』のレコーディングに漕ぎ着けた。自らペンを振るったライナーノーツの中で、ジョニー・キャッシュはこう書いている:「ジャック・クレメントと私を除けば完全なる部外者立ち入り禁止のセッションで、その立ち会いを許されたことは我が人生最大の名誉のひとつだったと言っても過言ではなかった」。
マス・コミュニケーションやデジタル・テクノロジーが全盛を迎える前の時代、ザ・カーター・ファミリーは珠玉のアメリカン・ルーツ・ミュージックを率先してまとめ、管理し、未来の世代へと受け渡していく役割を果たした。メイベルはオールマン・ブラザーズ・バンド(いまやどちらも故人となったグレッグ・オールマンとデュアン・オールマンの兄弟から成る)の大ファンとなり、彼らがザ・カーター・ファミリーの代表曲 「Will The Circle Be Unbroken?」をカヴァーした時には大いに喜んだ。若い世代に歌を伝え、音楽の灯を絶やさないようにしたいという強い思いは、20世紀初頭の一部ミュージシャンたちが共通して抱いていた根源的な願望だった。
ジューン・カーターの娘でありジョニー・キャッシュにとっては義理の娘に当たるカーリーン・カーターは、これだけ有名な音楽一家に生まれついたことで得た財産についてこう語っている:「夕飯の時になるといつもみんなで歌を歌う習慣があってね。ギターを回してそれぞれ1曲プレイしたり、何かしら話をしたり、冗談を言ってみんなを笑わせたりするの。とても楽しかったのよ、何しろいつも誰かしら凄い人たちが輪の中に加わっていたからね。ある時なんかポール・マッカートニーが、私のおんぼろピアノの前に座って‘Lady Madonna’を披露してくれたのよ。私はもう『やだ、どうしよう! あの次に何を歌えばいいの?』って思ってたわ」。
英国においてザ・カーター・ファミリーに最も近い存在を挙げるなら、恐らくザ・コッパー・ファミリーだろう。彼らの7代目は今も現役で活動中だ。ボブ・コッパーと彼のサセックスの家族は、イングランドのフォーク・ソングの発掘・収集で知られており、その中には「Spencer The Rover」のように、ザ・コッパー・ファミリーとピート・シーガーをはじめとするアメリカ人フォーク・シンガーたちとの友情が縁で、海の向こうのアメリカでも歌い継がれるようになった歌も含まれている。
更に時代を下ってその名を知られるようになったフォーク・ミュージック・ファミリーと言えば、英国のカーシー=ウォーターソンの一派だ。マーティン・カーシーはボブ・ディランやポール・サイモンがフォーク・ミュージックの面白さに目覚めるきっかけを作った人物で、彼と妻のノーマ・ウォーターソンは、実の家族であるマイク、エレーン、そしてラル・ウォーターソンと共に人気バンドでプレイしていた。
2010年、イライザ・カーシーと彼女の母ノーマは珍しいものを作った:母と娘によるアルバム『Gift』である。「フォーク・ミュージックはファミリー・ミュージックだもの」イライザ・カーシーは言う。「人々の手によって受け継がれ、何世代にもわたって生き続けていくものよ」
とは言え、実家を訪れたかの有名なザ・ビートルズのメンバーの足元で直接、後に自分の商売道具となる歌を教えてもらえるほど運に恵まれたミュージシャンはそうはいない。大抵のバンドは気まぐれや思いがけない巡り会わせで結成されたもので、その多くは大学や専門学校での出会いからスタートした――家族のように強い絆が育まれやすい場だ。クイーンはロンドンのインペリアル・カレッジで天文学専攻の学生だったブライアン・メイが学友たちと結成したバンドであり、他にもコールドプレイやトーキング・ヘッズ、パブリック・エネミー、R.E.M.、ザ・ドアーズなど、学生時代の仲間が有名バンドに発展したケースは少なくない。
しかしながら、相対的には幼少期に共通のルーツを持ったメンバーたちが結成したバンドが多いのも確かだ。しかもこのことに関しては、音楽ジャンルは殆ど関係ないようなのである。カントリー、フォーク、ブルーズ、ジャズ、ソウル、ポップ、ロック、ヘヴィ・メタル(ヴァン・ヘイレン)、それにパンク・ロック(イギー&ザ・ストゥージズは一部ファミリー・メンバーのいるバンドで、ロンとスコットのアシュトン兄弟をそれぞれギターとドラムスでフィーチャーしていた)まで、ファミリー・バンドは何組も存在した。
血を分けた兄弟姉妹だからと言って、才能は必ずしも公平に割り振られることはなく、ファミリー・メンバーのうちの誰かひとりが飛び抜けて傑出したミュージシャンとして大成することもしばしばだった。インディアナポリス生まれのモンゴメリー・ブラザーズはベースのモンク、ピアノのバディ、ギターのウェスというトリオ編成で、モンクとバディも腕のいいミュージシャンだったが、2人を差し置いて燦然と輝いたのは何と言っても中の弟で、彼は後にジャズ史において屈指の影響力を誇るギタリストとなった。
ニューオーリンズでは複数の世代にわたるジャズ一家が多い(バンド・リーダーの息子ヘンリー・“レッド”・アレンからコットレル・ファミリー、更にはエドワード・ホールとその息子たちに至るまで)が、ことジャズの発展に欠かせない貢献を果たした点においては、強力な音楽的家長から端を発した一族のもうひとつの例、マルサリス一家の右に出る者はいないだろう。ピアニストのエリス・マルサリスは息子たちに対してジャズ・ミュージシャンになることを奨励し、ブランフォード、デルフィーヨ、ジェイソン、そしてウィントンの4人は順にその流れに従った。トランペッター兼コンポーザーのウィントンも、リンカーン・センターにおけるジャズ・プログラムの共同創設者として、自らの名を音楽史に刻んでいる。
エリス・マルサリスは、アメリカ海軍徴募担当で60年代にファミリー・バンドの構想を抱き、やがて6人の子供たち――ビル、ボブ、バリー、ジョン、スーザン、ポール――に妻のバーバラを加えたバド・カウシルに比べると穏やかな牽引役だった。ザ・カウシルズは2000万ドル以上のセールスを挙げ、その後も次々にヒットを放った。彼らはまた、デヴィッド・キャシディ主演による70年代の大人気TV番組『The Partridge Family』のアイディアの元ともなったが、後に判明したところによれば、バド・カウシルの圧制下での暮らしは、ドラマの中の快活なパートリッジ一家の健全ぶりとはかなり事情が違ったようだ。
子供たちはしばしば、音楽に対する深い愛情がもたらす喜びを知る親たちから叱咤激励された。自らも少年時代に聖歌隊で歌っていたローバック・“ポップス”・ステイプルズは、ゴスペル・ミュージックの歴史における重要人物である。彼と妻のオセオーラは3人の娘と息子1人に恵まれ、全員がごく小さいころから歌を始めた。彼らはファミリー・ゴスペル・グループのザ・ステイプルズ・シンガーズを結成し、中心メンバーのメイヴィスを擁してゴスペルへの愛を人々に広め、アメリカで第一線を張るヴォーカル・グループのひとつとなった。
1965年、リチャード・カーペンター(キーボード)と彼の妹のカレン(ドラムス)は共通の友人ウェス・ジェイコブス(後にポップ・ミュージックから路線変更し、デトロイト交響楽団でチューバ奏者となった)と共にジャズ・トリオをスタートさせる。彼らがアメリカの音楽史上屈指の傑出したファミリー・バンドとなったのは、カレン・カーペンターの美しいコントラルト[訳注:女性の最低音域]・ヴォーカルをフィーチャーしたサウンド作りを始めてからのことだ。 「We’ve Only Just Begun(邦題:愛のプレリュード)」、 「Rainy Days And Mondays(邦題:雨の日と月曜日は)」、 「Please, Mr Postman」といったヒット曲の数々を収めたアルバムは全世界で1700万枚以上のセールスを記録しており、バート・バカラックの 「Close To You(邦題:遥かなる影)」のカヴァーは1970年にグラミー賞2部門を獲得、更に名曲「For All We Know(邦題:ふたりの誓い)」は1971年にアカデミー賞最優秀オリジナル曲賞に輝いている。
悲しいかな、彼らの紡ぎ出す素晴らしい音楽は、カレン・カーペンターが僅か32歳で心臓麻痺による悲劇的な死を遂げたために終わりを迎えた。しかし嬉しいことに、リチャード・カーペンターとその5人の子供たちは音楽を続けており、時折カーペンターズのトリビュート・イヴェント等で演奏している。
恐らくは最も有名な、メンバー全員が家族で固められたスーパーグループと言えばジャクソン5だが、彼らもまた典型的な専制君主のジョー・ジャクソンに支配されていた。今はもう故人となったソウル・シンガー、ボビー・テイラー(後に彼らがモータウンとの契約を取り付けるために一役買った)は1968年、まだ少年だった彼らを観た際、「もう既に歌もダンスもジェームズ・ブラウンばりにこなせた」当時9歳のマイケルに空恐ろしいものを感じたと言う。
彼らの初期のパフォーマンスにあったエナジーとダイナミズム―― 「I Want You Back(邦題:帰ってほしいの)」や 「ABC」で聴けるような ――は、絶え間ない練習と血のにじむような努力、各地のシアターをくまなく回る“チトリン・サーキット”を礎に築いた揺るぎない実力と自信、そして音楽に対する深い理解と天賦のカリスマの賜物だった。ジャッキー、ティト、ジャーメイン、マーロン、そしてマイケルというインディアナ州ゲイリー出身の5人兄弟は、白人オーディエンスから人気を博した黒人ティーン・アイドルの草分け的存在だったのである。後のラインナップには下の弟のランディと妹のジャネットも加わっており、ソロになったマイケルが手にした栄光と名声、あまりに早い死という話題の派手さのために、時にこの史上最高のファミリー・バンドの功績に対する評価は薄れがちだが、彼らは現在もバリバリに現役で活動を続けており、2017年には新たなワールド・ツアーを展開中なのだ。
もうひとつ息の長いファミリー・バンドと言えば、元はユタ州のバーバーショップ・カルテットとしてスタートしたジ・オズモンズだ。ドニー・オズモンドは後にソロ・アーティストとして大成功したものの、グループは(様々に形を変えながら) いまだ健在であり、現役として活動を続けている。一番最近のパフォーマンスは2008年の50周年記念の祝賀イヴェントで、総勢9人のオズモンド兄弟姉妹がステージに揃った。
ジャクソンズ同様、ジ・オズモンズの成功の鍵となった最大のファクターは、彼らがTVというメディアの威力を熟知していた点にある。ジ・オズモンズはアンディ・ウィリアムスやジェリー・ルイスがホストを務める人気番組にレギュラー出演し(やがて自らの冠番組を持ち、更にチャンネルまでも持つようになった)、カメラの前で彼らが見せるソツのなさは“ワン・テイクのオズモンズ”の異名を取るほどだった。
ジ・オズモンズは血の繋がった兄弟たちだったが、時には姉妹や兄弟にいとこを加えるなど、遠い血縁や親戚同士でバンドが結成されることもある。グラディス・ナイト&ザ・ピップス(「Midnight Train To Georgia(邦題:夜汽車よ!ジョージアへ)」 や 「I Heard It Through The Grapevine(邦題:悲しいうわさ)」で知られる)はグラディスとメラルド・“ブッバ”・ナイトの姉弟と共に、彼女たちの従兄弟であるエドワード・パッテンとウィリアム・ゲストがフィーチャーされていた。
もう一組、ディスコ全盛時代に数々のヒットを放ったアイコン的なファミリー・バンドと言えばビー・ジーズである。兄弟で構成された音楽グループが大成功を収めるのはさして珍しいことではない――アイズレー・ブラザーズは60年代に「Twist And Shout」等の曲で大いなる商業的成功を謳歌していた――が、ポピュラー音楽の歴史の中で、40年代末にマン島で生まれたバリー・ギブとロビン&モーリスの双子の兄弟たちほどのレコード・セールス力を持っていたミュージシャンは殆ど存在しない。
マイケル・ジャクソンと並んで、ビー・ジーズはオールタイムを通じて5本の指に入る音楽界の稼ぎ頭だ。彼らは全世界で1億1000万枚を超えるレコード売上を誇り、60年代から90年代までの10年毎にいずれもNo.1ヒットを記録している。彼らの音楽は時に厳しいまでに過小評価されるが、ソングライティング、アレンジメント、プロダクションのいずれも熟練の技術とセンスがちりばめられていた。彼らのペンによるヒット曲は「Massachusetts」、 「How Deep Is Your Love(邦題:愛はきらめきの中に)」、 「Islands In The Stream」、そしてソウルの定番 「How Can You Mend A Broken Heart(邦題:傷心の日々)」等々で、フランク・シナトラやジャニス・ジョプリン、オーティス・レディングらにもカヴァーされた実績がある。
ビー・ジーズの音楽は3和声のハーモニーを基調にしており、兄弟たちがリード・ヴォーカルを取る傍らで、今は亡きモーリス・ギブがよく穴埋め的にバッキング・ヴォーカルを務めていた。もっとも、バンドの機略に富んだソングライティングとアルバム・プロダクションを具現化するためには、3人全員が不可欠な要素を担っていたのだ。「僕らはひとりでも問題ない」モーリス・ギブはかつてそう語っていた。「2人ならかなり良い、でも3人が一緒に合わされば、魔法が生まれるんだ」
トルストイの「幸福な家族は皆よく似ている;不幸な家族はそれぞれに不幸の形も違うものだ」という有名な格言は、音楽業界においてはまさしく言い得て妙だ。ごく普通の家族同士にあるストレスや緊張状態は言わずもがなだが、成功したミュージシャンともなればそこに金の問題が加わり、クリエイティヴ面でのプレッシャーが加わり、アーティスト同士としての嫉妬も上乗せされて、衆目の中でも修羅場が展開されることがしばしばだ。
ジ・アンドリュース・シスターズは、ボズウェル・シスターズと並んで、史上最も人気を博したヴォーカル・グループのひとつだったが、絶え間ないツアーのストレスに耐えきれず、50年代に2年間の解散状態を経験している。それから約10年後に、ザ・シャングリラズ――「Leader Of The Pack」で有名――は、一卵性双生児のマージとメアリー・アン・ガンスターが音楽制作に幻滅し、個人的な問題にも悩まされた挙句に、5年間で袂を分かった。
ザ・ポインター・シスターズはそうしたグループと比べれば、名声の要求するところに上手に対処してきた方だ。体制こそ様々に形を変えてはいるが――トリオとして、またカルテットとして――彼女たちは結成から約半世紀近くになる現在でも、相変わらず現役として活動を続けている。彼女たちの2017年版ラインナップにはオリジナル・メンバーの長女ルースの孫娘、サダコ・ポインターが加わっている。
スライ&ザ・ファミリー・ストーン――グループの中心はスライ・ストーンと彼の弟のフレディ、妹のローズ――も、家族ではないメンバーたちと足並みを揃えてやっていくために、余分な悩みを抱えることになった。アメリカで人種差別問題を撤廃することに成功した先駆者的なメジャー・ロック・バンドも、何度となく激しい意見のぶつかり合いを繰り広げていた。バンドでは「家族の一員のように」扱ってもらったと話していたラリー・グラハムは1972年に脱退するが、後に自らの家族に影響を及ぼすことになる。息子のダリック・グラハムは音楽業界に入り、一方で彼の甥はカナダ人ラッパーのドレイクだ。
ザ・ブラザーズ・ジョンソンはスライ・ストーンと同年代だが、ごく幼い頃から身内で共に音楽への愛情を抱いたことが、いかにしてその道のプロになろうというモチヴェーションに繋がっていったかという好例である。2015年に亡くなったロサンゼルス生まれのルイス・ジョンソンは、3人兄弟の末っ子だった。幼い頃、彼は兄のトミーとジョージと一緒に、彼らの父親がシアーズ・ローバック社製のキットで手造りしてくれた一本のギターを共有していた。ショッピング・モールでマリアッチ・バンドのミュージシャンが大型のアコースティック・ベース、ギタロンを弾いているのを観たルイスは、8歳頃からベースをプレイするようになる。ティーンエイジャーになると、3人は従兄のアレックス・ウィアーを加えてザ・ジョンソン・スリー・プラス・ワンと言うバンドを結成した。
彼らのファースト・アルバム『Look Out For #1』はクインシー・ジョーンズがプロデュースを手掛け、1976年にリリースされると100万枚を超えるセールスを記録した。シングルの「I’ll Be Good To You」、 「Stomp!」 、そして 「Strawberry Letter 23」はいずれもBillboard誌のR&BチャートでNo.1を獲得した。ルイスは卓越したスキルでサンダー・サムズ(Thunder Thumbs)というあだ名を供され、世界的に最も引く手あまたのセッション・ミュージシャンとなった――彼はマイケル・ジャクソンのアルバム『Off The Wall』と『Thriller』の両方でベースを弾いている――が、兄弟たちはずっと仲良しのままで、21世紀になってからも何度となく再結集してはライヴやアルバムのレコーディングを行なっていた。
3人兄弟といとこ1人という組み合わせで、音楽界に更に大きな衝撃と影響をもたらしたバンドと言えば、ビーチ・ボーイズである。ブライアン、カール、デニス・ウィルソンは彼らの両親、マレイとオードリーの励ましと支援の下、音楽の腕に磨きをかけた。カール&ザ・パッションズを始め、名前こそコロコロと変わっていたものの、初期のバンドで一貫して中心的なクリエイティヴ・フォースの役割を果たしていたのはブライアンで、やがてバンド名はまさにそのイメージを集約するかのような、ビーチ・ボーイズに落ち着く。専制君主的なところがあった父親のマレイ・ウィルソンは、息子たちとキャピトル・レコードとの契約を取りつけ、ビーチ・ボーイズはそこで「Surfin’ USA」、 「Good Vibrations」、 「California Girls」、 「I Get Around」そして 「Wouldn’t It Be Nice(邦題:素敵じゃないか)」など、ポピュラー・ミュージック界を代表する名曲を次々に世に送り出すことになった。
残念ながら、カールとデニス・ウィルソンが若くしてこの世を去る遥か前に、創作上の方向性の相違と兄弟同士特有の対抗意識が、彼らのロマンティックな海岸物語を崩壊させてしまった。けれどもファミリーの歴史物語はその後も途切れることなく続いており、ブライアン・ウィルソンと彼の従兄のマイク・ラヴがそれぞれ自らのバンドを率いてライヴ・ツアーを行なったり、2012年には再結成版ビーチ・ボーイズとしてアルバム『That’s Why God Made The Radio』をリリースしたりしている。
彼らの次の世代もまた、家業である音楽ビジネスに参入済だ。ブライアンの娘であるカーニーとウェンディ・ウィルソン:マイク・ラヴの息子と娘、クリスチャンとアンバー・ラヴ:カール・ウィルソンの息子、ジャスティン・ウィルソン:そしてデニス・ウィルソンの息子、カール・B.ウィルソンは、2012年にカリフォルニア・サーガという名前でグループを結成し、自ら「アメリカのバンドの物語の次の章」という売り文句で活動を展開している。
人類史上最初の兄弟の不和を経験したのはカインとアベルだったかも知れないが、音楽界にも厄介な、時には暴力沙汰にまで発展する血族間の仲違いは数多く起こっている。この上なく調和した音楽を作り上げていたドンとフィル・エヴァリーは、ステージ上での大喧嘩という派手なスタイルで決裂し、二人のパートナーシップはそれから10年元には戻らなかった。幸いなことに、エヴァリー・ブラザーズは1983年9月にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで再結成され、口も利かなかった10年間の歳月に終わりが告げられた。
『Brothers In Arms』などというタイトルのアルバムを出しながら、ダイアー・ストレイツのスターであるマーク・ノップラーも、弟のデヴィッドとの激しい応酬の後、互いにすっかり疎遠になってしまった。ザ・キンクスのレイとデイヴのデイヴィス兄弟もまた痛烈な意見の対立から断絶し、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルのジョンとトム・フォガティ兄弟に至っては公の場で罵り合っている。最近ではブリットポップの名物兄弟、リアムとノエルのギャラガー兄弟が、どうやら終わりなき泥仕合をマスコミを通じて続ける気マンマンのようだ。
もっともこうした他山の石的なエピソードと同じくらい、この世界にはハッピーな話もあるものだ。ザ・スタットラー・ブラザーズのドンとハロルド・リードはもう何十年も友好的にツアーを続けており、アンとナンシーのウィルソン姉妹(ハート)、アンガスとマルコムのヤング兄弟(AC/DC)、一卵性双生児のチャーリーとクレイグ・リード(ザ・プロクレイマーズ)、そしてティミンズ3兄弟(ザ・カウボーイ・ジャンキーズ)らのファミリー・ミュージシャンたちもそれは同様だ。
INXSの波乱に満ちた35年の歴史を通し、ジョン、ティム、アンドリューのファリス兄弟はひとりも欠けることなく強い結束を維持している。1997年、まだあどけない少年時代に「MMMBop(邦題:キラメキMMMBOP)」をヒットさせたアメリカン・ロック・バンドのハンソンは、現在まだ息長く活動を続けて来られた理由として、兄弟3人(テイラー、アイザック、そしてザック・ハンソン)全員がニューヨークやロサンゼルスに拠点を移さず、故郷のオクラホマ州タルサでプライヴァシーを守って生活できていることを挙げる。
エステ、ダニエル、アラナの3姉妹から成るL.A.のバンド、ハイムは「姉妹間のテレパシー」について語り、3人で過ごす時間をコンスタントに持つことはリフレッシュになると主張している。「私たちは本当に一緒にいるのが楽しいのよ」ダニエルは言う。「うちの両親は、小さい頃から私たちに少しずつ、最後に頼れるのはお互いしかいないんだっていう考えを刷り込んだのよ」
家族で一緒に過ごす時間を楽しむことができるなら、オン・ザ・ロードの毎日でもさぞかし楽しめるに違いない。ウィリー・ネルソンは自ら率いるウィリー・ネルソン・ファミリー・バンドのためにカスタム・メイドのバスを造り、姉のボビー・ネルソンと毎日接することができるのが嬉しいのだと語っていた。
長きにわたり一緒に活動していたファミリー・グループが解散しても――例えば結成35周年を迎えた2012年にハリウッド・ボウルでさよならコンサートを行なったニューオーリンズのR&Bスター集団、ザ・ネヴィル・ブラザーズのように――音楽を生み出すことに対する情熱までもが消えてしまうとは限らない。実際アート、チャールズ、アーロン、そしてシリルの個性豊かな兄弟たちは、皆その後も独自の音楽プロジェクトに打ち込んでいる。
そして、音楽ファミリーの間で生じる意見の相違が、必ずしもすべて消えない不協和音のまま終わってしまうわけではない。2014年のアルバム『Family』で、リチャード・トンプソンは別れた妻のリンダと再びタッグを組み、併せて2人の間の子供であるテディとカミ、更には孫のジャック・トンプソンまでをもフィーチャーしている。テディは彼の書いたアルバム・タイトル曲の中で、有名なミュージシャンの両親を持つことの悲哀についての感慨を吐露する(♪ショーン・レノン、キミなら僕の気持ちが分かるだろう♪)が、直後にそれに対してリチャード演じるむっとした父親が切り返し(♪自分の人生を生きるのに忙しくしていれば/私の人生を生きることもないはずじゃないか♪)絶妙な効果を出している。みんなで集まって一緒に音楽を作ることで、自分たちはセラピーにかけるお金を節約できたのだとリチャードは冗談めかして語る。
テディ・トンプソンのユーモアたっぷりの歌はしかし、シビアな真実を含んでいる。有名ミュージシャンの子供たちは、たとえ音楽以外に天職だとを感じられるものが見つからなかったとしても、自分なりの爪痕を残すことの大変さと、成功にひそむ様々な罠を目のあたりにしながら大きくなるのだ。親譲りの豊かな才能と強い意志を持ってしても、その道の困難さは変わらない。ジェイコブ・ディラン、ダーニ・ハリスン、アダム・コーエン、シェイナ・モリスン、ハーパー・サイモン、それにアダム・マッカートニーは、名実共に華々しい足跡を自分の力で辿って行こうとしている若く意欲的なミュージシャンたちのごく一部である。無論、有名ミュージシャンである親たちが業界に顔が利くからこそ、彼らの子供たちが比較的気軽にそちらの世界で運試しをしようとする傾向があることも否めない。
それでも、例えばラヴィ・シャンカールの娘のノラ・ジョーンズが、一貫して優れた作品を出し続け、堅実なキャリアを築いていることからも分かる通り、やはり才能というのは確実に世に出るものなのだ。ジョニー・キャッシュの娘のロザンヌ・キャッシュにしても、スティーヴ・アールの息子ジャスティン・タウンズ・アールにしても、有名ミュージシャンの子供が独自のアイデンティティを打ち出すことは可能だという好例である。
才能は子孫に継承され得るという説を裏付ける証拠は存在する。遺伝子レベルにおける音楽的才能についての研究はあまり症例が多くないが、先頃ザ・ジャーナル・オブ・メディカル・ジェネティクス 誌に掲載された論文によれば、この説には科学的根拠があると言うのだ。研究者たちはプロのミュージシャンの家族、継続的に音楽活動をしているアマチュア・ミュージシャンの家族、あるいは両者のどちらかを親戚に持つ家族のひとりひとりを分子構造モデルと統計テストを用いて分析した。それによれば、ミュージシャンの子供たちはより高い確率で音楽的能力を継承していることが確認され、その理由のひとつとして考えられるのは、聴覚を使っての構築作業や、音の高低や拍子などを即座に区別できる音楽的スキルと関連付けられた染色体を含む遺伝子が受け継がれているためだと言うのだ。
たとえ遺伝子的なアドヴァンテージがあるにせよ、世間に知られた苗字とそれにまつわる遺産を受け継いでいくことは決して生易しいものではない。ハンク・ウィリアムスJr.とハンク・ウィリアムスIII世はまだまだ精進が必要だろう。カントリー界のレジェンドの長男は、父親に近い音楽性で自分なりの勝負を挑んでおり、一方シェルトン・ハンク・ウィリアムス(あるいはハンク3と呼ばれることも多い)はアスジャックというパンク・バンドでプレイしている。彼の義理の妹ホリー・ウィリアムスはもっと伝統的なカントリー・ミュージック路線だ。ちなみにスーパースターの親を持っていたとしても、子供がそれを超える商業的成功を収めることもないわけではない。例えばエンリケ・イグレシアスは、レコードの総売り上げではかつてヒットメイカーだった父親のフリオを上回っているのである。
時には親や配偶者の音楽を血縁者が守り続けたいと願うケースもある。ジョン・コルトレーンのレガシーは、ハーピスト兼キーボーディストで、70年代にはかの偉大なるサキソフォニストの提唱したスピリチュアル系“スペース・ジャズ”路線のアルバムも出していた彼の妻アリスの手によって保護されている。ジョン・コルトレーンの息子ラヴィは父親の死後、同じように革新的テナー・サックス奏者を目指している。自らのアルバムのレコーディングのみならず、彼は母親の2004年のアルバム『Translinear Light』のプロデュースも手掛けたが、このアルバムにはジョン・コルトレーンの楽曲も4曲収められている。ジョン・コルトレーンの末息子のオランは、“エッジの利いたソウル”・トリオ、オラニアンをスタートさせている。同様に父親の仕事を讃えているのはドウィージル・ザッパで、彼のザッパ・プレイズ・ザッパ・アンサンブルは父親である故フランク・ザッパの音楽を可能な限り原曲に忠実に再現するために作られたグループである。
悲劇や喪失をきっかけに、遺された家族が最高の作品を生み出すケースもある。ボブ・マーリーの4人の子供たち――シャロン、セデラ、ジギー、そしてスティーヴン――と妻のリタは、家長の悲劇的な死を乗り越えて自分たちのグループ、ザ・メロディ・メイカーズを結成、数多くのアルバムをリリースし、うち3作がグラミー賞を獲得している。ジギー・マーリーはソロ・アーティストとしても成功を収めており、またこの数年の間にボブの孫に当たるジョー・マーサやダニエル・バンバータ・マーリーも、それぞれファミリーの歴史に新たなページを書き加えている。
どんな家族も経験することだが、共に過ごす時もあれば離れる時もあるのはごく自然の成り行きだ。ザ・コアーズ――アイルランドの小さなパブで演奏することろからスタートしたフィドル・プレイヤーの一家――は90年代に何枚もベストセラー・アルバムを出しながら、メンバーたちがそれぞれにソロ・プロジェクトや家庭生活を優先させるために、約10年近くにわたってシーンから姿を消していた。しかし2015年、アンドレア、カロライン、ジム、そしてシャロン・コアは満を持して再集結し、再結成ツアーとニュー・アルバムを発表した。
不和による決裂ではなかったこともあり、長い活動休止期間の間にすっかり大人になったとは言え、ザ・コアーズのメンバーたちは一緒にプレイするという本能的な感覚をあっと言う間に取り戻した。彼女たちは過去100年の間に素晴らしい音楽を生み出してきたファミリー・バンドの長い伝統の系譜の守り手なのだ。シスター・スレッジの印象的な歌詞の通り: “We are family. Get up everybody and sing.(私たちはファミリーじゃないの/さあみんな、立ち上がって歌いましょう)”。
Written By Martin Chilton
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