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1973年は音楽の当たり年だった
1973年がヴィンテージ・イヤー(=当たり年)だったかと訊かれた時、「それは違う」と答える人もいるだろう。UKシングル・チャートでは、ポップ・バンドのルーテナント・ピジョンのコミック・ソングが例年よりも多くチャートインし、アメリカでも状況は大して変わらなかったために、40年にわたり、「それは違う」と答えた彼らは誤った結論を信じ込まされてきたのだ。しかし実際のところ、1973年は、過去40年間で特に大きな成功を収めたアーティストの傑作アルバムが、数多くリリースされた年でもある。影響力の大きな真の名盤の豊作年となった1973年は、思い出すべき価値のある年だ。同年中、多くの大物アーティストが、自己ベストとされるアルバムを制作したのだ。
また、過去から脱して新たな方向性を模索しようという意志を持ったアーティストと並んで、新人アーティストがブレイクした年でもあった。解散から3年が経ったザ・ビートルズは、見事に編集された赤盤と青盤の2枚組コンピレーション・アルバムを1973年4 月にリリースし、大衆の興味を掻きたて続けた。『Goat’s Head Soup(邦題:山羊の頭のスープ)』をリリースしたザ・ローリング・ストーンズや、『Don’t Shoot Me I’m Only The Piano Player(邦題:ピアニストを撃つな!)』と『Goodbye Yellow Brick Road(邦題:黄昏のレンガ路)』という2枚の名盤をリリースしたエルトン・ジョンなどの大物アーティストも活躍していた。さらに、ロキシー・ミュージックが『For Your Pleasure』でメジャーなアルバム・アーティストとして台頭し、ハンブル・パイを脱退したピーター・フランプトンがセカンド・ソロ・アルバムをリリースし、ボブ・マーリーがアイランド・レコードからのファースト・アルバム『Catch A Fire』をリリースするなど、若手アーティストも健闘していた。
グループからソロに転身したもう1人のアーティストは、リック・ウェイクマンだ。イエスを脱退すると、70年代で最も野心的なロック・アルバムの1枚をリリースした。野心的といえば、マイク・オールドフィールドの右に出るものはいないだろう。彼はほぼ単独で『Tubular Bells』をレコーディングし、マルチ・インストゥルメンタリストというものを再定義した。新たなキャリアを歩み出したものがいる中で、フリーのキャリアは終わろうとしていたが、彼らは『Heartbreaker』で有終の美を飾った。1970年代前半は、シンガー・ソングライターの時代と言われており、その理由のひとつは、キャット・スティーヴンスが英米で大成功を収めたことにある。キャット・スティーヴンスは、アルバム『Foreigner(邦題:異邦人)』で三作連続で英国のトップ・スリーに食い込んだ。アメリカでは、スティーヴィー・ワンダーが『Innervisions』でシンガー・ソングライターとしての名声を確立しながら、ブラック・ミュージックを新たな方向へと導いた。シン・リジィは「Whisky In The Jar」で初のヒット・シングルを生み出し、同年にサード・アルバム『Vagabonds Of The Western World(邦題:西洋無頼)』もリリースした。そして、1973年を締めくくったのは、ポール・マッカートニー&ウィングスがリリースした傑作『Band On The Run』だ。同アルバムは、真の名作と呼べる20世紀のポップ・アルバムである。
[layerslider id=”0“]今日では、アーティストが1年に2枚のオフィシャル・アルバムをリリースするのは想像しがたいが、当時は創造力に満ちたアーティストがこれをやってのけていた。例えば、ジョン・マーティンは『Solid Air』と『Inside Out』をリリースし、現在は2枚とも名盤として広く認められている。
もう1人はエルトン・ジョンで、1973年1月にリリースした『Don’t Shoot Me I’m Only The Piano Player(邦題:ピアニストを撃つな!)』は、彼にとって英国では初のアルバム・チャート首位、アメリカでは『Honky Chateau』 に続いて2枚目のアルバム・チャート首位を記録し、同アルバムからは「Daniel」と「Crocodile Rock」がシングル・ヒットとなった。そして10月には2枚組アルバム『Goodbye Yellow Brick Road(邦題:黄昏のレンガ路)』をリリース。同アルバムは、彼にとって英国では2枚目、アメリカでは3枚目のナンバーワン・ヒットとなった。特にアメリカでは、2カ月もの間ナンバー・ワンの座を維持し、全米アルバム・チャートに2年以上ランクインし続けた。しかし、これは驚くことではない。というのも、同アルバムにはタイトル・トラックをはじめ、「Bennie & The Jets(邦題:ベニーとジェッツ(やつらの演奏は最高))」(全米1位)、「Candle In The Wind(邦題:風の中の火のように)」、「Saturday Night’s Alright For Fighting(邦題:土曜の夜は僕の生きがい)」、そしてオープニングの「Funeral For A Friend/Love Lies Bleeding(邦題:葬送~血まみれの恋はおしまい)」等、エルトン・ジョンの初期キャリアの名曲が数多く収録されており、その他の収録曲も名曲揃いだったからだ。同作での成功を受けて、彼は自身のレーベル、ロケット・レコードを設立した。
一般的に、年明け初めの1月という月はアルバム・リリースに最適な月とはされていないが、エルトン・ジョンに加えて、リック・ウェイクマンも『The Six Wives Of Henry VIII(邦題:ヘンリー八世の六人の妻)』をリリース。イエス脱退後、A&Mレコードからリリースされたソロ・デビュー・アルバムだ。リック・ウェイクマンの才能が存分に発揮されており、クラシック音楽のニュアンスを汲んだインストゥルメンタル・アルバムが大きな成功を収めたという点で、プログレッシヴ・ロックの力をはっきりと示している。リック・ウェイクマンは、前年にイエスでアメリカをツアーしていた最中に「王権神授説」を唱えたヘンリー八世の本を読み、同作のアイディアを思いついたという。リック・ウェイクマンは同アルバムで、チューダー朝の王が娶った6人の妻の音楽的特徴を解釈し、ピアノ、ミニモーグ・シンセサイザー、メロトロン、ハープシコード、オルガン等、さまざまな鍵盤楽器を演奏している。また、同アルバムにはイエスとストローブスのミュージシャンもゲスト参加している(リック・ウェイクマンはイエスに加入する以前、ストローブスのメンバーだった)。
1月にリリースされた重要な3枚目のアルバムは、フリーの『Heartbreaker』だ。これをもってフリーは活動を終了した。6枚目のスタジオ・アルバムとなった有名なこの最終作には、フリーの最高傑作かつ最大のヒット曲のひとつとされている「Wishing Well」が収録されている。『Heartbreaker』は、ベーシストのアンディ・フレイザーが脱退し、ギタリストのポール・コソフの体調も思わしくない中、1972年後半にレコーディングされた。アンディ・フレイザーの代わりに日本人の山内テツが招かれ、ポール・コソフ(アルコールとドラッグの依存症が影響を及ぼしていた)を補うために、ジョン・‘ラビット’・バンドリックがバンドのキーボード奏者となった。山内テツもジョン・バンドリックも、フリーが一時的に解散していた1971年に、アルバム『Kossoff, Kirke, Tetsu , Rabbit』でポール・コソフとドラマーのサイモン・カークと共演していた。
4月には、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのアイランド・レコード第1作『Catch A Fire』がリリースされた。ボブ・マーリーの名盤カタログを探求するならば、手始めに同作を聴くのがお勧めだ。ボブ・マーリーがメイン・ヴォーカルだが、ウェイラーズのメンバー全員が大きく貢献しており、メンバー全員が同じ展望とサウンドを共有している。同アルバムには名曲「Stir It Up」も収録されている。
5月には、1970年代のベスト・アルバムの1枚に数えられると同時に、1973年のデビュー作で最も息の長いアルバムがリリースされた。それはマイク・オールドフィールドの50分にわたる見事なインストゥルメンタル作品『Tubular Bells』だ。同アルバムは、新たに設立されたヴァージン・レコードからリリースされた(創業者のリチャード・ブランソンは、同レーベルの成功を礎にビジネス帝国を築いた)。姉と結成したフォーク・デュオ、サリアンジーのメンバーだったマイク・オールドフィールドは、ケヴィン・エアーズのホール・ワールドのベーシストを経て、ソロ・プロジェクトに着手。このソロ・アルバムは彼の人生を一変させただけでなく、ホラー映画『エクソシスト』をより不気味なものにした。
5月にリリースされた重要作がもう1枚ある。ピーター・フランプトンの『Frampton’s Camel』だ。当時、同アルバムは名プログレッシヴ・ロック・バンド、キャメルと混同されることもあったが、2者には何のつながりもない。これはピーター・フランプトンにとって2枚目のスタジオ・アルバムで、数百万枚のセールスを記録した『Frampton Comes Alive!』にも収録された2曲(「Lines On My Face」と不朽の名曲「Do You Feel Like We Do」)が収録されている。
真夏はキャット・スティーヴンスが美しく作り上げた7枚目のスタジオ・アルバム『Foreigner』とともにやって来た。自身の作品がマンネリ化していると感じていたスティーヴンスは、3月にジャマイカのキングストン、そしてニューヨークでレコーディングされた同アルバムで、ソングライティングとプロデュースを自らすべて手掛けた。アルバムの片面は、18分の大作「Foreigner Suite」が占めており、同曲はこれまで彼がやってきた音楽とは趣を異にしている。
そんなスティーヴンスに影響を与えたアーティストの1人がスティーヴィー・ワンダーだ。彼はそれから1カ月後、様々な要素を見事にまとめた自身の大作『Innvervisions 』をリリースした。この前年に『Music Of My Mind(邦題:心の詞)』と『Talking Book』をリリースしていたスティーヴィー・ワンダーは、その創造力の全てを『Innversions』に向けて醸成してきたように思える。驚いたことに、既に6枚目のスタジオ・アルバムとなった同作に収録された9曲は、「Too High」での薬物濫用から、「Living For The City」での社会問題、「All In Love Is Fair」での美しい愛の歌に至るまで、多彩なテーマと問題を扱っていた。こうして、20世紀が誇る真の音楽的天才は、最高傑作を作り上げた。しかもスティーヴィー・ワンダーは、アルバムの大半でほぼ全ての楽器を自ら演奏し、その天才ぶりを証明している。
1972年、スティーヴィー・ワンダーはザ・ローリング・ストーンズの前座としてアメリカをツアーしていた。そしてザ・ローリング・ストーンズの『Goat’s Head Soup(邦題:山羊の頭のスープ)』は、1973年8月にリリースされた。彼らは同アルバムで、英米の両国で3作連続のナンバー・ワンを記録。アメリカでは1カ月間トップの座を守り、9カ月の間チャートインを続けた。同作には、デヴィッド・ボウイの妻にインスパイアされたバラードの名曲「Angie」が収録されており、同曲がシングル・リリースされると、アメリカでは彼らにとって7曲目のナンバーワン・ヒットとなったが、不思議なことに英国ではチャートの5位にとどまった。アルバムの初期作業はジャマイカのダイナミック・サウンドで行われた(偶然にも、これはキャット・スティーヴンスが『Foreigner』をレコーディングしたスタジオである)。後半のセッションはロサンゼルスのヴィレッジ・レコーダーズ、ロンドンのアイランド・スタジオで行われた。
シン・リジィによる『Vagabonds Of The Western World』は、彼らにとって初のヒット・シングルとなった「Whisky In The Jar」が1973年初頭に英国チャートで第6位に入った後、9月にリリースされた。これはバンドにとって3枚目のスタジオ・アルバムで、創立メンバーだったギタリスト、エリック・ベルにとっては最後のアルバムとなった。後年再発されたCDには、上記ヒット・シングルに加えて、彼ら初の名曲とされている「The Rocker」が収録されている。
ステイタス・クォーの6枚目のアルバム『Hello!』も9月にリリースされた。同作は、ステイタス・クォーが英国アルバム・チャート入りを果たした4枚のうちの最初の1枚で、彼らが初めて自ら全曲を書いたアルバムでもある。フランシス・ロッシと名曲「Caroline」をはじめ、数曲を共作したボブ・ヤングは、同バンドのローディ兼ハーモニカ奏者だった。
1973年の締めくくりには、20世紀の名盤の1枚に数えられるポール・マッカートニー&ウィングスの『Band On The Run』がリリースされた。これはウィングスのサード・アルバムで、1974年の英国でベストセラー・アルバムとなった。英国でのレコーディングに飽き飽きしたポール・マッカートニーは、ギタリスト/ピアニストのデニー・レインと妻のリンダ、ザ・ビートルズを手がけたエンジニア、ジェフ・エメリックとともにナイジェリアのラゴス行きを決意した。ヘンリー・マカローとドラマーのデニー・セイウェルは、バンドが西アフリカへと出発する直前にバンドを脱退。ウィングスが使ったスタジオはラゴス郊外のアパパにあり、備えられていたのは故障したコントロール・デスク、たった1台のテープマシーンと、機材に乏しかったため、アルバムを制作できただけでも奇跡だった。彼らはレコーディングを終えて1973年9月23日に英国へ戻ると、ジョージ・マーティンのAIRスタジオで最終オーヴァーダブと、トニー・ヴィスコンティがアレンジしたオーケストラ・トラックを仕上げた。1974年、アルバムからのファースト・シングル「Jet」がリリースされると、アメリカでトップ10入りを果たし、次のシングルとなった「Band On The Run」は全米チャートで首位を獲得(しかし、英国では第3位に終わった)。混沌とした年の瀬となったが、名作アルバムが量産された年にふさわしい締めくくりとなった。エルトン・ジョン同様、ウィングスもこの年、アルバムを2枚リリースしている。3月にリリースされた『Red Rose Speedway』は、全米ナンバーワン・シングルとなったポール・マッカートニー珠玉のバラード「My Love」が収録されている。
1973年は、60年代を象徴する理想主義な雰囲気に終わりを告げた。明るいニュースとしては、ヴェトナム戦争の和平協定が締結され、カンボジアに対する空爆も停止した。しかし、非難が殺到する中、ウォーターゲート事件のスキャンダルが進展し、アメリカの政治が再び世界に恥を晒した。英国はEEC(後に欧州連合となる)に加入。そして、石油危機がレコードをプレスするために必要なビニールの供給に影響を与えた。
カントリー・ロックのアイコン、グラム・パーソンズ、ジム・クロウチ、ヴァーヴのレコーディング・スターで非凡なドラマーだったジーン・クルーパ、シンガーのボビー・ダーリン等、死神は1973年に音楽界で活躍していた多くの著名人の命を奪った。しかし、ルーファス・ウェインライト、ダミアン・ライス、キャロライン・コアー、某アメリカ大統領の特別な‘友人’となったモニカ・ルインスキー、そしてピーター・アンドレ等が1973年にこの世に誕生し、後に私たちの心へと入りこんだ。
Written By Richard Havers