1974年、広島原爆の被爆者である小林岩吉氏(当時77歳)が、広島市内のNHK放送局を訪れた。氏は、自身が目撃した光景を描いた1枚の絵を持参。それをきっかけに、第二次世界大戦におけるあの大惨事の体験について描かれた絵が、市民から相次いで寄せられた。3年後には、それをまとめた画集の英訳が出版(※訳注:日本語版は75年発刊)され、その後1980年代初頭には、日本国外でも展覧会を開催。それは『Unforgettable Fire(忘れざる炎)』と題されていた。
1983年11月下旬、『War』を引っ提げた世界ツアーで初来日を果たしたU2。滞在中、彼らはその展覧会に足を運んだ(※訳注:実際にボノが訪れたのはシカゴ展で、その後の来日中に歌詞を書いたとされる)。1984年後半にリリースしたアルバムで、彼らは劇的な新しい方向性へと進み、世界最高のロック・アトラクションのひとつとなる道を歩み続けることになるが、同アルバムに影響を与えたのが、その展覧会の題であった。
『War』発表からの数ヵ月間は、疲労困憊の日々であると同時に重大な出来事の連続であった。 各国での成功に続き、5月には「New Year’s Day」が全米53位を記録。驚くほど素晴らしい順位ではないにしても、それはU2独特のロックによる攻撃がポップス系ラジオの番組編成者側にも影響を与え始めているという、確かな兆候であった。
8月にダブリンのフェニックス・パークで開催された野外フェス、ア・デイ・アット・ザ・レースでは、ヘッドライナーとして25,000人の熱心なファンを魅了。複数のフェスティバルに出演する日程の中盤、U2はセットリストで遊び心を発揮し、「Two Hearts Beat As One」に少し「Let’s Twist Again」を混ぜてみたり、「11 O’Clock Tick Tock」に「Give Peace A Chance」を混ぜ込んでみたりしている。この日、アンコールの最後では、『War』の最後を飾っているただでさえアンセミックな「40」に、アニー・レノックスがゲストで参加した。
多角的な1983年の『War』ツアーでは、アルバムの逞しいサウンドに匹敵するような、大掛かりなパフォーマンスを繰り広げていた彼ら。だが注目に値する素晴らしい気分転換が、すぐ目と鼻の先で待っていた。 U2のコンサート音源がブートレグとして高値で市場に出回っていたことから、人々の要望に応えるため、彼らは初のライヴ・アルバムとビデオをリリースすることにし、この時代を締めくくったのである。
ジミー・アイオヴィンがプロデュースしたライヴ・アルバム『Under A Blood Red Sky(邦題:ブラッド・レッド・スカイ=四騎)』は、『War』ツアー中、ボストンとドイツ、そして雨に見舞われたコロラドの野外会場レッド・ロックスの3公演で録音された音源を元に制作。その後すぐに、姉妹作のビデオ『Live At Red Rocks: Under A Blood Red Sky』がリリースされた。
1つの章の終幕を記録しているこの両作は、共に驚異的な成功を収めた。ライヴ・アルバムの方は、米国のみで300万枚以上の売り上げを達成。またビデオの方は、全米チャートに3年間留まり続けた。ローリング・ストーン誌は後に、このビデオ内でバンドが演奏する「Sunday Bloody Sunday」を「ロックン・ロールの歴史を変えた50の瞬間」の1つに挙げている。
1984年の前半は、次に自分達が取るべき展開だと4人が感じていた、より質感のある、情緒的雰囲気に富んだサウンドについて検討し、吟味を行う機会に充てられた。5月、彼らはダブリンのスレイン城に集結。城内のゴシック様式の舞踏室が、後に『The Unforgettable Fire(邦題:焔(ほのお))』となる楽曲の初期セッションの場所として選ばれた。
ブライアン・イーノがこのプロジェクトのプロデューサーに起用されたのは、圧倒的な独創性と想像力を備えたミュージシャンとして、バンドが彼を賞賛していたからだ。ブライアン・イーノは、自身のエンジニアで、当時そこまで有名ではなかったが既に経験豊富だったカナダの凄腕プロデューサー、ダニエル・ラノワを相方として推薦。そこで本作の陣営が整った。
7月、ボブ・ディランがスレイン城でコンサートを行った際には、ボノがゲストとしてステージに登場。 ウィンドミル・レーン・スタジオで行っていたアルバム・セッションが8月に完了すると、バンドは自身が主宰するレーベル<マザー・レコード>の設立を発表した。同レーベルは、主にアイルランド出身の新人にとって有意義な機会を提供するために創設したもので、最初に契約したのは、地元ダブリンのイン・トゥア・ヌアらであった。
8月末、新作がリリースされる5週間近く前、U2は全6行程に及ぶ『The Unforgettable Fire』ワールド・ツアーの最初の行程に乗り出した。一般からの要望があまりに高かったため、北米とヨーロッパのツアーはそれぞれ2行程ずつに分けて開催されることに。このワールド・ツアーの出発点はニュージーランドのクライストチャーチ公演で、同市を皮切りとするオセアニア・ツアーでは、メルボルンとシドニーを含む19公演が行われた。9月になり、マーティン・ルーサー・キング牧師に捧げたリード・シングル「Pride (In the Name of Love)」が世に放たれると、間もなく大変な事態が巻き起こっていく。
列車が既に発車していたとするならば、10月1日にアルバムがリリースされる頃には、この機関車は雷鳴のような轟音を上げて爆走していたと言える。 21日間に渡るヨーロッパ・ツアーは、新作に対する打ち上げ花火のような華々しい反応で照り輝き、アルバムは英国でダブル・プラチナを、米国ではトリプル・プラチナを達成。『The Unforgettable Fire』は全英チャートで初登場1位を獲得した。『War』はマイケル・ジャクソンの『Thriller』を首位の座から陥落させたが、今回はデヴィッド・ボウイの『Tonight』の打倒に成功している。
U2の本質を理解していたブライアン・イーノとダニエル・ラノワの美点は、バンドの意欲をこれまで同様に熱く燃え上がらせつつも、今作ではより洗練された、微妙な綾のある音を背景に据えるという所にあった。例えば「Wire」は、ボノの熱を帯びたヴォーカル、ジ・エッジの万華鏡のようなギター、アダム・クレイトンのファンク調ベース、そしてラリー・マレン・ジュニアの激しいドラムの4つが完璧に噛み合いながら、炎を吐き出すという仕上がりになっている。堅固な構造の枠組みから解き放たれている「4th Of July」のような楽曲では自由な放浪を展開、また「Bad」では大胆にも、威厳を備えていると同時に哀愁の漂うクレッシェンドが形成されていた。
ボノとアダム・クレイトンは1984年11月25日、ヨーロッパ・ツアー第1弾の最終日と北米ツアー第1弾の初日の合間に出来た数日を縫い、オリジナルのバンド・エイドによる「Do They Know It’s Christmas」のレコーディングに参加している。
1985年春、U2はアリーナ級バンドとしての地位を公式に確立。マディソン・スクエア・ガーデンのヘッドライナーを含む、大規模なUSツアー第2弾を行った。ローリング・ストーン誌は、彼らを正式に「80年代を代表するバンド」と認定。その称号に意義を唱える者は殆ど誰もいなかった。
Written By Paul Sexton
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