ヴァレンシアとマイケル・モンロー
ラジオDJ、ライナー執筆など幅広く活躍されている今泉圭姫子さんの連載「今泉圭姫子のThrow Back to the Future」の第9回です。コラムの過去回はこちら。
今月は、3月14日に「入手困難名盤復活!HH/HR1000キャンペーン」シリーズで、65タイトルが発売になるということで、その中から気になる2作品をピックアップします。
まずはヴァレンシア!デビュー・アルバム『Gaia』と『K.O.S.M.O.S』が再発売になります。1993年、オランダからデビューしたヴァレンシア。美少年という言葉がぴったりの22歳でした。あれっ10代じゃなかったっけ?と私の記憶の曖昧さがまた登場してしまうのですが、彼は童顔でシャイで口数が少ない男の子という印象が強かったので、そんな10代の男の子のイメージを抱いていたのかもしれません。
デビュー・アルバム『Gaia』の全曲を聴けば、彼がどんなアーティストに影響を受けたかはすぐにわかります。インタビューではサイケデリック時代のザ・ビートルズ、クイーン、ケイト・ブッシュに影響を受けたと話していました。この要素だけでも、当時の私にとっては、応援したくなってしまうアーティストの一人だったわけです。デビュー・シングル「Gaia」は5分51秒の大作で、新人のデビュー曲としてはあまりにも長い尺。ラジオなどのオンエアを考えると、シングルにするのはどんなものかという声もあったようです。このストーリーはクイーンが「Bohemian Rhapsody」をリリースした時のエピソードと同じですね。クイーンの良い例をヴァレンシアはわかっていたのでしょう。22歳の男の子の熱い思いをレーベルは受け止め、デビュー曲としてリリースしました。他のアーティストと差別化するには「Gaia」しかなかったというヴァレンシアの思いは、ヒットという形になって証明され、日本でも、新人にしては珍しくラジオから生まれたヒットになりました。
クラシックのテイストをふんだんに使い、タンゴなどさまざまなリズムも大胆に取り入れ、コーラスワーク、メロディー・ラインも70年代から80年代初期のUKの香りを感じさせてくれるアルバムは、彼の音楽スタイルを明確に示しました。そしてルックスだけでなく、弱冠22歳の若者のクリエイティヴな才能を証明することになったのです。この頃の音楽シーンは、80年代に第二期ブリティッシュ・インベージョンで活躍したアーティストたちが、アイドルから新しいステップを踏み出そうとしていた時期であり、その代わりにポップ・シーンには次世代のボーイズ、テイク・ザットが誕生し、第一期としてのピークを迎えていました。またアイルランド初のボーイズであるボーイゾーンも登場、アメリカではニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックが世界を席巻、その影響でバックストリート・ボーイズがデビューを目指す頃(95年デビュー)でした。つまり音楽シーン全体は、ロックというよりは、久しぶりにやってきたアイドル・ブームだったわけです。
そんな音楽シーンが中心となっていた時代に、ヴァレンシアはどのような評価を得ていたのでしょうか? そのベイビーフェイスから、自然に女性ファンがつくのは当たり前です。ただ、彼は当時から驚くほどのクリエイターで、どちらかというとインドアなタイプ。自宅で音作りに精を出すアーティストでした。ピアノは4歳の時に独学で、16歳になるとひとりでデモ制作を始め、そのデモが音楽関係者の手に渡り、デビューすることになりました。日本では、1994年5月に『Gaia』(原題:Valensia)がリリースになり、10万枚のヒットを記録。次世代のスターとして注目を集めました。ただこの頃はすぐにプロモーション来日をすることはなく、当時私が担当していたFm yokohama「Dancing Groove」では、毎週ミニコーナーを企画し、海外取材を敢行し、そのインタビュー素材で、アーティストを盛り上げていました。日本デビュー直後の1994年には、スペインのヴァレンシア地方で番組ディレクターの今泉幸子が、ミュージック・ライフのコレポンだった塚越みどりさんとたった二人で初インタビューを敢行。その時は、普段はシャイなヴァレンシアも自分の車で観光案内をかってでてドライヴまで楽しんだようです。「何か一緒に食べたけど、思い出せない」とは番組ディレクターの弁。姉妹なので、その辺りの曖昧さは似ております。すみません。
私が初めてヴァレンシアに直接インタビューしたのは1996年でした。『K.O.S.M.O.S』を発売する前だったと思います。彼はオランダ出身ですが、スペインにも住んでいたり、オランダにいたり、という生活だったのですが、新作リリースに伴い、オランダでリスニング・パーティーがあり出席しました。この日、テイク・ザット解散ラスト合同インタビューがアムステルダムで行われ、その涙のイベントに出席後、ヴァレンシアにインタビューしたのを記憶しています。リスニング・パーティーには、インドネシア人のお父さんとオランダ人のお母さんも出席していました。当時のエピソードとしては、シャイであることは聞いていましたが、大勢の人たちと食事をするのが苦手であることを聞いた記憶があります。なので1996年の初来日では、食事はいつもホテルの部屋で一人でとっていたとか・・・。でも番組のファンとの企画で、みなとみらいの観覧車でのファン・デートや、カラオケ・パーティーでみんなで「Gaia」を歌うといったイベントでは、はにかみながらも一生懸命でした。シャイな彼にとってはものすごくがんばっちゃったイベントになったかと思います。そのカラオケの写真は当時の宣伝担当T嬢がお持ちのようですが、実家の段ボールの奥にしまってあるようです。いつか見せてもらいたいです。
現在ヴァレンシアは46歳になりました。2014年に一度表舞台からの引退宣言をしていますが、彼の本質は昔からプロデュース。音を作っていくことです。これからも音楽との縁は続き、ヴァレンシアらしい音楽人生を歩んで欲しいです(*2018年6月にヴァレンシアとしての新作が発売予定)。
さて、もう1作はマイケル・モンローの『Not Fakin’ It』です。彼にとってセカンド・ソロ・アルバムにあたる作品。コマーシャルな成功を得たアルバムです。昨年はソロ活動30周年を記念しての『The Best』をリリースしているマイケル。言わずと知れたハノイ・ロックスのヴォーカルでもあります。
ハノイ・ロックスがデビューしたのは1981年。日本では“グラマラスなロック・バンド誕生”と、デビュー前から音楽誌に取り上げられ、話題となっていました。ちょうどその頃、クイーンのミルトン・キーンズのザ・ナショナル・ボウル公演を観にロンドンを訪れていた私は、ロンドン市内のB&Bジュリアス・シーザー・ホテルに泊まっていました。昼間にコーヒーショップでカメラマンの方と打ち合わせをしていると、ドアの向こうに金髪の美しい青年がこちらに歩いてきました。ロック・スター然としていた彼は隣のテーブルに着きました。どこかで見たことあるな〜とチラ見しながら私は気にしながら写真選びをしていた私たちが音楽関係であることがわかったその金髪の美しい青年は、突然声をかけてきたのです。それがマイケル・モンロー。20歳でした。ハノイ・ロックスと名乗った彼を見て、あ〜雑誌で見た彼だと理解し、何を思ったのか、私はその場でインタビューをオファーしたのです(今思うと恥ずかしい行動)。すると「夜ならメンバーも集まるから、そこのバーで24時に来てくれたらインタビューできるよ」と。彼らもジュリアス・シーザーに泊まっていたのです。数年前にインタビューした時、マイケルにこの話をすると鮮明に覚えていてくれて、なぜか最近のジュリアス・シーザーはちょっとこじゃれたホテルになっていたことを教えてもらいました。当時はお金のない若者(私も含む)が泊まるようなホテルでした(笑)。とにかくこの頃から彼はいい人でした。夜中の24時にロック・スターとインタビューだなんて、普通なら腰が引けてしまいますが、マイケルの純粋さになぜか疑うこともなく(何を疑うのか笑)、バーに向かいました。アシスタントは荷物持ちでついてきた妹です。そこにはマイケル、アンディ、ナスティがいました。時間通りに現れるなんてすごいと思いながらも、普通にインタビューをし、「日本に行くのを楽しみにしているからね」と爽やかな言葉を残し、彼らも部屋に戻っていきました。「いい人たちだったね」と好印象を残しましたが、アンディさまにおきましては、その後は時間通りという言葉はなかったような気がします。
その後のことはここでは省くとして、1985年にハノイ・ロックスが解散してからソロとして87年にファーストソロアルバム『Nights Are So Long』をリリースした時のプロモーションで、ラジオの収録スタジオに来てくれたマイケルは、持参した自分のアー写をバックからいきなり出して、それにサインをしてリスナーにプレゼントして欲しいと。DIYの走りでしした。関心しました。人に頼らず、自分のプロモーションは自分でもやる、という精神。そしてハノイ・ロックスが再結成した後、アンディと一緒にスタジオに来た時も、アンディの体を気遣いながらもサービス精神旺盛で、またSUMMER SONIC 2010出演のためにソロで来日した時は、ステージで肋骨を折ったにもかかわらず、医者に行ってから収録スタジオに来て、インタビューが終わった後に「肋骨折っちゃった」と。もうびっくり!なんという人なのでしょうか? マイケルの印象は、最初に会った時からまったく変わっていません。マイケルは彼流の音楽スタイルとファンへのサービス精神をどんな時でも変わらず続けている人なんです。当時から若手のロック・ミュージシャンにも影響を与え、人望も厚いマイケル。彼の真の優しさと心遣いとロック・スピリットがマイケル・モンローというロック・シンガーを生み出したのです。
連載『今泉圭姫子のThrow Back to the Future』 バックナンバー
- 第1回 :U2『The Joshua Tree』
- 第2回 :バグルス『ラジオ・スターの悲劇』
- 第3回 :ジャパン『Tin Drum』(邦題:錻力の太鼓)
- 第4回 :クイーンとの出会い…
- 第5回:クイーン『世界に捧ぐ』
- 第6回:フレディ・マーキュリーの命日に…
- 第7回:”18 til I Die” ブライアン・アダムスのと想い出
- 第8回:ロキシー・ミュージックとブライアン・フェリー
ラジオDJ、音楽評論家、音楽プロデューサー
1978年4月、湯川れい子氏のラジオ番組「全米Top40」のアシスタントDJのオーディションに合格し、この世界に入る。翌年大貫憲章氏とのコンビでラジオ番組「全英Top20」をスタート。以来現在までにラジオDJ以外他にも、テレビやイベント、ライナー執筆など幅広く活動。また、氷室京介のソロ・デビューに際し、チャーリー・セクストンのコーディネーションを行い、「Angel」のLAレコーディングに参加。1988年7月、ジャーナリスト・ビザを取得し、1年間渡英。BBCのDJマーク・グッドイヤーと組み、ロンドン制作による番組DJを担当。
1997年、ラジオ番組制作、企画プロデュースなど活動の場を広げるため、株式会社リフレックスを設立。デュラン・デュランのジョン・テイラーのソロとしてのアジア地域のマネージメントを担当し2枚のアルバムをリリース。日本、台湾ツアーも行う。
現在は、Fm yokohama「Radio HITS Radio」に出演中。
HP:http://keikoimaizumi.com
Twitter:https://twitter.com/radiodjsnoopy
Radio:Fm yokohama「Radio HITS Radio」