エイミー・ワインハウス:レトロと形容される音楽を奏でながら、時代の先を行くアーティストの功績
2020年11月末に5枚組CDコレクション『The Collection 5CD』、シングル曲を集めた完全限定となる7インチ・ボックス・セット『12×7: The Singles Collection』が発売となったエイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)。
2021年で没後10年となる彼女について、エイミーのプロデューサーでもあったサラーム・レミにもインタビュー経験があるライターの池城美菜子さんに執筆いただきました。
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エイミー・ワインハウスの歌声は、聴く人の人生を変える。それは、眉尻まで跳ね上げた太いキャットアイのアイライン分の数ミリかもしれないし、あのうず高いビーハイヴ・ヘアーと同じくらい、10数センチかもしれない。筆者もそうだ。2006年にアイランド・デフジャム、スティーブン・マーリーのリスニング・パーティーでもらった数曲入りの試聴CDを初めて聴いた時は、「イギリスの白人女性のソウルって」と高を括った自分を即座に恥じて姿勢を正したし、彼女がこの世にいなくなって9年経ったいまでも、聴くたびに感情が揺さぶられる。
本物のソウルを湛えた、エイミーのハスキーな歌声は、一度聴いた人の心を捉えて離さない。その証拠に、2011年7月23日、27才で亡くなって以来、約アルバム3枚分しかない曲は聴き続けられ、その生き様がくり返し語られる。2003年にイギリスでリリースされたファースト・アルバム『Frank』は国内で高く評価されたものの、世界的に有名になったのは2006年10月に世界中で発売されたセカンド・アルバム『Back To Black』であり、起爆剤は先行シングル「Rehab」のヒットだった。
2007年と2008年のエイミー・ワインハウスは、ヒット曲とゴシップを提供し続け、注目の的となる。最後の2年間は、新しいアルバムの代わりにゴシップと健康状態に関するニュースだけが届いた。彼女が、世界的な天才シンガーとして輝いた期間はとても短い。
27才で亡くなったことから、同じ年で命を落としたカート・コバーンやジミー・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリンら後世に影響と名を残したミュージシャンを括る「27クラブ」に入った、と揶揄された。だが、本稿では彼女の人生を徒らに美化するのは避け、なるべく音楽性と功績に集中しようと思う。「27クラブにさえ入れない(=27才まで生きられるとは思わない)」とラップしたのは、昨年亡くなったジュース・ワールドだ。
仮に、繊細さ、傷つきやすさが心を貫くような歌詞に向かわせる面があるとしても、ドラッグやアルコールの多量摂取とセットで悲劇に仕立ててしまうと、音楽そのものの評価が曇るように思うのだ。彼女の死因は、10代から患っていた摂食障害とアルコール中毒である。エイミー・ワインハウスが死に向かう過程は、びっくりするくらい赤裸々なドキュメント『AMY エイミー』で克明に描かれている。今ならNetflixやHuluなどで見られるので、興味のある人はぜひ。
「名前は耳にしたことあるけど…」という人のために、ざっくり基本情報を。ロンドン生まれのエイミー・ワインハウスは、ロシアとポーランドの血を引くユダヤ系イギリス人であり、日本ではあまり語られないが、ワーキング・クラス(労働者階級)の出身である。これは、世界一辛辣なタブロイド文化をもつイギリスにおける、彼女の扱いを理解する上で重要だと思う。
また、タトゥーやピアス、50年代のガールズ・グループから60年代のモッズまで過去の音楽発祥のファッションをよく理解した上で、自分流に落とし込んだスタイリング・センスは、いかにもロンドン子らしい。
「よく理解して、自分流に落とし込む」のは音楽も同様であり、ジャズとソウルを真ん中に据えつつ、ところどころヒップホップやレゲエ、ボサノヴァを忍ばせる。徹頭徹尾、感情を吐露する歌詞は実体験、苦手だったメディアへのインタビューも忖度なし、そしてお仕着せではない音楽を奏でるのがエイミーなのである。
デビュー・アルバム『Frank』とサラーム・レミ
デビュー作『Frank』は、影響を受けたフランク・シナトラと、彼女の率直な物言いを引っ掛けてタイトルにしたそう。代表曲の「Stronger Than Me」を始め、歌唱法にしても本音しか歌わない(歌えない)歌詞にしても、この時点で独自のスタイルが完成している。14才からギターを爪弾きながら歌詞を書いていたとはいえ、20才そこそこでこれらの歌詞とメロディーを作っていたのだから、恐れ入る。
父方の祖母、シンシアは元ジャズ・シンガーであり、父親のミッチも熱心なジャズ・ファン、母方の親戚に何人かジャズ・ミュージシャンがいたというから、彼女はジャズ畑で育った人である。シンシアに関しては、現在も続くジャズ・クラブを残したサックス奏者、ロニー・スコッツと婚約までしていた恋人関係であったとよく引き合いに出される。まぁ、そこが成就していたらエイミーはこの世に存在しなかったわけだが。
芸術系の高校をドロップアウトしてマイクを握るようになったエイミーは、インディ・ロック・シーンが盛んだったカムデンに友人と住み始め、同時に大手マネージメント会社と契約をする。
『Frank』のプロダクションにおけるMVPはサラーム・レミだ。マイアミ在住のプロデューサーであり、自宅内に2つのスタジオを作り、行ったり来たりしながら曲を仕上げる。2009年にこの自宅兼スタジオの取材をした際、「ここに座ってエイミーは曲を書いたんだ」と庭の片隅を指差された時は、感慨深かった。フージーズとNasのヒット曲で知られるが、実は女性ヴォーカリストとの仕事でも真価を発揮する。楽器の音色を重視するのはエイミーと同じ。その点に徹底的にこだわったジャズ色が強い『Frank』には、ヒップホップとレゲエの影響も交差し、それがただの懐古趣味で終わらない効果をもたらした。
まず、ヒップホップの影響から解説しよう。「In My Bed」は、Nasの代表曲「Made You Look」(2003)のほぼビート・ジャックだ。サラーム・レミは、インクレディブル・ボンゴ・バンドの「Apache」使いのトラックがサンプリングされるのは目に見えていたため、どうせなら自ら先手を打とうと、イギリスから来た新人の女の子の曲に使った、とコメントしている。
1983年生まれのエイミーは、ヒップホップの洗礼をも受けており、同じ誕生日(9月14日)のNasを敬愛していた。その彼女のもう一人のアイドルが、ローリン・ヒルだったという。『Frank』に参加したメーンのプロデューサー3人のうちのふたりが、フージーズで彼女と仕事をしたサラームと、『The Miseducation of Lauryn Hill』に参加したゴードン“コミッショナー・ゴードン”ウィリアムズであるのは興味深い。
また、エイミーは、ファーストとセカンドの間に、ヤシーン・ベイ(元モス・デフ)や、ザ・ルーツのドラマーであり、音楽集団ソウルクウェリアンズのキーマン、クエスト・ラヴと友人になり、頻繁にやり取りをしていたという。ジャズに強い影響を受け、また楽器の音色を重視する姿勢が共通しており、彼らと縁が縁が深いネオソウルの匂いを、エイミーの音楽から嗅ぎとるのは自然だ。
エイミーはイギリス人らしく、レゲエへの造詣も深かった。その点を引き出したのも、トリニダード・トバゴ系であり、スーパー・キャットやアイニ・カモーゼらとダンスホール・レゲエのヒットも飛ばしているサラームである。スカやロックステディの香りが立ちのぼる「Monkey Man」「Mood For Love」「Our Day Will Come」などのカバー、オリジナルの「Just Friends」は、レゲエ好きにもぜひ聴いてほしい。
また、『Frank』には、ジャマイカの最重要ギタリスト、アール・チナ・スミスが参加している。ボブ・マーリーや彼の息子達、そしてローリン・ヒルとも仕事をしている彼と一緒に写っている写真は、ドキュメンタリー『AMY エイミー』のエンドロールに出てくる。
プロデューサー、マーク・ロンソンが果たした功績
「リハビリに入るなんて真っ平。ノーノーノー」というキャッチーなフックの「Rehab」を作ったのはマーク・ロンソンである。近年、日本ではブルーノ・マーズ「Uptown Funk」や星野源との共演で知られるアーティスト兼プロデューサー。エイミーと同じユダヤ系イギリス人だが、育ったのはニューヨークであり、義父にフォリナーのミック・ジョーンズをもつ本物のセレブリティである。エイミーが彼のことを「別に欲しくもなかったお姉さん」と呼んでからかった、という逸話がいい。
ロンソンは、音楽制作に乗り出す前は大人気のDJであり、音楽業界のイベントやパーティーでプレイを見たが、抜群に上手だったのを覚えている。ファースト・アルバムの後、1950〜1960年代のガールズ・グループに傾倒していたエイミーの新しい方向性を形にしたのは、DJとしての彼のセンスだったと思う。
キーボードやドラムを自分で演奏するサラームとは違い、ロンソンは楽器を操るタイプではない。そこで、彼はブルックリンのアナログ録音のレコードでのリリースにこだわるレーベル、ダップトーン・レコーズのミュージシャンを起用した。ブッシュウィックを本拠地とするダップトーンは、シャロン・ジョーンズ&ザ・ダップ・キングスやチャールズ・ブラッドリーなど本格的なソウルやゴスペル作品を発表している、ソウル・ファンの間では有名なレーベルである。
エイミーに関しては、USツアーのバックバンドだったと紹介されるが、それだけに留まらず、『Back To Black』の半分を占めるロンソンの曲のほとんどを彼らが演奏しており、ベーシストであるボンゴ・マンことゲイブリエル・ロスは、バンド・アレンジメントとしてロンソンと一緒にクレジットされている。
2007年5月のニューヨーク、ハイライン・ボールルームでのライブも、ザ・ダップ・キングがバックを務めた。即完になり、転売でチケットが10倍以上に膨れ上がったこの公演の間、エイミーは茶色い液体を飲みながらも見事に歌い切った。公演後、一言だけ話す機会があった。その時の彼女の怯えるような瞳が、大胆な歌声と激しいギャップがあり、印象的と言うよりショックだった。
余談だが、ダップトーン・レコーズの取材の際、ゲイブリエル・ロスは「アナログ・レコードの音がなぜ、デジタルにない温かみがあるのか」というやり取りをした後、それを科学的に証明する記事をメールしてくれるような本物のアナログ・フリークであり、優れたミュージシャンである。
本稿は、ライブ盤とリミックス盤を含めた5枚のCDセット(不思議なほどお手頃価格なので問答無用で購入)と、シングル曲12枚の7インチ(ドーナツ盤)が入ったボックスセットの発売記念も兼ねているのだが、アナログのマスリングが誰なのか、英語のサイトで調べまくっている最中である。
恋愛と歌詞、会場に行けなかったグラミー賞
マーク・ロンソンとサラーム・レミが、アーティストとしてのエイミー・ワインハウスの守護神であるなら、女性として人生を狂わした男性として、前夫のブレイク・フィールダー-シビルがいる。ベイビーフェイスを持つ彼は、絵に描いたようなダメ男。すべてにおいて依存体質のエイミーは、彼との恋愛にのめり込み、『Back To Black』のラヴ・ソングの大半が彼についての曲である。
私は、このアルバムと、死後に発表された『Lioness : Hidden Treasures』の歌詞対訳を担当した。短く、シンプルな歌詞であるにもかかわらず、どの言葉を当てるかで散々悩んだ覚えがある。理由として、エイミーは特定の出来事のある瞬間を歌いながら、そこに横たわる感情を永遠に捉える言葉を、独特の感性で表現するのだ。
2008年2月のグラミー賞授賞式は、いまでも語種である。カニエ・ウェストの8部門に続き、それに続いて6部門にノミネートされていたエイミーはしかし、アメリカへの入国を拒否されてしまう。ロンドンの特設会場からの衛星中継でパフォーマンスを披露し、主要4部門の最優秀アルバム以外の3部門を制したのだ。彼女のアイドルであるトニー・ベネットとナタリー・コールが最優秀レコード賞を発表した時、エイミーが目を見開き、家族や友人、仕事仲間にもみくちゃにされた。この時、エイミーは賞を獲った事実よりも、ベネットに呼ばれたことに感激していたのだ。
そのベネットとの「Body & Soul」のレコーディングの際、エイミーが着ているフレッド・ペリーのロングのアーガイル・セーターは、彼女自身がデザインしている。現在も、遺族とのコラボレーションによりエイミー・ワインハウスのラインは続いている。
かつて、肌の白いアーティストが歌うソウル・ミュージックを「ブルーアイド・ソウル」と呼んだ。過去形で使うならロマンティックでいい響きだが、人種でジャンルをわける弊害が見直されている現在の風潮を考えると、この言葉を実力と存在感で無効にしたエイミーの功績は大きい。「私のキャリアの90%は、エイミー・ワインハウスのおかげ」と語ったのは、アデルである。レトロと形容される音楽を奏でながらも、時代の先を行くアーティストだったエイミー・ワインハウスを、もしまだ未聴なら、ぜひ聴いてみてほしい。たぶん、人生が少し変わるから。
Written by 池城美菜子
2020年11月27日発売
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エイミー・ワインハウス『12×7: The Singles Collection』
2020年11月20日発売
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