改めてボブ・マーリー、そしてレゲエとは:映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』公開記念連載①
海外では2024年2月14日に劇場公開が決定、日本でも2024年5月17日に公開されることが発表となっているボブ・マーリー(Bob Marley)の伝記映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』。
この映画の公開を記念して、ライター/翻訳家の池城美菜子さんにボブ・マーリーの生涯と功績についての連載企画を開始。第一回目は、改めてボブ・マーリーとレゲエについて解説いただきました。
・連載第2回「ボブ・マーリーの音楽のどこが時代を超えて人々の胸を打つのか」
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レゲエの神様、ボブ・マーリー
ジャマイカが生んだレゲエの神様、ボブ・マーリーについて各国言語で書かれた本は、500冊以上あるという。ストレートで力強いメッセージの裏にある、数奇な彼の人生に興味をもつ人が多いからだろう。ドレッドロックスのラスタファリアン。一見、取っ付きづらい風貌であるにもかかわらず、彼の音楽は心に深く滲み、親しみやすい。
Emancipate yourselves from mental slavery
None but ourselves can free our minds
飼い慣らされた精神を解き放つんだ
それができるのは自分自身だけなのだから
代表曲「Redemption Song」の歌詞である。汎アフリカ主義の活動家、マーカス・ガーヴィの言葉から触発された、奴隷船でアフリカからカリブ海の島へ連れてこられた祖先に想いを馳せる曲だ。だが、大航海時代の植民地とは遠く離れたいまの日本で暮らしていても、仕事や世間の慣習に縛られ、自分の理想をあきらめかけたり、流されそうになったりしたときに聴くとハッとする。
ボブ・マーリーの生涯は36年。1962年のデビューで活動期間はたった19年だから、その人生よりも長い年月、彼の歌声とメッセージは広がり続けた計算だ。1977年の『Exodus』は、米タイム誌に20世紀の最高のアルバムと称えられた。死後にリリースされたベストアルバム『Legend』は、今世紀になってもビルボードのアルバム・チャートに入ったままだ。「ボブ・マーリーの名前は知っているけど、曲はよく知らないかも」と気づいた人や、改めて聴き直す再発見組がワンクリックで彼の歌声にアクセスできる時代だから、驚くことでもないが。
2024年、彼のバイオピック『ボブ・マーリー:ONE LOVE』が公開される。妻のリタ・マーリーと長男のジギーがプロデューサーとして中心になり、ブラッド・ピットのプラン・Bが制作を手がけた。日本では年内の公開予定だ。それに先がけ、6回に分けてボブ・マーリーの生涯と功績を多角的に紹介する。
日本はジャマイカからの移民がいないのに、ボブの存命中からレゲエの人気がとても高い国である。彼に関しても、熱心なファンや詳しい人が多いだろう。伝説はときに、独り歩きする。筆者の手元にある3冊の伝記だけでも、ズレが多いのだ。食い違いを指摘しつつ、関係者のインタビューを並べた『So Much Things to Say』(2017/ロジャー・ステファン著・未邦訳)の信憑性が高いものの、文化や時代背景の違いを含め、視点を変えると彼の人生の捉え方も大きく変わる。レゲエの神様の一生は、単純化するとかえってよくわからなくなる。このシリーズでは基本情報と、最近の研究からわかった新事実を織り交ぜた軽い文章を目指そうと思う。
第1回目は、「改めてボブ・マーリー、そしてレゲエとは」というテーマ。ざっくり過ぎて、逆にどこから手をつけたらいいか悩んだ。70年代初頭までのジャマイカ時代を前半、イギリスのアイランド・レコーズ以降を後半にわけて書く。
レゲエのもっともわかりやすい音楽的な特徴は、4拍子で2拍目と4拍目にアクセントを置くリズムにある。ズンチャ、ズンチャ、と響くあのリズムだ。バックビートやオフビート、日本語では裏打ちとも呼ばれるこのリズムをスネア・ドラムやカッティング・ギターで刻み、うねるようなベース・ラインを載せて独特のグルーヴを出す。レゲエの発展は、アメリカのポピュラー音楽の変遷と密接な関係にある。ボブ・マーリーの軌跡自体が、スカ〜ロックステディ〜レゲエの黎明期、および世界進出と重なる。前半は、生い立ちとキャリア形成期までを見てみよう。
1. 超年の差婚だった白人の父と黒人の母
ボブ・マーリーは第二次世界対戦が終わった1945年、ジャマイカ南西部のセント・アン教区のナイン・マイルズでロバート・ネスタ・マーリーとして生まれた。このとき、父のノーマン・シンクレア・マーリーは60歳。19歳だった母、セドラの41歳上である。
イギリス出身で統治する階級側だった家族に反対されたノーマンは形式上だけ結婚したものの、すぐに母子を置いてキングストンに移ってしまう。セドラの父親、オメリアは土地持ちでいくつか商売をしており、薬草に精通し、民間医療を施せたという(まじないもできたとの説もある)。父親ははっきり言ってクズだが、やり手かつスピリチュアルだった祖父の存在は、自分で道を切り拓いたボブに影響を与えたはずだ。
ボブの幼馴染に本名ネヴィル・オーライリー・リヴィングストン、のちに一緒にザ・ウェイラーズを結成するバニー・ウェイラーがいた。バニーの父とボブの母のセドラが交際して娘が生まれたため、義兄弟の期間もあった。ボブ・マーリーはのちに優れたラヴ・ソングを作る一方、複数の女性と子をもうけたが、当時のジャマイカではとくに珍しいことではなかったのだ。
2. 寝る場所にも困ったトレンチ・タウンでの少年時代
10代になったボブは、母のセドラと首都キングストンのトレンチ・タウンに引っ越す。母のセドラは、より良い人生を求めて兄を頼ってイギリスへの移民を考えたものの、アメリカのデラウェア州に出稼ぎに行く。ジャマイカは海と山に恵まれた美しい島国だが、政治と経済が安定しないため、ほかの国への移民や出稼ぎに行く人は多い。セドラはボブをなかなか呼び寄せられず、10代の彼は、きちんとした寝場所がないような時期もあった。
1950年代終わりのジャマイカには、ジャズはもとより、ラジオを通じてアメリカ南部のリズム&ブルースが流入していた。スチャ、スチャとやはり2拍目と4拍目を強調したスカは、これらの音楽とジャマイカのフォーク・ミュージックのメントを混ぜたもの。国外に出たジャマイカからの移民がもたらした、アメリカの最新のレコードを入れたジュークボックスも流行っていた。
ボブのお気に入りはジ・インプレッションズで、のちに初期メンバーのカーティス・メイフィールドの「People Get Ready」をカバーしている。彼はバニーとピーター・トッシュ、それから2、3人のティーンネイジャーとともにコーラス・グループを結成した。
3. 名門レーベル、スタジオ・ワンからデビュー
1962年、ジャマイカはとうとうイギリスから独立する。音楽産業はますます盛んになり、コクソン・ドッドのスタジオ・ワンや、デューク・リードのトレジャーアイルといった、サウンドシステムを擁するレーベルから新曲がどんどんリリースされた。子どもの頃から野良仕事の合間や教会で歌っていた、歌が上手な若者にとって人前で歌って生計を立てるのが新しい夢となった。ザ・ウェイラーズや、トレンチ・タウンの近所で出会ったリタ・アンダーソンがいたソウレッツも同様だった。
ザ・ウェイラーズは1962年にスタジオ・ワンから「Simmer Down」をヒットさせたものの、生活は楽にはならなかった。60年代中期にはスカはテンポを落とし、甘いラヴ・ソングが主であったロックステディが大流行りした。
ボブ、ピーター、バニーの3人に落ち着いていたザ・ウェイラーズは、1965年にハーモニーに重点を置いたデビュー・アルバム『The Wailing Wailers』をスタジオ・ワンからリリース。アルバムのアートワークでは、アメリカのコーラス・グループばりにスーツを着込んだ3人が写っている。
1966年、ボブはすでに1児の母だった19歳のリタと結婚。その後、すぐに母がいるデラウェアに出稼ぎに行っている。当時、エチオピア初の黒人の皇帝、ハイレ・セラシエを神とするラスタファリズムが広まっていた。アメリカから戻ったボブはリタの影響もあって、ドレッドロックスを伸ばし始める。
4. 音楽ビジネスを学びながら、サウンドを確立
60年代の後半、ボブ・マーリーおよびザ・ウェイラーズの面々は、社会状況や新しい宗教、そして音楽の流行に合わせながら自分たちのサウンドを模索しつつ、海外への進出を目論んでいた。ジャマイカの音楽業界は著作権の概念が薄く、プロデューサー主体だったため、支払いを巡ってよく揉めてもいた。アーティストはレコーディングするレーベルをしょっちゅう変えたし、また同じ曲をヒットするまで再レコーディングするのもふつうであった。
アメリカのシンガー、ジョニー・ナッシュとダニー・シムズがレゲエの可能性に目をつけ、島で音楽ビジネスを展開させる。すでに人気があったザ・ウェイラーズの3人とリタ・マーリーも、ソングライターとして契約したり、レコーディングを重ねたりした。また、自分たちで「ウェイリン・ソウルム/Wail ‘N Soul ‘M」というレーベルを始めたり、ボブとリタはニューヨークのブロンクスまで行って、録音技術を学んだり、時代を先取りしていた。また、ボブ・マーリーのカリスマ性を見抜いたダニーたちは、彼をソロで売り出すことを画策していた。
この時期に特に重要なのは、ボブ・マーリーたちと鬼才・リー “スクラッチ“ペリーとの邂逅だろう。1970年のアルバム『Soul Rebels』は、ペリーのプロデュースによる。彼のレーベル、アップセッターで作った曲群は、その後のボブの名曲群のひな形にもなった。生々しく、太く、魔術的。1969年、ジャマイカのジェームズ・ブラウン、トゥーツ・ヒバート率いるザ・メイタルズが「Do The Reggay」をリリース。アメリカの音楽を独自にアレンジ、発展したサウンドに生活苦や信仰心、政治へのコメントを入れたリリックを載せた音楽がレゲエとして確立していく。
5. レゲエとロック:イギリスとジャマイカの複雑な関係
一方、イギリスへも移民とともにジャマイカ音楽がどんどん流入し、人気を博した。ジャマイカやほかの西インド諸島の島々の人たちが聴いていた音楽が、モッズやスキンズといったファッショナブルなライフスタイルを謳歌していた若者の間で広まったのである。
1964年には、ジャマイカ出身のミリー・スモールズが、スカの「My Boy Lollipop」を大ヒットさせる。米英両方のチャートで2位を記録し、クリス・ブラックウェルのアイランド・レコーズ初のミリオン・セールスとなった。ブラックウェルはジミー・クリフなどジャマイカ出身のアーティストに力を入れていく。
ジミーは、1972年の映画『ハーダー・ゼイ・カム』の主演を務め、映像とサウンドトラックを通してレゲエを世界に紹介、スターとなった。だが、彼はアイランドより予算の多いCBSレコーズに移籍し、ブラックウェルを失望させる。そこにコンタクトしてきたのが、ダニー・シムズやCBSがきちんとザ・ウェイラーズを売り出せないことに不満を抱えていたボブたちである。
イギリスから世界進出を目指していたものの、なかなか歯車が噛み合わなかったボブ・マーリーとザ・ウェイラーズの面々と、ジミーを失ったばかりのブラックウェルの出会いも、歴史の奇跡のひとつだ。ロック市場を理解していたブラックウェルは、当時の最新テクノロジーでそれまでのザ・ウェイラーズの音を刷新していく。だが、少しずつ入っていたピーター・トッシュとの亀裂は広がり、彼とバニー・ウェイラーはボブの元を去った。次回は、ボブ・マーリーと凄腕のミュージシャンを揃えたバックバンドのウェイラーズの活躍に焦点を当てる。
Written By 池城 美菜子(noteはこちら)
映画情報
『ボブ・マーリー:ONE LOVE』
■監督:レイナルド・マーカス・グリーン(『ドリームプラン』)
■出演:キングズリー・ベン=アディル(『あの夜、マイアミで』)、ラシャーナ・リンチ(『キャプテン・マーベル』)
■脚本:テレンス・ウィンター(『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』)、フランク・E ・フラワーズ、ザック・ベイリン(『グランツーリスモ』)、レイナルド・マーカス・グリーン
■全米公開:2024年2月14日
■日本公開:2024年5月17日
■原題:Bob Marley: One Love
■配給:東和ピクチャーズ
■コピーライト:© 2024 PARAMOUNT PICTURE
『One Love: Original Motion Picture Soundtrack』
2024年2月9日配信
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