『ウィキッド ふたりの魔女』レビュー:舞台ファンによる二つの期待と予想を大きく超えた瞬間

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2024年11月22日に海外で公開されると特大ヒットを記録、日本では2025年3月7日に公開された実写映画『ウィキッド ふたりの魔女』(原題:Wicked)。

この映画について、アメリカ演劇・日本近現代演劇を中心とする演劇史・演劇批評が専門の成蹊大学文学部教授、日比野 啓さんによるレビューを掲載します。

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ミュージカル・ファンによる二つの期待

舞台ミュージカル『ウィキッド』のファンが、今回の映画化にあたって楽しみにしていたことはなんだろうか。私には二つあった。

① 映画版でのクライマックスとなる「Defying Gravity」の場面をどう見せるか。

② すでにゲイ・アイコンとしても相当な人気を得ているアリアナ・グランデが、グリンダという「キャンピー」な役をどう演じるか。

最初に答え合わせをしてしまうと、二つとも予想以上の出来だった。けれどももっと意外で嬉しかったのは、「Dancing Through Life」の場面の振付、演出、そしてそこで踊ったジョナサン・ベイリーが素晴らしかったことだ。1961年のロバート・ワイズ監督の映画『ウエスト・サイド・ストーリー』が、舞台での成功をはるかに上回る見事な絵作りで作品の性格を決定づけたように、ジョン・M・チュウ監督の本作『ウィキッド ふたりの魔女』は、これまで各国で上演されてきた舞台版を凌駕する強烈なイメージを作り出した。

 

映画だからできる「Defying Gravity」の表現

「Defying Gravity」は、『ウィキッド』という作品全体の方向性を示す大曲だ。そもそも「重力に逆らう」とは、文字通り「空を飛ぶ」という意味でもあるが、オズの大王が持つ絶対的な権力に抗う、という意味でもあるし、歌詞でエルファバ自身が説明するように、これまでのしがらみを捨てて自由になる、という意味でもある。

そして作曲・作詞を担当したスティーヴン・シュワーツが――日本ではドイツ人であるかのようにシュワルツと表記していることが多いが、本人はシュワーツと発音している――ここで説明しているように、「Defying Gravity」の場面は、一つのナンバーというよりも、複数のメロディやテーマを繋ぎ合わせたものだ。

具体的には、エルファバとグリンダの皮肉な調子のやり取りの後、作品冒頭で演奏されるファンファーレ風の「No One Mourns the Wicked」が繰り返されて、「Defying Gravity」のメイン・テーマとなる。その後にシュワーツが“Unlimitedのテーマ”と呼んでいるメロディになるが、じつはこのメロディは『オズの魔法使』のテーマ曲ともいえる「虹の彼方に」の最初の七音を使って、それとは異なる印象を作り出したものだ。

こうやって「Defying Gravity」は、作品内外で示される①邪悪さはあらゆる場所に偏在する、それでも②未来は無限の可能性を持っている、という二つの主題を提示し、それらを――まるで私たちはその両方を受け入れなければならないというかのように――つなぎ合わせる。

舞台版では第一幕の終わりとなる「Defying Gravity」でも、エルファバはホウキに乗って飛ぶことになっている。ここではじめて、人々が思い描く「空飛ぶ魔女」の姿を見せるわけだ。けれども宙乗りの技術がいくら進歩したとはいえ、舞台を見てエルファバが重力に逆らって空を舞うようになった、と思い込むのはなかなか難しい。

一方映画では、公式トレイラーのこの辺りから見るとおよそ想像がつくように、VFXのおかげで空を飛ぶエルファバのイメージは観客の脳裏に強く刻まれる。エルファバが現実的にも、象徴的にも、自由の身になったことが、圧倒的な視覚的説得力を持って迫ってくる。

 

アリアナと“キャンピー”なグリンダ

『オズの魔法使』(1939)がキャンプ感覚に満ちているがゆえにゲイにとって重要な作品であることはここで説明した。人工的でわざとらしいもの、どぎつく悪趣味なものを「愛でる」態度がキャンプだ。ドラァグ・クイーンは男性であることを隠さずに「女」を装う。髭剃り跡やすね毛が見えているからこそ、低くしわがれた声だからこそ、「彼女」はいっそうドラァグで「キャンピー」だ。

同様に、アリアナ・グランデは生物学上女性かもしれないが、度を過ぎた「女の子らしさ」ゆえに、「自然な」女性に見えない。カールしたまつ毛、キュートさを前面に押し出したメイク、唇を尖らせたりして、「自分は愛されるべき存在だ」と周囲にシグナルを送る表情や仕草。存在自体がフィクションのようで、キャンピーだ。

合衆国ではエルファバとグリンダのバービー人形がもう売られているが、グリンダのバービー人形はアリアナ・グランデそっくり、というより、アリアナ・グランデがこのグリンダのバービー人形そっくりのように思えてくる。

映画『オズの魔法使』ではグリンダは巨大な球状の透明な膜に包まれてやってくる。このB級SF映画のようなバカバカしくも子供だましの仕掛けをあっけらかんと見せるところもキャンプ感覚を刺激するが、映画『ウィキッド』ではそれが冒頭で再現される(舞台版の演出ではあまり用いられない)。

透明な球体の中でにこやかに、しかしどこか所在なげに佇んでいるのは、もちろんアリアナ・グランデ。ドラァグ・クイーンはたいてい堂々と振る舞っているが、ふと「自分は場違いだ」という表情を見せることがある。集まったオズの人々の前でグリンダが冴えない顔をしているのは物語上の要請でもある(ネタバレになるので詳細は省く)。だがメイクの色調をわざと抑えて顔を青白く見せたアリアナが悄然としているのを見ると、夜通し陽気に騒いでいたドラァグ・クィーンたちが朝方になって気怠げな顔つきになるのを思い出してしまう。

死にたくなるほどの憂鬱さと狂躁的な騒がしさをひっきりなしに往還する気分のジェットコースターもまた、キャンプ的感受性の一部で、まるでアリアナのために書かれたような「Popular」は、社交的で「みんなの人気者」であるグリンダ=アリアナの心底にある寂寥感をチラと覗かせる名曲だ。

 

予想を大きく超えた「Dancing Through Life」のミュージカル的瞬間

ここまでは予想以上の出来だった、といっても大体想像はしていた。だが思いがけなかったのは「Dancing Through Life」の場面だ。歌詞を見ればわかるように、このナンバーではウィンキー王国の王子フィエロが、何も考えずお気楽に「踊り暮ら」すという自分の生き方を肯定して歌う。

物語後半のフィエロの覚醒とエルファバとの連帯、その後の試練を知る観客にとっては、世間知らずの若者が「トラブルを避けていれば/悲しみは消え苦悩も続かない」と得意気に口にするのは苦笑するとともに、恵まれた境遇に育った人間がこれから味わうことになる苛酷な運命を考えて、憐れみと恐れを感じずにはいられないものだ。

そしてその後半生とのコントラストを際立たせるために、この場面のフィエロは、カッコよく、オシャレに、クールに踊らなくてはならない。恐れる未来などないかのように、明るく、溌剌としていなければならない。私がブロードウェイや日本で見てきた舞台版でも、それは十分示されてきた。ところが映画では、シズ大学の図書館を舞台に、回転する三つの巨大な書棚の中でフィエロたちが踊るという演出をすることで、若くハンサムなフィエロが輝かかんばかりの存在であることを画面いっぱいに映し出してみせる。

大学という本来「静」の空間に、学生としての知性を持ち合わせないように思えるフィエロがダンスという「動」を持ち込む。舞台版でもその対比が印象的であるのは同じだが、映画版では図書館というもっとも「大学らしい」静謐な空間において、書棚が急速に回転し始めることによって、まるでフィエロが生み出したダイナミズムが世界全体に波及していくように見える。

ミュージカルの面白さは、ナンバーが始まった途端、魔法がかけられたかのように世界が一変するところにあると考えている私はこの演出を見て、ジョン・M・チュウは「ミュージカルをわかっている」なあと感心したのだった。そのぐらい、「Dancing Through Life」はミュージカル的瞬間を作り出していた。公開予定の第二部が今から楽しみだ。

Written By 日比野 啓


『Wicked: The Soundtrack』
2024年11月22日配信
CD&LP / iTunes Store / Apple Music / Spotify


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