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ケンドリックとドレイクは速すぎる! “のんびりビーフ”の時代を再訪
ヒップホップやR&Bなどを専門に扱う雑誌『ブラック・ミュージック・リヴュー』改めウェブサイト『bmr』を経て、現在は音楽・映画・ドラマ評論/編集/トークイベント(最新情報はこちら)など幅広く活躍されている丸屋九兵衛さんの連載コラム「丸屋九兵衛は常に借りを返す」の第53回。
今回は、昨年勃発して話題となったケンドリック・ラマーとドレイクのビーフを起点として、インターネット時代以前、やりとりに時間がかかっていた“のんびりビーフ”の時代を再訪。
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やりとりが速すぎたケンドリックとドレイク
スーパーボウルにおけるハーフタイム・ショウの余韻が衰えない2025年春。思い返すのは、それに先立つケンドリック・ラマー対ドレイクのビーフの凄さである。
あの舌戦は本当にブリリアントだった。スヌープ・ドックが賞賛していたように、リリックのレベルが高く、ディスというものを芸術の領域に昇華していたからだ。
二人の仲違いの発端は2013年だったらしいが、我々の記憶に焼きついているのは、2024年3月から5月にかけての1ヶ月半ほどのヒートアップ期だ。その間に発表されたディス・ナンバーは、ケンドリック側が5曲、ドレイク側が5曲、計10曲。なんたる集中力、なんたる生産性、なんたる職業倫理であろうか。
時間がかかっていたネット以前のビーフ
……と素晴らしいのだが、オールドスクールなヒップホップ・リスナーとしてはこう言いたい。ちょっと待て、昔のビーフはもっとゆったりのんびりしたものだったぞ。そもそも当時はインターネットが未発達だから、ヴァイナルであれカセットテープであれCDであれ、ディス曲は何かしらフィジカルで発表するしかない。固形物でのリリースはデータのアップロードよりハードルが高く、つまりはそれだけで時間を要するものだ。
加えて、かつてのヒップホップ界には「すぐに反撃せねば」というムードはなかった。何ヶ月も、時には1年以上も経ってから、ようやくアンサー・ソング。気長さが時代のムードであり、ビーフにおいてすら悠長さが容認されていたとも言える。
もちろん、のんびりビーフと超速ビーフ、どちらもビーフであり、その意味で優劣はない。ただただ、時代の変化を噛み締めるのみである。
というわけで本稿では、わたしの記憶に残る「のんびりビーフ」をピックアップしていきたい。
N.W.A. vs アイス・キューブ
作詞面で最大の貢献をしたにもかかわらず薄給だったことから、N.W.A.を脱退したアイス・キューブ。それでもキューブのソロ・デビュー・アルバム(1990年5月18日リリース)に明確な古巣攻撃曲はなかった。仕掛けたのはN.W.A.の方である。
1990/08/14 N.W.A.「Real Ni**az」
EP『100 Miles and Runnin’』に収録されたこの曲でドクター・ドレーは「お荷物野郎のベネディクト・アーノルドが消えてくれて助かった」などとラップする……のだが、同フレーズはリスニングのハードルを上げている。ベネディクト・アーノルドとはアメリカ独立戦争時の悪名高い裏切り者(将軍)。そう、ギャングスタ・ラップを聴く時も歴史の知識は必要なのだ……。
さて、この90年前後は今とは違った意味でEP時代。アイス・キューブの方も1990年12月18日にEP『Kill at Will』を出すが、N.W.A.への反撃は「Jackin’ for Beats」の中で『100 Miles and Runnin’』に言及するにとどまっていた。というわけで再度、本格的に仕掛けたのもN.W.A.である。
1991/05/28 N.W.A.「Message to B.A.」
彼らのセカンド・アルバムにして最終作である『Efil4zaggin』(先の「Real Ni**az」も再収録)に収められたラジオ風スキット、題して「ベネディクト・アーノルドへのメッセージ」である。番組に電話してきたファンが「そもそもキューブみたいなパンクアス・ビッチをなんでグループに入れたん?」等と語るものだ。
1991/10/29 アイス・キューブ「No Vaseline」
そんなこんなで堪忍袋の尾が切れたのであろう。キューブから物凄い反撃が来た。「俺のほうはお荷物野郎を4人も払い落としたおかげで、儲けを独り占め」「ドレーはラップせずプロデュースに専念しろ」等とグループ全体も各メンバー個人も誹謗しつつ、「お前たちは白人マネージャーのジェリー・ヘラー(より正確にはユダヤ系)に搾取されてる」と示唆することで内紛誘引&個別撃破を狙う。うまいな。
以上、1年と2ヶ月半ほどかけた応酬だった。いがみ合いの中でも時間がゆったりと流れていたことを痛感する。
ドクター・ドレー vs イージー・E
ドレーがグループを脱退して新レーベル「デス・ロウ」を設立するに至り、N.W.A.は解散宣言も出さぬまま活動停止を余儀なくされた(そもそもヒップホップやR&Bやソウル界で「解散」を正式宣言することはレアだが)。ここから新たに始まったのが、ドレーとイージーの抗争だ。
アルバム内の地味な曲がビーフを主に担っていた先の「N.W.A. vs アイス・キューブ」と違い、ドレー対イージーはディス曲がシングル・カットされている。両者ともに「舌戦は話題になる」と踏んだのかどうか。
1992/12/15 ドクター・ドレー、アルバム『The Chronic』リリース
↓
1993/05/20 同アルバムから、「Fuck wit Dre Day (And Everybody’s Celebratin’)」をシングル・カット
↓
1993/08/26 イージー・Eが「Real Muthaphuckkin G’s」を先行シングルとして発売
↓
1993/10/19 上記シングルを含むアルバム『It’s On (Dr. Dre) 187um Killa』をリリース
ドレーはイージーを「あんたの地元の仲間だった連中も、今ではあんたのことなんかリスペクトしてない」と中傷しつつ、「昔のあんたは俺の友達で俺のエースだった」とグッド・オールド・デイズへの振り返りも交える。シリアスなディスの中にちょっとした泣けるポイントを演出していて巧みといえよう。
一方、イージーの「Real Muthaphuckkin G’s」は、より舞台裏バクロ系の愉快さが。曰く「ドレーが”イージーを蜂の巣にしたる!”とラップしているレコードが売れると、実は俺に印税が入ってくんねんなあ。ドレーのファンは知っとるんかいな」
そう、ドレーがルースレス・レコーズから強引に離脱したことへの賠償として、ドレーの売上の一部がイージーの懐に入る仕組みになっていたのだ……という種明かしを含めて、アルバム『It’s On (Dr. Dre) 187um Killa』全体がドレーへの嫌がらせになっているあたり、イージーは愉快犯/確信犯的トリックスターとして傑物であった。
ここにドッグ・パウンド(ドレー側)とBG・ノックアウト&ドレスタ(イージー側)らを含めるとディスのやりとりは1995年まで延長されるが、なんにしてもビーフが気長だった時代の風物詩として記憶しておきたい。
DJ・クイック vs MC・エイト(コンプトンズ・モスト・ウォンテッド)
両者ともに同じコンプトン出身なれど、青組ことクリップス所属のMC・エイトと、ブラッズ(赤組)メンバーのDJ・クイック。赤青の差異は「ラッパーとしての対立」とイコールではないが、この二人が繰り広げたビーフは長い。とても長い。
最大スパンで見ると1987年から2002年の15年間というから、「ヒップホップ史上の最長ビーフ」と呼ばれることもある。「プロパーなディス曲の応酬が盛り上がっていた時期を絞り込むと1990年からの6〜7年」とも言われるが、それでも充分長い。しかし、御多分に洩れずディス曲とディス曲の間の休止期も長く、濃厚さや緊張感ではケンドリック・ラマー対ドレイクを何倍にも希釈した感がある。
ことの起こりはDJ・クイックが正式デビューを飾る前の1987年らしいから、N.W.A.関連のビーフより実は起点が早い。この時期のクイックはミックステープで評価を高めつつあり、そのリリースの一つである『The Red Tape』に収められた「Real Doe」に「CMWに見せつけてやる」という一節があった。CMW、つまりMC・エイトが率いるコンプトンズ・モスト・ウォンテッド(Compton’s Most Wanted)である。とはいえ、こんなものはディスの範疇にも入らない、単に「地元の先輩格への言及」だろう。
で、同曲からの歩みを時系列でまとめてみると……
① 1987? DJ・クイック「Real Doe」
② 1990/06/19 コンプトンズ・モスト・ウォンテッド「Duck Sick」
③ 1991/07/16 コンプトンズ・モスト・ウォンテッド「Def Wish」
④ 1992/07/20 DJ・クイック「Way 2 Fonky」
⑤ 1992/09/29 コンプトンズ・モスト・ウォンテッド『Music to Driveby』収録の3曲
⑥ 1994/07/19 MC・エイト feat. CMW「Def Wish III」
⑦ 1995/02/21 DJ・クイック「Dollaz + Sense」
⑧ 1996/04/09 MC・エイト feat. CMW『Death Threatz』収録の2曲
このビーフの最大のポイント。それは、MC・エイトを始めとするコンプトンズ・モスト・ウォンテッドの面々は当初、「DJ・クイック」なる人物の存在を知らなかったということ!
①でクイックから仕掛けられた軽い言及にも気づいていなかったし ②のリリック中に登場する単語「クイック」も人名にあらず、「素早く」の意味だったのだ ③はDJ・クイックがアルバム『Quik Is the Name』を出した後なので、MC・エイトも彼の存在を認識していただろうが、彼へのディスとしてではなく、例によって「素早く」の意味で「クイック」を多用していた。これを自分への中傷と誤解したDJ・クイックが④で「Def Wish」を貶めたことから、罵詈雑言の応酬へと発展していくことになる。ああ、「ヒップホップ史上の最長ビーフ」が、実は勘違いに起因するものだったとはなあ。
この舌戦が沈静化したのは1996年、ヒップホップ界に衝撃を与えた2パックの逝去後だ。そして、クイックとエイトがビーフ終結を明確にしたのは2002年だった。写真を見る限りにおいて、その後の二人はかなり親しく交流しているようである。
以上、のんびりゆったりと気長に展開されたビーフの3例。結果として全て西海岸のケースとなったが、機会があれば別の地方についても書きたいと思う。
Written By 丸屋九兵衛
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