『Please Hammer, Don’t Hurt ‘Em』から30年。今こそMCハマーの軌跡を振り返れ!【前編】少年時代から大ヒットまで
ヒップホップやR&Bなどのブラックミュージックを専門に扱う音楽情報サイト『bmr』を所有しながら音楽・映画・ドラマ評論/編集/トークイベントなど幅広く活躍されている丸屋九兵衛さんの連載コラム「丸屋九兵衛は常に借りを返す」の第17回は、1990年2月12日に発売となり日本を含めて全世界大ヒットとなったMCハマーのアルバム『Please Hammer, Don’t Hurt ‘Em』の発売30周年を記念して、MCハマーとこのアルバムについて解説頂きました。
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2012年。もちろんK-POPリスナーでもあるわたしは、PSYの「カンナムスタイル」の大ヒットに感心していた。「これ、吉幾三の”俺ら東京さ行ぐだ”みたいな歌詞なのに、そのコンテクストが理解されない米欧で、よおヒットしたなあ」と。同時に「何年か前のYGファミリー・コンサートで見たときは、こんな大化けを果たすとは思わなんだ」等々、なんだか押し寄せる感慨に圧倒されながら。
同年11月18日に開催されたAmerican Music Awardsでは、そのPSYによるパフォーマンスがあった。曲はもちろん「カンナムスタイル」だ。だが、始まって2分半ほどで場内は暗転。「なんやろ」と思ったら、PSYがさりげなく「ハマー・タイム」とアナウンスし……明るくなったステージの中央にいるのはMCハマーだ!
そこからは「おっぱん江南スタイル!」と「トゥレジェッ、トゥレジェトゥクイッ!」が交互に飛び出す、「カンナムスタイル」と「2 Legit 2 Quit」のマッシュアップ状態に。ハマーの踊りについていくPSYのダンス能力に感心しながら見守るわたし。最後はMCハマー本人による「ハマー・タイム」宣言で終わった。
とても印象に残っているのは、この直後のインターネットで見た、アメリカ人たちの反応。「PSYにとっても、彼のバックダンサーにとっても、ハマーとの共演は夢のまた夢が現実になった瞬間だったに違いない」というようなポジティヴな声が多かったのだ。
ちゃんとリスペクトされてるやん、ハマー! 「ヒップホップ史上、最も罵られたラッパー」とまで形容された彼だが、超絶人気とそれに対する反発、転落と転向(?)を経て一周も二周もしたうえで、然るべき評価をされるようになってきた気もする。
その「カンナムスタイル」からも7年以上が経った2020年。この2月12日は、MCハマーが超絶大ヒット・アルバム『Please Hammer, Don’t Hurt ‘Em』を発表してから30年なのだ! そんな今こそ、彼の歩みを振り返ってみよう。
MCハマーことスタンリー・カーク・バレル(Stanley Kirk Burrell)は1963年3月30日生まれ。オークランド市内の南東部に位置する黒人人口多めの地域、イーストオークランドで育った。なんとなく軽視されがちな気もするが、彼はこの西海岸はカリフォルニア州北部、ベイエリアを代表する都市の出身であり、そのルーツは彼のキャリアを大きく左右するものだった……と強調しておきたい。
1973年、スタンリー・バレル少年(10歳)はA’sことオークランド・アスレティックスのホームグラウンド球場「オークランド・コロシアム」の駐車場で友人ビートボクサーに合わせてダンスを披露していたという。そこを通りがかったのが球団オーナーのチャーリー・O・フィンリー。子供ながらに放つカリスマ性に感心した彼はスタンリーを雇い、結果、少年は高校卒業直前までアスレティックスのために働くことになる。「球団のバットボーイとして雇われた」という通説に対して、のちにハマーは言った。「バットボーイは兄のルイス・バレルであり、俺自身はチャーリー社主からの電話に対応する係だった」と。
チームはオークランドだが、社主はシカゴ在住。スタンリー少年は、そんな社主からの電話を受け、試合の様子からチーム内の人間関係まで伝えていたというから、アケメネス朝ペルシア帝国における「王の目、王の耳」みたいなものである。
こうしてアスレティックスに出入りするようになったスタンリー・バレル少年についた愛称が「ハマー」だった。当時を知る選手は「ハンク・アーロンに似ていたから」と語っている。通算本塁打755本、ミルウォーキー・ブレーブス〜アトランタ・ブレーブスの最強打者として鳴らし、大リーク史上に残る名選手として記憶されるアーロンの通称「ザ・ハマー」にちなんだ呼称は、野球少年だったスタンリー・バレルにとっても嬉しいものだったろう(下記写真はスタンリー少年とハンク・アーロン)
そう、高校では二塁手だった彼自身、もちろん将来はメジャーリーグ選手を夢見ていた。だが、サンフランシコ・ジャイアンツ(なぜアスレティックスではないの?)のトライアウトで最終選考に残れず。夢破れたハマーは海軍に志願し、名誉除隊となるまでの3年間を軍人として過ごすことになる。
除隊後のハマーはしばらくの間、ゴスペル・ラップ系のグループで活動していた。その名もホーリー・ゴースト・ボーイズ(Holy Ghost Boys)!……なんちゅうセンスであろうか。とはいえ、「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック界初のラップ・ヒットを生んだ先駆者」と目されているらしい。
だが、ソロとしてのディールはなかなか決まらず、行き詰まりを感じることもあったハマー。こんな時に頼れるのは、やはり古巣(?)オークランド・アスレティックスである。同チームの選手2人に各2万ドルを借りたハマーは、それを元手にBust It Productions(会社)とBustin’ Records(レーベル)を設立。地下室で曲を作り録音し、シングルやカセットを車のトランクに積んで行商に励んだ。彼のブレイク後、コメントを求められたイージーEが「ハマーのことは本当に尊敬してる」と語ったのも、こうしたビジネス根性に自分と共通するものを感じたからではないか、と思う。
コン・ファンク・シャンのフェルトン・パイレート(Felton Pilate)をプロデューサーとして招いて自主制作したデビュー・アルバム『Feel My Power』が世に出たのは1986年8月。これまた、丹念なストリート・マーケティング(自家用車行商ともいう)が功を奏したか、「Ring ‘Em」と「Let’s Get It Started」の2曲は特に人気を博し、アルバムはサンフランシスコ・ベイエリアで6万枚を売るローカル大ヒットとなった。見えてきた明るい展望に勇気づけられたハマーは、ダンサーやバック・ヴォーカリストたちと共に「1週間に7日」というハードなリハーサルを展開した。この「よし、リハーサルだ!」という発想というか労働倫理というか。これが、MCハマーを凡百のラッパーから隔てているものだと思う。
ヒップホップのライブは、往々にしてステージ上の人数が多い。しかし、それらのモブの実態が友人や親戚であり、音楽的にも視覚的にもパフォーマンスに大して積極的な寄与はしない……というケースも多々ある。その意味では、総合格闘技の試合で決着後にリングやケイジやオクタゴンへと雪崩れ込んでくるセコンドたちに近い。
しかしハマー率いる軍団は、規律からして全く別もの。録音作品としてのスタジオ・アルバムとは違う、単なる再現ではないコンサートという体験を創造せんとする気概がそこに。身銭を切って足を運んでくれる人たちをもてなすためのショウマンシップを突き詰めた発想は、とても現代的だったのではないか。
そんなハマーのショウをたまたま目撃したレコード会社エグゼクティヴは「ステージ上の男が誰かは知らないが、注目すべき人物なのは間違いない」と確信したという。こうして築き上げたライブ・アクトとしての定評が業界に広まった結果、何社かがハマー獲得に動くことになる。
とはいえ、この時点でのハマーはすでに自信満々。必死になってレコード会社のツテを求めていた数年前と違い、自主レーベルで成功した今となっては、大手との契約には前向きではなかったらしい。だが、件のパフォーマンスを目撃したエグゼクティヴによる説得に心を動かされ、キャピトル・レコーズと契約するに至った。
ただし、そのキャピトルとの初作、1988年9月にリリースした『Let’s Get It Started』は、インディ盤『Feel My Power』の改訂版だった。つまり、『Feel My Power』と『Let’s Get It Started』の関係は、リュダクリスの『Incognegro』と『Back for the First Time』と同じ、ということである。
この『Let’s Get It Started』は売れた。200万枚以上も売れた。しかしハマーは不満を感じたらしい。「せっかくメジャーと契約したのに、この程度か」ということか。「だから次のアルバムは、より音楽的にしようと思う」とは、当時の彼の弁である。
『Let’s Get It Started』からの収益を使いツアーバス内にスタジオを設置、精力的なツアーの最中にもレコーディング可能な環境を手に入れたハマー。こうして作り上げたのが、1990年2月12日にリリースされた事実上のセカンド・アルバム『Please Hammer, Don’t Hurt ‘Em』だ。この妙に長いタイトルは、その時点までは「ビーフ上等」「ディス大好き」な攻撃的ラッパーでもあったMCハマーが、自身をユーモラスに表現したものと言える。
アルバムの制作費は1万ドルと聞く。日本円の価値が下落した今となってはアレだが、かつてのスタンダードである「1ドル=100円」で計算すると「1万ドル=100万円」となる。13曲入りだから、1曲当たり7万7千円くらいで仕上げてしまった、恐るべき低予算アルバムということだ!
その低予算作が、ヒップホップ史上初のダイヤモンド・ディスク(1,000万枚超え)となるとは。米『ビルボード』誌のBillboard 200チャートでは21週1位を達成した同作は、現在までに1,800万枚セールスを達成。今日に至っても「ヒップホップ史上最大のヒット・アルバム」であり続けている。
Written by 丸屋九兵衛
1990年2月12日発売
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■著者プロフィール
丸屋九兵衛(まるや きゅうべえ)
音楽情報サイト『bmr』の所有者/音楽評論家/編集者/ラジオDJ/どこでもトーカー。2020年現在、トークライブ【Q-B-CONTINUED】シリーズを展開。他トークイベントに【Soul Food Assassins】や【HOUSE OF BEEF】等。
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