【対談】DJ KOO × DJ OSSHY『サタデー・ナイト・フィーバー40周年』

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ジョン・トラボルタ主演映画『サタデー・ナイト・フィーバー』が日本で公開され、今年で40周年という事で、それを記念した“DISCO FEVER”キャンペーンが始動した。

その第1弾作品として、ヒットチューン満載の3枚組60曲入りコンピレーション・アルバム『Let’s Disco ~The Best Of Disco Hits~』が、3月21に発売される。『サタデー・ナイト・フィーバー』は、アメリカ本国で1977年に公開され、世界的なディスコブームを牽引し、もちろん日本でも1978年7月15日に公開されるや、若者たちはこぞってディスコに通うようになり、ディスコシーンが大いに盛り上がった。

ちょうどその頃ディスコDJデビューした、DJ OSSHYDJ KOOに当時のディスコシーンの様子、そして『サタデー~』がシーンにもたらした“衝撃”を教えてもらった。


 

KOO 俺はずっとロック少年で、本当はバンドで世に出たかったんだけど、高校卒業して限界を感じて。高校生の時はラグビー部で頑張っていたので、ディスコにも一回も行ったことがなくて、専門学校に通うようになって、ディスコに初めて行ってハマりました。確か新宿の「チェスターバリー」だったと思います。

――ディスコにハマって、やっぱりDJに憧れて…。

KOO DJになろうと思ったきっかけは、その頃ディスコというと、不良が行くところという暗い、悪いイメージがあって、でも社会人も学生も色々な人がいる中で、DJって一人でそれを音楽で仕切っているというのがかっこいいなと思って。

――DJが、そこにいるお客さんを音楽と言葉で操っている感じですよね。

KOO  そう。自分はここで踊っているより、あのブースでみんなを操りたいなって思いました。バンドではデビューできなかったけど、DJも音楽を流して人を気持ちよくさせるという意味では、音楽の道でご飯を食べていくという事なので。

――ロック少年が、当時のディスコミュージックにすんなり入っていけました?

KOO それがすんなりと(笑)。当時はディスコでかかっている曲って、ディスコでしか聴けなかった。例えば当時はラジオのベストテン番組ではスティービー・ワンダーとかは流れていたけど、ブラザーズ・ジョンソンは、ディスコでしか聴けなくて。初めて聴くコンテンポラリーだったので、そこからディスコミュージックにのめり込んでいきました。

OSSHY 「チェスターバリー」に初めて行ったのは、何年くらいですか?

KOO  確か1977年か78年くらい。それと渋谷の「ブラックシープ」だったかな。専門学校のパーティで、よくディスコっぽい事をやっていて、そこで「俺、DJやるよ」っていって、「さあ今夜も~、まずはクール&ザ・ギャング「セレブレーション」」とかMCを入れながらやったらウケて(笑)。それで、「お、イケるな」って思って。曲をつなぐだけじゃなく、喋りながら曲をかけるのって心地いいなって。それでディスコに遊びに行った時に「すみません、ちょっとDJやらせてもらえませんか?」ってお願いして。

――いきなり言って、受け入れられるんですか?

KOO たまたまだったと思う。DJブースに行って、「すみません、僕にやらせてもらえませんか、2、3曲」って言ったら「あ、いいよ」って。

――OSSHYさんがDJを志そうと思ったきっかけを教えて下さい。

OSSHY 私は中学時代からオーディオ少年で、クラスの仲間に今でいうコンピレーション、好きな楽曲をカセットテープに録音して編集したものを、配っていました。そういう人間は当時いなかったので重宝がられていました。色々なデッキを揃えて、自分なりにちゃんとしたオーディオセットを組んで、で、録音する時に、どうしてもできる曲と曲の間のブランクをなくしたい、隙間なく繋げたいと思い始めて。でも当時は技術的にも機材的に無理でした。それで、高校1年の時に先輩に連れていかれたディスコでDJプレイを観てショックを受けました。それが「新宿プカプカ」でした。

KOO え、俺、「プカプカ」で回してたよ!

OSSHY そうだったんですね!「プカプカ」で人生初のディスコ体験をして、まず衝撃だったのが、曲が絶え間なく流れてる、なんでだと。その時にDJブースという存在を初めて知って、行ってみるとターンテーブルが2つあって、その間にミキサーと呼ばれる機材があって、ミキサーを通してノンストップで曲が流れている技術を初めて見て、ビックリ仰天しました。そこから、次は渋谷の「ラ・スカーラ」というディスコに、ひとりで週4日くらい通って、ブース越しにずっとDJさんのプレイを見ていました。DJブースに通っている感じでした。それで、通い始めて一か月位経った時にDJさんに「お前、一人で毎日来てるけどDJに興味あるのか?」と声をかけてもらえました。で、本当にやる気があるんだったら、今、見習いを募集してるところがあるから紹介するよって言ってくださって。それが渋谷の「キャンディキャンディ」というディスコでした。そこでいわゆる見習い、丁稚奉公を約1年弱やって、経験を積みました。当時はディスコに専属DJが3~4人いて、そこに入るには至難の業で、だからDJはみんなの憧れでした。

KOO 中でもチーフDJってお店の看板で、あの店のあのDJって、すごく注目されてたよね。城を構えている感じだった。

OSSHY 城を構えてるけど、当時はお店の名前、ブランドに惹かれてお客さんが来ていましたよね。

――当時はディスコはメディアのひとつで、先ほどKOOさんもおっしゃっていましたが、ディスコでしか聴けない曲があり、ディスコからのヒットというのもたくさんあった時代でした。

OSSHY そうです、メディアでした。

KOO だからこそDJも一曲一曲プライド持って曲をかけていたし、レコード会社のプロモーターの人が、お店によく来てくれていました。

OSSHY ディスコプロモーターという担当が、各レコード会社の宣伝部にいました。

KOO そうそう。各社が色々な作品を持ってきてくれてね。営業中にプロモーターが来ると、それをかけるわけよ。お店でかけて、うちのお店はプロモーションにすごくいいんだぜっていうところを見せたいから、いいタイミングでかけてあげてましたね。

OSSHY  そうそう、ピーク時にね。

ーーお客さんも、このお店に来れば、新しい曲がいち早く聴けるみたいな。

KOO だからプロモーターの人たちと話をするのが、すごい勉強になったし、新しい音楽とか常に仕入れる事ができていたので、洋楽ってディスコが一番早くかかったし、早くヒットしたよね。

OSSHY 早かったです。最先端で、最新ナンバーがかかるメディアだったから。色々なメディアがある中で、ディスコは新曲が流れるメディアだとしたら、ラジオと同じくらいのポジションで注目されていました。

――他にはどういう方法で音楽の情報をゲットしていたんですか?

KOO とにかくアルバムを全部聴くという事を心掛けていました。当時のアメリカって日本と違って、アルバム先行で、アルバムの中からシングルカットをしていったから、シングルだけではなくアルバムを全部聴いて、アーティストの姿勢のようなものをアルバムから仕入れていました。シングルよりもアルバムの中にいい曲ないかなって。

OSSHY まったく一緒です。

KOO だってラジオのベストテン番組聴いたって、そこで流れてるのって、自分たちがずっと前からかけているものとかばかりだったし。

OSSHY そうでした。だからこれかっこいいなって思った、自分だけの宝物をやっぱり紹介したい衝動というか、そういう感覚が強かったですね。
ーーお店によってカラーもありましたよね。

KOO あったね。すごく象徴的なのは「B&B」のようなサーファーディスコと、「TSUBAKI」のようなロック系と分かれたよね。

OSSHY あとエリアでも分かれてました。新宿のディスコはMCが主体のお店で、六本木はまったくMCなしで、つなぎ命という感じで、渋谷はそれがうまくブレンドされているというか、適度につないで、適度にMCを入れる、という感じで。横浜エリアはまた独特の文化があって、すごくブラックが強かったり、ダンスも横浜独自の“ハマチャチャ”があったり、独自のカルチャーが醸成されていました。

――ディスコブームに一役買ったのが、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』だと言われていますが、あの映画が日本に上陸して40周年です。お二人にこの映画がディスコに与えた影響をお聞きしたいのですが。

OSSHY 『サタデー・ナイト・フィーバー』は、日本公開が78年で私は13歳だったので、後追い世代になりますが、その時のディスコの現場をKOOさんに聞きたいですね。

KOO 当時、あの映画の影響が一番が大きかったのは、ディスコの店内じゃないかな。照明、ミラーボールで、床から光るというあの内装、演出。あのイメージをどのお店も持ちこんだと思います。映画の中でトニー(ジョン・トラボルタ)とステファニー(カレン・リン・ゴーニイ)がやっていたペアダンスも、マネしている人が多かった。SAM(trf)もその一人だし(笑)、ジョン・トラボルタのダンスは、当時にダンサーは絶対に通っているはず。それイコール、モテるというか、周りをひきつけるっていう感じだったので、ディスコでは、ジョン・トラボルタのような感じでやっていたらスターになれるぜという風潮はあったかな。

OSSHY DJがモテるんじゃないですね(笑)。ダンスが上手い人がモテたんですね。それでモテたいがために、ディスコに行ってダンスを練習する。

KOO そうそう。社会現象として思いっきりディスコに流れ込んできたのは、そういう部分だと思う。あの映画がなかったら、ディスコの店内がどうなっていたかわからないと思う。とにかく床を光らせてっていうね(笑)。

――やっぱり革新的な映画だったんですね、ディスコ業界の中では。

KOO 後から『フラッシュダンス』とか、色々な映画が出てくるけど、やっぱり『サタデー・ナイト・フィーバー』に勝る、社会現象にまでなった映画はなかった。あの映画の中で、たくさんのお客さんがワーッて盛り上がっているじゃない?あのイメージだったんだろうね。ラインダンスとかもあったり、そういうのをマネしたかったんだろうね。

――あの映画の中で流れた、ビー・ジーズの「ステイン・アライブ」「恋のナイト・フィーバー」「愛はきらめきの中に」は、ディスコの定番になって、今でも愛されています。

KOO やっぱりビー・ジーズは、その時のディスコミュージックを象徴してくれる存在でした。彼らや、スタイリスティックスのような、裏声が強調されている音楽は、ディスコミュージックの気持ちいい部分だったりもするし、ディスコサウンドという意味では、聴きやすいものの象徴になってくれて。ディスコミュージックというのは、ノリノリのものだけじゃなくて、こんなに美しいものもあるんだという事が、ビー・ジーズが流行ったことで、全部が底上げされた感じがしましたね。

――なるほど。音楽的な部分も、ディスコって?という部分も含めて、この映画が当時としては圧倒的な影響力があったと。

KOO そう。大きな切り口じゃないけれども、一般の人たちが、あの映画に付随するような音楽も、たくさん聴けるようになってきたと思います。

OSSHY 多分、ディスコをテーマにした映画自体が、『サタデー・ナイト・フィーバー』が初めてだったんじゃないでしょうか? だからなんとなく知識とか情報では、ディスコというものがアメリカでは流行っているらしいとか、日本でも一部では盛り上がっているらしいと、なんとなくわかっていても、映画を通して初めてディスコを目にしたという若者が、意外と多かったんじゃないですかね。たぶんビックリしたんだと思う。ディスコという遊び場で、若者たちが熱狂している、アメリカってすごいな、みたいな。ファッションしかりで、何をするにしても日本はアメリカの文化の影響を後追いで受けていたので、全てが衝撃だったと思います。

KOO ジョン・トラボルタのあのファッションも、遊び人のファッションじゃないけれども、ヒーローっていう感じではなく、ちょっと悪ぶった、手の届かない感じでもなく、身近にいる連中が、ディスコに行く時はこんな感じになっちゃうぜって、というノリでしたよね。

OSSHY 77年からこの映画が公開された78年にかけてを、ディスコ元年という人もいますし、『Let’s Disco ~The Best Of Disco Hits~』にも収録されている、ヒューズ・コーポレーションの「愛の航海」が全米1位を獲得して、世界で初めてディスコソングで1位になって、その数週間後にリリースされたジョージ・マックレーの「ロック・ユア・ベイビー」も1位になった1974年を、ディスコ元年という説もあります。厳密に辿っていくとなんとも言えませんが、でも僕の中ではわかりやすく考えると、『サタデー・ナイト・フィーバー』がきっかけで、ディスコが市民権を得た年が1978年ですと言いたいですね。そこをディスコ元年として設定するならば、今は第3次か4次ディスコブームになっています。

――KOOさんもOSSHYさん、忙しいですよね。

OSSHY ありがたいですよね。ようやく時代が私の行いについてきてる(笑)。だって、やっている事は30年以上変わっていませんから。今は老若男女がディスコを楽しむ時代になりました。

――親子3代で楽しむ方もいらっしゃいますもんね。

OSSHY そういうのは当時では考えられなかった。『サタデー・ナイト・フィーバー』が公開された時に20歳だった若者が、もう還暦ですからね。子供がいて、孫もいる人も多いと思います。そういう人たちが同じ音楽で、同時に楽しめる時代になっているというか。それが今の第3か4次ディスコブームだと思います。

――KOOさんは今のディスコブームをどう捉えていますか?

KOO 例えば『サタデー・ナイト・フィーバー』が元年だったとしたら、ここまでに至る全てのディスコの象徴とされるもの、例えばジュリアナ、ボディコンという社会現象になった部分も含めて、全部をディスコと言っていいくらいの感覚になっていると思う。そういう、積み重ねてきているものが分厚いから、ここからドカンって跳ねていく兆しはいくらでもあるんですよ。

――『Let’s Disco ~The Best Of Disco Hits~』の収録曲にもそれは感じます。

OSSHY 包括されています。クラブサウンドも含めて。

KOO 今が2000年くらいだったら、ディスコという言葉にもっと区切りがあったと思う。ダンスクラシックであるとか、いやここまでは違うでしょとか。でも今はそうじゃなくて、ディスコって、世代を超えて色々人が元気に楽しむものという認識になっているから、音楽もそれに付随して、色々なジャンルのものが入ってきちゃっても、その総称になると思う。今はリゾートや色々なところでイベントが開かれていて、そこで「ディスコやってください」というオーダーは多いです。だから俺も色々な現場で回していて、ディスコブームを今年ほど感じている年はないですね。

OSSHY KOOさんは最先端の事をやっている、メインストリームの人だから、常に時代の先端サウンドをチェックして、現場で回していらっしゃる。僕はディスコを変わらず30年以上やってるような感じですよ。

KOO 逆に俺、リアルタイムのものをパートで使うDJだから、そのDJが今ディスコサウンドを掘り返してるっていうのは、今のディスコブームの、すごく証明になるよね。


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