D姐の洋楽コラム:第3回 プリンス回顧録、最初の妻、マイテ・ガルシアの書籍について
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第3回 プリンス回顧録、最初の妻、マイテ・ガルシアの書籍について
今年4月中旬ロサンゼルスの地元局のモーニング・ワイドショーに、どこかで見たことがあるような、ないような、綺麗な女性が出演していた。ジェニファー・ロペスをちょっと若くして、あのギラギラを完全に差し引いて、ハリウッドのホールフーズでグリーンスムージーを買い、ビバリーヒルズのバーニーズの靴売り場でリアルによくいるようなナチュラルなセレブ感を醸し出している。テレビでインタビューされているのだから“有名人”には間違いなかったが、一瞬誰だかわからなかったというか、そもそもタレントなのかわからなかった。が、このマイテ・ガルシア(Mayte Garcia)さん、ちょうど一年前に急逝したプリンス殿下が最初に結婚した女性で、この日は一週間前に発売しベストセラーになっている自伝のPRがてら、プリンスの思い出話を語るために出演していたのだった。
Mayte Garciaさんの投稿 2016年8月25日
(*マイテ・ガルシアさん)
人気絶頂のプリンスが結婚したのは当時大ニュースだったことをよく覚えている。しかもそのお相手がプリンスの世界ツアーにバックダンサーとして同行している超年下のベリーダンサーだったことで、余計に大騒ぎだった。……ベリー・ダンサー!?遠い記憶を思い返せば、殿下が選んだ女性なんだからよっぽど素晴らしい女性に違いないと言う思いと同時に、無名のダンサーなんて、殿下は血迷ったに違いない的な、ちょっと歪んだ印象を持っていた気がする。けれど久しぶりに見たマイテさんは露出大の衣装に鋭利な逆V字の前髪と、どぎついメイクの印象が強烈な当時のとんがった印象はなく、清々しくて自然で42歳の素敵なオトナの女性になっていて、「プリンス死去に便乗して暴露本書いて荒稼ぎしたるでー」と言った下心がありそうな様子は微塵もない。インタビューではやっぱりプリンスは天才だったのかという質問に、「間違いないです。そんな天才と出会えて恋に落ちたことを心から感謝しています。それにハイヒールを履いて女性用のフレグランスをつけて、メイクアップをして、それでもセクシーな男性なんて世界で彼ひとり。会う前は『プリンス?ちょっと私のタイプじゃないかも..』って躊躇していた女性だって本人を目の前にしたら”あんなセクシーな人は見たことない!”って絶対に言ってました。本当に私の友人女性、全員そうだったわ(笑)」と笑顔で語るマイテさんに、結婚当時、彼女になんとなく穿った気持ちを持ってしまったことを反省させられた。そしてインタビュアーは「あなたは子供の頃にお母さんに、『私は大きくなったら、プリンスかルイス・ミゲル(人気ラテン歌手)と結婚する!』って言ったそうですけど、それは何歳のときだったんですか?」と尋ねる。マイテさんは恥ずかしそうに「9歳か10歳の時です。母は笑っていて相手にしなかったんですけど、何度も繰り返して言って、『いつか本当になると思うわ』って言ったんです」と語っていた。当然その先が気になって仕方ないので、マイテさんの自伝「The Most Beautiful: My Life with Prince」を買って読んでみることにした。
米アマゾンを見て驚いた。インタビューで確かに評判が良くてベストセラーになっているとは言っていたが、セレブのバイオグラフィー本部門の1位になっていたし、プリンスの死後発売された約10冊の関連本とは一線を画す高評価と数だった。他がせいぜい数十件のレビュー数なのに、「The Most Beautiful: My Life with Prince」は400を超えるレビューに加え、いわゆる「星★」が4.7というほぼ完璧な評価。その理由は読めばわかる。この書にはショッキングな暴露話もディスりもない。書かれているのは、時代のアイコンであり、あり得ないほどの才能に溢れ世界で愛され続けた唯一無二の存在〜プリンスに見出され愛された女性の半生が、プリンスへの愛と尊敬に溢れた語り口で綴られていて、それは破天荒なロックスターというよりまさにシンデレラと現代のプリンス・チャーミングとのおとぎ話のようなタイトル通りの「最も美しい」思い出だ。だけどプリンスとの運命的な出会いなど、事実は小説より奇なりと思わず唸ってしまうエピソードの数々は、くだらない扇情的な暴露話よりよっぽど興奮させられるし刺激的だった。プリンスのファンであればあるほど、殿下への愛を深めてしまうだろう。
マイテさんがプリンスと初めて出会った16歳の時、彼女はすでに「プロ」のベリーダンサーだったという。なんだかそれだけでも興味がそそられるが、両親はプエルトリコ出身で、米陸軍に入隊した父の転勤に伴い一家は数年ごとに米軍基地を移動する典型的なミリタリー一家だった。マイテさんは母親の付いて行って見学するうちにダンスに魅了され、5歳からの初心者クラスに年齢をごまかして3歳の時から通い始めた。8歳の時すでに抜群にダンスが上手くなっていて、素人パフォーマンスのゴングショー形式の人気番組「ザッツ・インクレディブル!」に出演したことから、一夜にして有名ちびっこダンサーとなりいわゆる「営業」依頼が殺到し、週末や放課後はイベントや結婚パーティなどの余興にベリーダンサーとして出演していたという。父親が他の父兄に売って小銭稼ぎにするために撮影していた発表会のグループパフォーマンスのビデオを誰かがたまたまテレビ局に送り、プロデューサーが「他の子は興味ないけど、頭に刀をさして踊っているアノ子はいい」として探し出され、番組出演のオファーが来たのだという。(ちなみにこの番組には幼いタイガー・ウッズが天才ちびっこゴルファーとして、そのカップインの腕前を披露したこともある)ハイスクールに入学した15歳の時には、幼いころからのギャラが溜まって既に貯金が10万ドル(約1,150万円)を超えていたというのだから、立派なものだ。
(*ダンサー時代の告知用動画集。冒頭に8歳で出演した「ザッツ・インクレディブル!」の映像があります)
そしてマイテさんについに運命の16歳の夏がやってくる。1990年の夏休み中にエジプト・カイロのシェラトンホテルでベリーダンサーとして専属契約をしていたのだが、直前にホテルに火災が起こり営業停止処分を受けてキャンセルになってしまった。暇になってしまったので、その代わりに姉のゴリ押しで行ったのがプリンスのコンサート。マイテさんは相変わらずプリンスが大好きだったが、前年に行ったマイケル・ジャクソンのコンサートは観客が熱狂しすぎてパフォーマンスを観たり聞いたりするどころではなかったので、プリンスのコンサートも同じ羽目になると思い全く乗り気ではなかった。その頃一家は父親の勤務先であるドイツに住んでいたので、両親が12時間ドライブしてスペインに行き、バルセロナでの「ヌード・ツアー」のライブに訪れる。「今ならリストバンドがもらえて最前ブロックに入れるって」と聞きつけた姉のおかげで一家は最前列を陣取りリハーサルを見ていると、そこで美人姉妹はスタッフから声をかけられる。これはライブ後のアフターパーティへ誘うファンを物色していたに他ならないが、父がすかさず阻止(笑)。マイテさんとプリンスの対面は幻に終わったが、新曲「Thieves In The Temple」をプレイしたことが運命を変えた。ペルシャミュージック調のテイストがあるこの曲を聞くと父は「マイテ、聞いたか?アラブ風だぞ。これはお前の音楽だ」と言い、母は「あなたはこの曲で踊るべき。プリンスにあなたのダンスを見てもらわなきゃ。ミュージック・ビデオか何かで絶対にお呼びがかかるわよ」とライブ中に言い出した。そこで半ば強制的に勝手オーディションテープを作らされたマイテさんは、数週間後に今度はドイツ国内のライブ会場にビデオを渡すために訪れる。
他のファンと一緒にツアーバスを待ち受けていると、バルセロナのコンサートでアフターパーティ・ナンパ目的で声をかけてきたスタッフが自分たちのことを気がつき、運良く会場に入れてくれた。そこでダンサーの一人に「娘は素晴らしいベリーダンサーなんです。このビデオを見てもらいたいんです」と母親が強引にビデオを渡した。しばらくすると今度はセキュリティがやってきて「お母さん、娘さんにちょっとこっちにきてもらいたいんですが、いいですか?」と楽屋に通された….こんなことある!?「君のビデオ、良かったよ」とプリンス。「もうちょっと話をしたいけど、これからショーが始まるから。電話番号を教えてくれる?」キターーーーーー!!!二人の面会はこの時ほんの40秒。実は入り待ちをしていたマイテさんをツアーバスの中から見ていたプリンスは「彼女は将来、僕の妻になる」と宣言していたとか。この時、セキュリティにしろ殿下本人にしろ、何度もマイテさんに年齢を確認しているのも面白い。18歳未満の未成年に手を出しちゃいけないっていうのがありあり。この後マイテさんは正式に雇われて「ニュー・パワー・ジェネレーション」の一員となるわけど、交際を始めたのは19歳の時だった。初面会の当日の夜だって、プリンスは早速滞在先のフランクフルトにマイテさんと母姉をリムジンで自宅から呼び寄せ、次のツアー先であるスウェーデンから電話したプリンスは「お母さんと一緒に来る?」と言って、ファーストクラスの航空券を手配した。そして「ミネアポリスに来ない?Vogueの撮影があるから」「フォトグラファーは誰?」「ハーブ・リッツだよ」と、シンデレラストーリーが始まる。さすがプリンス、愛する女性をプリンセス扱いすることに長けている。しかし、あの時マイテさんがエジプトに行ってしまってプリンスのコンサートに家族で行ってなかったら?プリンスが「Thieves In The Temple」を書いていなかったら?全くもって運命を感じてしまう。
(*マイテさん18歳のころの写真)
プリンスはマイテさんと交際する前、何度もしつこく「アラビア」に改名することを勧めたという。Mayteはスペイン語でマリアとテレサを足した名前で「愛される」という意味だが、アメリカ人には馴染みのない読みにくい名前だからかもしれないが、そういえばプリンスが1990年頃に交際していた女性ダンサーのタラ・パトリックが、彼のプロデュースで歌手デビューした時につけられた芸名も彼の命名だった。これがのちのカルメン・エレクトラ。殿下御自身もコロコロ改名したりカミールという別人格になったりと、実は改名フェチなのかもしれない。
2016年4月21日に逝去したプリンスは、生きていれば2017年6月7日で58歳の誕生日を迎えるところだった。マイテさんはプリンスの15歳年下であり、1990年に二人が16歳で初めて出会った時から6年後の1996年のバレンタインデーの日、プリンス37歳、マイテさんが22歳のとき二人は結婚した。結婚後、すぐに妊娠していることが発覚したが、生まれつき難病にかかっていて、生後一週間で死亡してしまったという過酷すぎる悲劇が起こる。プリンスは自宅に立派な子供部屋を用意していたが、しかし妻の妊娠も息子の死亡もマスコミには公表せず、息子の死後数日しか経っていない時に人気女性司会者オプラ・ウィンフリーのトーク番組に出演、自宅のプレイズリーパークにオプラを招待して、自慢の子供部屋を公開した。そもそも彼の隣に座る妻マイテさんが妊娠中には見えず、ならば子供が最近生まれたのかといえばそれも明言されておらず、子供部屋自体が意味不明だった。「お子さんはどうなさってるの?」と思わずオプラが質問したが、「私たちファミリーは存在してます。今、始まったばかりですから」というプリンスが答えた。この言動はのちに彼のエキセントリックさ物語るエピソードとなるが、1998年にリリースされた『Crystal Ball』に収録されている「Come Back」は亡くなったアミーアくん(二人が密かに命名していた。アラビア語でプリンスの意味)のことを歌っていて、マイテさんはこの曲を今聞いても辛いのだそうだ。
(*このYouTubeを再生すると、1996年のオプラ・ウィンフリーのトーク番組の様子が見られます)
二人の結婚は最終的に破局という形を迎えてしまい、2000年に正式に離婚が成立する。余談だが、プリンスの二人目の妻であるマヌエラさんに会ったことがある。マヌエラさんはプリンスとの離婚後、R&Bシンガーのエリック・ベネイと再婚して、エリックの自宅で取材インタビューをした時にお会いした。この時「うわー、プリンスの元奥さんだ」と内心めちゃくちゃ興奮した。マイテさんとマヌエラさんはお互い連絡をとりあう仲で、プリンスが急病で乗っていた飛行機が緊急着陸をしたと伝えられた時にマイテさんはマヌエラさんに電話をかけ、「脱水症だと言われたわ」と答えたという。「だけど私たち二人は、彼がクレイジーなくらいによく水を飲む人だということは知っていた。脱水症という言い訳は信用できなかった。私は不安とフラストレーションでいっぱいになった」それから6日後、プリンスは帰らぬ人となる。二人の結婚は永遠とはならなかったが、美しい思い出は永遠のものとなったのだった。
■著者プロフィール
米国ハリウッド在住。セレブやエンターテイメント業界のニュースを独自の切り口で紹介する、アクセス総数5億ページ超の大人気サイト「ABC振興会」を運営。多数のメディアで音楽やセレブに関する執筆、現地ロサンゼルスでのテレビやラジオ、雑誌用のセレブやアーティストのインタビューやレッドカーペット等の取材をこなす。
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