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エイミー・ワインハウスとその時代:USで発売されなかった1st、名作『Back To Black』発売前の状況
エイミー・ワインハウス(Amy Winehouse)の伝記映画『Back to Black エイミーのすべて』が日本でも2024年11月22日に公開されることになった。これを記念して、映画の字幕監修を担当したライター/翻訳家の池城美菜子さんによる3回にわたる短期連載を掲載。
第1回は当時のアメリカでのエイミーの受け取られ方、そしてリスニングパーティーやショーケースライブについて。
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北米で無名だったエイミー
『Back to Black エイミーのすべて』の公開まで続く、3回シリーズの連載である。彼女の一生を総括するコラムはすでに書いているため、切り口を変えてエイミー・ワインハウスを解析してみたい。第1回目は、世界的にブレイクしたセカンド・アルバム『Back to Black』がリリースされた2006年当時の、筆者が住んでいたアメリカでの反応を中心に書く。
このアルバムがリリースされるまで、エイミーは北米でほぼ無名だった。理由はシンプル。デビュー作『Frank』(2003年)がアメリカで正式にリリースされなかったため。彼女が契約していた19マネージメントと、アイランド/ユニバーサル・レコードの判断である。まだCD中心の時代。国内盤の有無はプロモーションの有無につながり、リリースされないとラジオ・プレイが期待できなかったり、CD専門店以外のCDコーナーだけがある量販店に置かれなかったりと何かと不利だった。当時はまだギターを手にしたまま、ジャズのカラーが濃いレトロなソウルを歌っていたエイミーが、アメリカで受け入れられないのでは、と思ったそうだ。
10代の頃から、有名になる自分を夢見ていたエイミーは、アメリカでデビューできなかったことを不服に思っていたそう。学業が嫌いで、校則も守らなかった彼女は芸術系の高校からふつうの高校に転校させられ、反省してまた別の芸術系の高校に入り直しつつ、音楽活動も続けていた。ただし、アメリカのデビューを遅らせる判断は仕方ない面もあった。20年前は現在よりずっと影響力があった音楽メディア、Pitchforkが輸入盤の枠で『Frank』に10点満点中4.3点とかなり辛い点を付けている。
ソウルとジャズがしっくり来る歌声に、ヒップホップのビートと生楽器の音色を融合させたトラックに乗せたエイミーの音楽性は、当時のアメリカで流行していた音楽とはかけ離れていた。採点をした音楽ジャーナリストは、彼女の革新性に気づかなかったのだ。つけ加えると、ジャンルを問わずUKでチャートを賑わせた人気アーティストはそのままアメリカでも売れるわけでもない。
他国をあまり気にしていなかったアメリカのリスナー
ザ・ビートルズやローリング・ストーンズ、U2といった音楽史全体を書き換えたような大物は別として、アメリカの平均的な音楽好きは、イギリスの動向をあまり気にしていない。日本の洋楽リスナーは英米どちらも等しくアンテナを立てて気を配っているため、日本から送られてくる音楽誌をチェックしてイギリスの流行がわかることもよくあった。ただし、「ブリティッシュ・インベイジョン」と呼ばれる、イギリスのアーティストがアメリカで一気に流行る現象も定期的に起きる。
エイミー・ワインハウスが出てきた00年代初頭は、その現象の端境期だった。90年代後半の「クール・ブリタニア」の中で、商業的にもっとも成功を収めたスパイス・ガールズの人気が落ち着いたあとだ。おまけに、彼女たちのファンは子どもからティーンネイジャーと偏っていた。じつは、エイミー・ワインハウスがデビュー前にマネージメント契約していたのは、サイモン・フラー率いる19マネージメントだ。これは、エイミーが最初に契約したマネージメント会社、ブリリアントが買収されたため。
フラーは、スパイス・ガールズのマネージャーとして名を挙げたあと、タレント発掘番組『ポップ・アイドル』と米国版の『アメリカン・アイドル』を仕かけた大物プロデューサーだ。より大きな事務所と契約したことで、デビューする前から週給250ポンド(約5万円)を受け取れるようにはなったが、00年代のポップ・シーンを仕切っていた彼とエイミーは音楽的に相性がいいわけがない。
彼女はデビュー作の『Frank』は嫌いとまで公言していた。「このアルバムを聞くとクソ苦々しい気分になる。最初から最後まで聴いたことはないし、家にも置いていないの。だってマーケティングは滅茶苦茶、プロモーションもひどかったし、すべてが最悪」とまで、リリースされた3ヶ月後のインタビューで発言しているのだ。
父親のミッチ・ワインハウスが記した『Amy, My Daughter』によると、彼女は曲そのものよりミックスが気に入っていなかった。そのうえ、主にこの作品で歌われている元カレ、クリス・テイラーが完全に過去の人になっていたため、興味を失っていたそう。それくらい、エイミー・ワインハウスの人生は曲と一体化していたのだ。
それでも本国イギリスでは『Frank』はヒットし、マルボロの赤箱で潰したエイミーの歌声は多くの人を惹きつけた。20歳という若さでレコーディングしたにもかかわらず、サラ・ヴォーンやビリー・ホリディ、ときにエリカ・バドゥを引用したのだ。アルバムのメイン・プロデューサーは、ザ・フージーズやナズのヒット曲を手がけたサラーム・レミ。エイミーはローリン・ヒルとナズの大ファンだったため、2002年にマイアミ・ビーチのラレイ・ホテル(Raleigh Hotel)で宿泊しながらサラームと6週間をかけてレコーディングした体験自体は、とても楽しんでいたという。
『Back To Black』発売まで
『Back To Black』はイギリスで2006年10月に、アメリカでは2007年の3月にリリースされた。『Frank』がリリースされた2003年からの3年間で、シンガーとしても私生活の面でもエイミーは大きな変化を体験していた。まず、前作の仕上がりとプロモーションに納得していなかった彼女は、マネージャーのニック・シャイマンスターを引き抜いた上で、19マネージメントから離れる画策をした。だが、ニックは留まることを選ぶ。
代わりに、以前からの知り合いで音楽の趣味が近かったレイ・コズバートがマネージャーを引き受けた。彼は所属レーベルのアイランド/ユニバーサルともかけ合い、ニューヨークでセレブDJからプロデューサーに転身していたマーク・ロンソンに目をつけ、2004年にレコーディングをセットアップした。名作『Back To Black』が生まれるにあたって、決定的な出会いだ。
ところが、エイミーはロンソンをよく知らなかったうえ、「ユダヤ系の年配男性」と勘違いしていた。そのため、ソーホーのスタジオで初めて会ったとき、エンジニアとまちがえた。彼女は、彼にザ・ロネッツやザ・シフォンズといった60年代にニューヨークで結成されたガール・グループのレコードを聴かせ、自分のヴィジョンを伝えた。DJらしく、意図をすぐさま理解したロンソンは、ブルックリンのアナログ・レーベル、ダップトーン・レコーズのスタジオにエイミーを連れて行き、ソウル・バンドのダップ・キングスとレコーディングを行ったのだ。
このとき、それ以前に訪れたスペインでの休暇で書いていた「Love Is The Losing Game」や「You Know I’m No Good」などをロンソンと形にしていく。この出来に満足したエイミーは、マイアミ在住のサラーム・レミに電話をして報告しつつ、「あなたももっとがんばって」とハッパをかけたそうだ。
一方、私生活の変化は、ポジティヴなことばかりではなかった。彼女の飲酒癖をイギリスのタブロイドが書き立て、裏表がない彼女の振る舞いをからかった。2005年に出会ったブレイク・フィルダー-シヴィルとの恋愛も、格好の標的となってしまう。ふたりはくっついたり別れたり、ほかの人ともつき合ったりをくり返していた。ビーハイヴ・ヘアやキャットアイのアイラインなど、スタイルのお手本としていた祖母のシンシアを亡くしたのも、この時期だ。
アメリカでのリリース・イベント
独特なファッションと、ヒップホップとジャズ、スカやレゲエに目配せしたソウル・ミュージックを奏で、ロンドンのカムデン仕込みのファッションをまとったエイミー・ワインハウスは、アメリカではあまりにも異質であった。2007年は、アメリカではティンバランドと組んだジャスティン・ティンバーレイクやビヨンセ、ブラック・アイド・ピーズのファーギーがヒットを放っていた年だ。
それでも、ジェイ・Zが率いていたデフ・ジャムは「Rehab」の本国でのヒットを目にし、力を入れた。アルバム・リリースに際して、ニューヨークのオフィスで行われたリスニング・セッションに筆者も出席した。記者会見のようなイベントで、ジェイ・Zが取り仕切っていたが、そのとき配られたスニペット(曲の一部を入れたサンプラー)の「Rehab」には、ウータン・クランのゴーストフェイス・キラーのヴァースが入ったヴァージョンと、ジェイ・Z本人のヴァースが入ったヴァージョンが収められていたのだ。だが、どちらも噛み合っていなかった。エイミーのソウルフルな歌声に驚きつつ、ラップ・パートは余計だと強く思った記憶がある。リアーナやNe-Yoの才能を見抜いたような耳を持っていたジェイ・Zでさえ、エイミーをどう売り出すのか迷ったのだと察する。
エイミー自身は、アメリカで本格的に売り出されることをとても喜んでおり、多くの先輩たちがステージに立ったジョーズ・パブでのショーケースも、プロモーションの意味合いで組まれた地方でのライヴもこなした。もともと、世界に出るべくして出たシンガーなのだ。彼女の才能を引き出したのが、2人のアメリカ人のプロデューサーであったのも示唆的だろう。音楽への造詣が深かったエイミーは、音楽面のソウルメイトを引きつける運は持っていた。
筆者が彼女を最初で最後に見たのは、2007年の5月8日、ハイライン・ボールルームでのライヴである。700人しか収容できないため、すぐにソールドアウトになり、チケットが10数倍もの価格で転売されてニュースになった。バックバンドは、ダップ・キングスの面々。エイミー・ワインハウスは終始、グラスに入った茶色い液体を飲んでいたにもかかわらず、歌声の迫力は凄まじかった。終演後、会場中に熱狂と呆気に取られた雰囲気が漂い、すこし異様でもあった。このライヴの5日後、マイアミで彼女はブレイクと電撃結婚をした。
Written By 池城 美菜子
『Back To Black: Songs from the Original Motion Picture』
2024年4月12日配信
日本盤CD:11月15日発売
CD / LP /Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music
エイミー・ワインハウス『Back To Black』
2006年10月27日発売
CD /Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music
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