【最新インタビュー】辻井伸行、ベートーヴェンでのドイツ・グラモフォンデビューを語る

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© Harald Hoffmann_ Deutsche Grammophon

ピアニストの辻井伸行が、さらに大きな航海に乗り出すことになった。

2024年春にドイツ・グラモフォンと専属契約を結び、7月にベルリンでレコーディング。そうしてまとめられたベートーヴェン・アルバムがまもなく、晴れてインターナショナル・リリースされる運びとなった。

しかも、メインに据えて取り組んだのが、ピアノ音楽史上最大の難曲とされる変ロ長調ソナタ 作品106《ハンマークラヴィーア》。この大曲をドイツの名門での最初の録音作に掲げたことは、辻井伸行の壮大なる意欲の表れだろう。ベートーヴェンの歌曲《遥かなる恋人に寄す》作品98のリスト編曲による独奏版が優美に組み合わせられ、鮮やかなコントラストを示しつつ、彼らしい歌心を率直に明かしているのも心にくい。

輝かしいベートーヴェンでの新たな出発に臨み、この10月、辻井伸行にいまの心境をきいた。


――これまでも国際的な演奏活動を展開されてきましたが、ドイツ・グラモフォンでのレコーディングを通じて、いっそう広く世界に愛されることになるのはとても楽しみですね。

ドイツ・グラモフォンと契約できたというのがまず、自分にとって非常に光栄なことです。小さい頃からグラモフォンのCDで、素晴らしいアーティストの方々を聴いて育ってきたので、おなじレーベルと契約ができたことはほんとうにうれしいです。また、さらに世界に認められるようなチャンスになるんじゃないかなと思っています。

――しかもそのデビュー作に、ベートーヴェンの《ハンマークラヴィーア》を選ばれました。ヴァン・クライバーン国際コンクールでも弾かれましたし、辻井さんにとっては“勝負曲”とも言えるのでしょうが、それにしてもピアノの独奏レパートリーのなかでおそらくもっとも難しい曲を、この機に改めて世界に問いかけることに決められたのには驚きました。

ドイツ・グラモフォンの方たちといろいろ相談した結果、やはりベートーヴェンの《ハンマークラヴィーア》をメインに録音したらいいんじゃないかということになりました。デビュー・アルバムが本場ドイツの作曲家ベートーヴェンということで、自分自身すごくプレッシャーもありました。

それも《ハンマークラヴィーア》は、ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタのなかでもいちばんと言っていいくらい難しい曲ですから。

©Harald Hoffmann / Deutsche Grammophon

僕がヴァン・クライバーン・コンクールに優勝してから15 年ぐらい経ちました。そのとき、この曲に初めて挑戦したのですけれど、すごく難しい曲だなとまず感じましたし、コンクールで初めて弾くのはほんとうに怖かった。でも、たぶん、なにか自分がこの曲で変わるかなと思って挑戦しました。弾こうかどうか迷ったのですが、それでコンクールのファイナルにも進めたので、この曲を弾いて良かったなって思いました(笑)。だから、すごく思い出がある大事な曲です。いまこうして 30 代も後半になってきて、やはり20 歳のときの演奏とは、自分自身も変わってきていると思います。

耳が聞こえなくなったベートーヴェンが、晩年にもほんとうに素晴らしい作品をたくさん書いているところもすごく尊敬していますし、少し自分自身と重なり合う部分があるので、僕にとってほんとうに大事な作曲家のひとりなのです。そのベートーヴェンの《ハンマークラヴィーア》とまた新たに向き合うことができて、すごく良かったと思っています。

――やはりベートーヴェンの作品には、痛みとか苦しみとか闘いとか葛藤とか、いろいろなものを感じますか?

それはすごく感じます。この《ハンマークラヴィーア》は特になにか、苦しみや痛み、葛藤というものを感じる作品です、50 分近い曲ですが、ほんとうに長い長い旅をしているような。精神的にも技術的にもほんとうに難しいことがたくさん要求されているし、集中力と体力が必要な曲なので、この曲を向き合っているときは自分自身ほんとうに闘っているような感じです。曲の最後には勝利した感じになりますが、長い長い闘いだなと思いながらいつも演奏しています。奥が深い曲ですし、弾いても弾いてもずっと難しいし、それをどう表現していこうかと、弾けば弾くほど悩む作品です。

――ですが、辻井さんの演奏を聴くと、闘いの厳しさだけではなく、ピアノを弾く喜び、伝える喜びという、とてもポジティヴなエネルギーをもっていることにも励まされます。

苦しい気持ちももちろんありますが、エネルギッシュなところがたくさんあるし、ベートーヴェンがすごくしあわせなんだなということが曲に表れている部分もあるので、そういうところは僕も弾いていてもしあわせです。ベートーヴェン自身がほんとうはどういう気持ちでこの曲を書いたのかな、ということをすごく考えながら弾いています。これだけの素晴らしい曲を耳が聞こえないなかで創ったということに、尊敬の気持ちを込めて。

――ヴァン・クライバーン国際コンクールのライヴ・レコーディングと、今回のスタジオ・レコーディングを聴き比べてみました。若いときの辻井さんの演奏には一種初々しいと言いますか、瑞々しい良さもあって、抒情的な美しさはいまも変わらないのですが、新たな録音では、深みというか、悲しみが祈りに繋がるところもある。どこか晴れやかさや清らかさも広がりますね。

初挑戦したときは僕もまだ 20 歳だったので、これはほんとうにどういう曲なのか、そこまで理解するのは難しかったです。ベートーヴェンの他のソナタを理解するのとは違って、ほんとうに深く掘り下げないといけないぐらい難しくて。そこまで表現はできなかった部分もいま振り返ればあると思うんですが、でも 20 歳なりにすごく勢いはあって、瑞々しい感じの演奏だった。これだけの曲を20歳でよく弾いたな、と自分でも思います。

あれから 15 年ぐらい経って、改めて挑戦することになりましたが、コンクールで 1 回きりのライヴ演奏ではなく、録音となるとまた全然違うので、どういうふうにこの曲をお聴かせしたらいいのか、いろいろと悩みました。ベートーヴェンが書いた楽譜に忠実に弾くということはまず大切ですが、そのなかで自分の個性というものも出さなきゃいけないですし、特にこの曲はいろいろな方が録音されているなかで、自分がどういうふうにしてこの長い旅、曲全体を闘って、最後の勝利へともっていけばいいのか、非常に悩みました。

僕もやはり 30 代になって、少しずつ苦しみとか奥深さを感じられるようになったというか、いろいろなところでも演奏したり、いろいろな方と共演したりして、少しずつ人生経験を重ねてきたことで、なにか表現や弾きかたが変わってきたんじゃないかと思います。

――録音や編集の際にご自身の演奏を聴いてみて、コンクール以来の15年間で、ご自分の個性として深くなったと思うのはどんなところでしたか?

どんなところと言うのはなかなか難しいですが、とにかく表現にはいろいろと苦労しました。特にゆっくりした第3楽章をどういうふうに弾くか。また、当時といまの時代とではピアノという楽器も違っているので、ペダルの使いかたも音を濁らせないようにどうすべきか、でもできるだけベートーヴエンの楽譜に忠実に弾きたい、というところでも悩みました。

録音で何回かいろいろ弾いてみて、自分自身が気に入ったものを選択しました。 15 年前はただただ弾くのにもう夢中で、まだそこまでわからなかった部分もありましたが、いまでは曲の細部まで理解して、考えるようになってきましたね。

――2020 年のベートーヴェン生誕200年のときにもリサイタルで弾かれていましたけれど、この大曲で改めて世界に出ていくというのは楽しみですね

ベートーヴェン・イヤーにも挑戦しましたが、そのときはまさか4年後にまた弾くとは思わなかったです(笑)。でも、改めてこの曲に向き合って、ほんとうに良かった。ベートーヴェンというのは自分にとってほんとうに大事な作曲家だし、将来的にはピアノ・ソナタ全曲演奏会をして、いつかソナタ全曲録音ができたらいいなという夢もあるので。その意味では《ハンマークラヴィーア》がデビュー曲というのも節目になって、これからベートーヴェンに向き合うときに、経験を踏まえて新たな挑戦ができるんじゃないかなと思います。

――ベートーヴェンのソナタは今までにもいくつか録音なさっていますが、改めて全曲に《ハンマークラヴィーア》という最高峰の難関から登るのはそうとうなことだと思います。

いずれは32曲全部弾きたいと思うなかで、グラモフォンとの最初にいちばん難しい曲から始めるというのはなかなか無謀なことではありますけれど(笑)、ぜひと言われて。

もちろんプレッシャーありましたけど、この曲に決まったときには、いま自分にできる最高の演奏をして、歴史に残るようなCDにしたい、という思いで挑戦することにしました。自分も挑戦するのが好きなタイプなので、ほんとうに前向きな気持ちで練習に臨みました。

――もうひとつ、リストの編曲した連作歌曲集《遥かなる恋人に》との組み合わせも素敵ですね。ベートーヴェンが作曲した年代も近いですし。歌の優しさとか、それだけでなく辻井さんのもつていらっしゃる清らかさや明るさもストレートに出ていますし。

《遥かなる恋人に》には初めて出会ったのですが、ほんとうに素晴らしい曲で、ちょうどいいカンプリングになったと思います。僕も大好きな曲で、これからも弾いていきたい。

リストの編曲はこれまでもいくつか弾いてきましたが、歌曲の編曲は初めてでした。ピアノというのは音がすぐ減衰してしまいますので、歌の曲をピアノで歌うのはほんとうに難しいのですけれど、少しでも歌ってるような感じをイメージして弾きました。

――歌曲の詩の内容も、鳥とか花とか丘とかいろんな自然のことと、それから遠くにいる恋人を想う気持ちがうまく重ねられていますが、さまざまな情景を思い浮かべながら弾かれたのですね?

僕も自然が大好きなので、弾いていて、自分にも合っている曲なのかなと思いました。詩の意味もひとつひとつあたりながら、いろいろな情景をイメージして弾きました。6曲が途切れなく繋がっているなかで、それぞれのキャラクターを弾き分けるように努めて。

――この歌曲で始まって、《ハンマークラヴィーア》のアレグロに行く流れもいいですね。

じつは曲順も、どちらを先にするのかすごく迷ったのですけど、《ハンマークラヴィーア》の長い旅が始まる前に、少し落ち着いた気持ちで歌曲を聴いていただいてからのほうが、しっくりくるなと思ったのでこういう順番にしました。

――辻井さんのピアノにはいつも人前で弾く喜びを大きく感じますけれど、今回のグラモフォンでのスタジオ・レコーディングはいかがでしたか。

ベルリンのテルデックス・スタジオはいつも録音しているお馴染みのところでしたが、ただ、曲が《ハンマークラヴィーア》だけに録音はたいへんでした。どういうふうに弾こうか、ほんとうに悩みましたし、その後の編集にもこだわりました。より良いものにしたいし、自分自身納得のいくものにしたいという思いがすごく強かったんです。

――15年前の演奏はコンクールのライヴ音源ですから、なおさらですよね。

やっぱり録音となると、いろいろこだわることができてしまいますので(笑)。もちろん、勢いも大事ですし、ちゃんと表現すべきところを表現するというのも両方大事だなと思いますので、そこはできるだけていねいにやりました。いつも以上に苦労はしましたが、いま思い返せば、自分自身納得のいくものにできたし、良いものができて良かったなと思っています。

――ヴァン・クライバーン・コンクールの後で、クライバーンさんから「クラシックを知らない方にもコンサートを運んでもらえるようなピアニストになりなさい」と言われたことが、ずっと心に残ってる、と以前おっしゃっていましたね。実際にそのようになられましたし、これからはグラモフォン、名高いイエロー・レーベルですから、クラシックが好きで好きでたまらない人もたくさん聴くことになるでしょう。それもまた大きな楽しみですね。

はい。クラシックに馴染みのない方にもぜひ生の演奏を聞いていただきたいという思いは、クライバーンさんもおっしゃってくださったので、いまも変わりなくありますが、こうしてドイツ・グラモフォンと契約させていただいたことによって、クラシックが大好きな方にも僕の演奏をぜひ好きになっていただけたらと思います。

Interviewed & Written by 青澤隆明


■リリース情報
辻井伸行
『べートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第29番《ハンマークラヴィーア》、遥かなる恋人に』 

2024年11月29日 発売 
CD/ Apple Music / Spotify / Amazon Music / iTunes


■公演情報

2024年12月
辻井伸行 プレミアム・リサイタル2024
東京・大阪・愛知・埼玉・浜松・長野・新潟にて全8公演開催。
詳細はこちら

2025年1月
ロウヴァリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 日本ツアー
東京・大阪・愛知・福岡・神奈川にて全7公演開催。
詳細はこちら

2025年2月~6月 大和証券グループ presents 辻井伸行 日本ツアー2025 
東京・大阪・神奈川・静岡・栃木・福井・宮城・山形・広島・福岡・熊本・鹿児島・高知・札幌にて全17公演開催。
詳細はこちら


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