ビジネスマンの新常識。第一線で活躍する、あの人とクラシック【第3回:(株)グリーンハウス 代表取締役社長 田沼千秋】
ビジネスの最先端で活躍する企業のトップにしてクラシックをこよなく愛する方々から、クラシックの魅力やビジネスとクラシックの関係をお聞きするシリーズ。
日本クラシックソムリエ協会代表理事 田中 泰さんによる寄稿、その連載第3回。
第3回目となる今回は、2021年11月30日にオープンした「ホテルグランバッハ東京銀座」を経営する「株式会社グリーンハウス」代表取締役社長の田沼千秋氏にお話を伺った。
“音楽の父”と讃えられるヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)の名を冠したホテルの誕生はクラシック界でも大きな話題となり、今や音楽家たちはもとより音楽愛好家たちの熱き視線を集める存在だ。数ある音楽家の中からなぜバッハを選んだのだろう。そのこだわりの理由はどこにあるのだろう。取材当日、擦り切れるほど聴いたという思い出のLPアルバムをどっさり抱えてやってきた田沼社長の笑顔こそがその答えなのだろう。「好きこそものの上手なれ」という言葉は彼のためにあるように思えてくる。
クラシックを好きになったきっかけは
慶應義塾高等学校2年生の時でした。校内にピアノがある部屋があって、ある日そこから素敵な音色が聞こえてきたのです。なんだろうと思って覗いてみたら、クラスメイトがピアノを弾いていたのです。それが現在音楽プロデューサーとして活躍している松任谷正隆だったのです。その部屋は視聴覚室になっていて、別の日には何人か集まって音楽を鑑賞しているのです。
そこで僕も体験してみようと思って初めて耳にしたのが、ミュンヘン・バッハ管弦楽団の首席指揮者 兼 オルガ二スト カール・リヒター(1926-1981)が演奏するバッハだったのです。『トッカータとフーガ ニ短調』『幻想曲とフーガ ト短調』『前奏曲とフーガ ホ短調』『パッサカリア ハ短調』など有名なオルガン曲ばかりが入ったこのアルバムにすっかり魅了されてしまい、何回聴いたかわからないほど繰り返し聴きました。そこからずぶずぶとクラシックにのめり込んでしまったのですから、同級生の松任谷正隆に感謝ですね。
それ以前にクラシックに触れる機会は
ヴァイオリン曲の『ツィゴイネルワイゼン』あたりをなんとなく聴いてはいました。それがリヒターの演奏との出会いでガラッと変わってしまったのです。とにかく『トッカータとフーガ ニ短調』へののめり込み方は半端ではなく、自分の結婚式にオルガンを持ち込んでフーガの部分を演奏したのです。オルガンを正式に習ったことはないのでもちろん全部は弾けません。作品の一部だけでしたけれど、音を頭に刻み込んで鍵盤に向かった感じです。
オルガンを弾くようになった理由は
オルガンはペダルも含めて何種類かの音が組み合わさって音と共に振動が伝わってきます。あの重厚な低音が大好きなのです。1980年にヤマハがF70というコンサート用のパイプオルガンを作ったのですが、これを個人で買ったのは私一人ではないかと思います。何しろ大きいし、とんでもない値段でしたからね。まだパイプオルガンが多くのホールに設置されていない時代だったので、オーケストラなどがコンサートで使うために買うケースが多かったようです。
当時BBC交響楽団が来日した際に、サンサーンスの交響曲第3番『オルガン付き』を演奏するのにもこのオルガンを使ったということです。それほどの楽器なので自宅で思い切り鳴らすと窓ガラスが割れます(笑)。それが今でも家にあるのですが、最近は忙しくて全然弾いていません。買った当時は、バッハの『幻想曲とフーガ ト短調』の大フーガを弾きたくて、冒頭部分やフィナーレなどを頑張って弾いていました。楽器は幼稚園のときにピアノを少し習っていた程度なので完全に独学です。オルガンについては、弾くというよりも好きなだけで買っちゃったという感じですね。
バッハを仕事に繋げようと思った理由は
寝ても風呂に入ってもマッサージを受けても疲れが取れないときに、一番癒やしてくれるのが音楽だと思うのです。周波数を調べた人の話によると、人は432ヘルツに癒やされるのだそうです。アイルランドの「エンヤ」の音楽などがまさにそれですね。逆に440ヘルツの音を流すとミツバチなどはぱっと逃げてしまうのだとか。それを特別意識したわけではないのですが、いい音楽によって人は癒やされると確信しています。
我々が行っているホスピタリティビジネスは、上質な食事やサービスを提供することがあたり前です。そこにもう一歩踏み込んで“癒やし”ということを考えたかったのです。良い環境の背景に音楽があることが良いことだと思います。うるさいのは困りますが、聴きたい音楽を選べるというのは素敵なことですね。そのためにホテルの客室でバッハの音楽を自由に選べるようにしたのです。
グランバッハのネーミングについてはいかがでしょう
さすがに「J.S.バッハ」とするのはおこがましかったので「グランバッハ」に行き着いたわけですが、その背景には、やはりバッハ一族を象徴する存在である「大バッハ」の偉大さに敬意を評したところがありますね。鈴木雅明さん率いる「バッハ・コレギウム・ジャパン」とのコラボレーションが実現したことはまさにバッハのご縁だと思います。ホテルのオープニングイベントで鈴木雅明さんがチェンバロを弾いてくださったのは嬉しい限りです。
先日ヴァイオリニストで友人のヴァスコ・ヴァッシレフさんも、お泊りになった際にホワイエで演奏を披露してくれました。バッハの『シャコンヌ』のなんと素晴らしかったことでしょう。ホテルの雰囲気を気に入っていただけて、「次回はコンサートをやろう」とも言っていただけたのです。バー「マグダレーナ」でオリジナルの「バッハ・カクテル」も楽しんでくれたようです。これもバッハが繋ぐ縁ですね。ホテル内でのサロン・コンサートは定期的に開催したいと思います。クラシックだけではなく、ジャズやブルースなども良いですね。バッハだけにこだわる必要はないと思っています。
クラシックをビジネスに取り入れた感想は
私の場合は、ホテルにたまたまバッハの名前をつけたわけで、音楽そのものをビジネスにしたわけではありません。その意味では、ホールを作ることやコンサートを主催するというのは本当に大変だと思います。クラシックファンの数は人口の0.5%くらいだといわれていますので、その人達だけを対象としたビジネスは正直難しいと思います。ホテルにバッハの名前をつけておいて矛盾するように聞こえるかもしれませんが、私達の場合は、あくまでそこを切り口にしていただくという考え方です。逆にそこに特化した人しか対象にしないといった考え方はまったくありません。
「グランバッハ」という名称も、ゆったり落ち着いてホッとしていただくことを意識したものです。将来的には、いわゆるオーベルジュ(郷土料理を提供するレストラン付きのホテル)のような上質なホテルを作りたいと思っています。良い環境でほのかに音が聞こえてくる。それがバロック音楽だったといった感じが素敵ですね。世の中には経営者たちの思いが込められたホテルがたくさんあります。私の場合はそれがたまたまバッハだったということです。
銀座はまだオープンしたばかりですが、お客様に「いいホテルだね」といってもらえることを目指したい。そのためにはもう少し時間がかかると思います。人間は未完成だからいいという部分もあります。ちょっとずつ良くなって、気がついたら本当に特徴のあるいいホテルになっていたというのが理想です。バッハじゃなくてモーツァルトやベートーヴェンでもいんじゃないかという声もありますが、バッハにおいては“癒やし”という意味が特に大きいのだと思います。
お気に入りのLPレコードを手にバッハを語る田沼氏の柔らかな笑顔がとても印象的だ。「ホテルグランバッハ東京銀座」で過ごす時間は、居心地の良い彼のご自宅を訪れる感覚にも似ているのではないかと思えてくる。一般の方々はもちろん、音楽家たちが集うバッハと“癒やし”に満ちた空間をぜひご体験あれ。
Written and Interviewed by 田中 泰
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