金子三勇士の新譜は日本デビュー10周年の原点回帰、新たな挑戦と発見を意味するリスト編曲版
金子三勇士が日本デビュー10周年を迎え、演奏の原点を見直し、自身のルーツを見つめ、レパートリーを再考し、自分がピアニストとしてどう生きるのか、何をすべきか、如何なる方向を目指したらいいのかを熟考している。
彼は、コロナ禍で活動が大きく制限されるなか、いま一番聴きたい作品は何かと自問自答したところ、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の第4楽章だったという。そして今回、「フロイデ」と題する新譜を作り出した。フロイデ(FREUDE)とは、ドイツ語で「喜び」「楽しみ」「歓喜」を意味する。
「世界中の人々がコロナ禍でさまざまな困難に遭遇し、自分の人生と向き合うことを余儀なくされています。僕もこの時期、ひとりの音楽家として人間として、どう生きればいいのかを日々模索しました。そのなかで、自分に問いかけたのです。いまもっとも聴きたい作品は何かと。
すると、ベートーヴェンの第9の第4楽章の《歓喜の歌》が思い浮かびました。僕は子どものころからリストを敬愛し、リストの考え方、生き方、人々のために社会のためにさまざまな挑戦や発信をし続けた姿勢に深く影響を受けていますが、リストはこの第9をピアノで演奏できるよう編曲しています。それをいま弾くべき、いましかないと思い、楽譜と対峙することにしました」
リスト編は音符が想像を絶するような多さで、リストはオーケストラをベースにすべての楽器の音、合唱までをもピアノに置き換えたようなすさまじい仕上がりになっている。
「最初はこの音符のすごさに直面し、リストを数多く演奏してきた自分がとても弾けないような編曲に困惑しましたが、オーケストラのスコアも参考にしながら徐々に弾けるようになってくると、当時の時代背景が見えてくるようになりました。リストの時代は、ホールの大きさもいまほどではなく、ピアノの機能も現代の楽器とは異なります。そこで、僕はリストのアシスタントになったつもりで(笑)、現代人の耳に合うように音の厚みや響きを考慮して、音を少し足す作業を行いました」
こうして、ベートーヴェンの交響曲第9番第4楽章(リスト編曲)にさらに金子がアレンジを加えたスペシャル・ピアノ版「フロイデ」が誕生した。このアルバムは、「音楽が放つ生きる喜び、ベートーヴェンが到達した境地をピアノで歌いあげることで人々に伝えてきたリスト。その思いを表現したい」と両作曲家への敬愛の念が音楽に込められている。
「リストは、不可能なことを可能にするすばらしいエネルギーと進取の気性に富んだ人。ハンガリー人の血を受け継ぐ者として、その精神を受け継ぎたい。当時リストは大きな規模の交響曲を演奏することができない場所でもピアノ1台で演奏できればと考え、ベートーヴェンの作品のすばらしさと偉大さをみんなに伝えました。歌曲や室内楽の編曲も多く手がけ、それらもピアノだけで演奏できるようにアレンジを試みています。僕の考えでは、こうした編曲作品は、それぞれ原曲のよさを生かしながらピアノで華やかさや多彩さを加えていますが、その作品のよさが倍増している。そこがリストの偉大さで、各々の作曲家をリスペクトしながら、オリジナルを超えてしまうような作品に仕上げています。いまでいうと、インフルエンサーかユーチューバーでしょうか。時代を先取りしていますよね」
金子三勇士は1989年日本人の父とハンガリー人の母のもとに生まれた。6歳で単身ハンガリーに渡り、リストやバルトークの作品を中心に幅広いピアノ作品を学び、2008年バルトーク国際ピアノコンクールで優勝の栄冠に輝く。以来、リストをレパートリーの中心に据え、さまざまな作品をコンサートで取り上げている。
新譜では、このベートーヴェンとカップリングされる曲として、リスト編曲「アヴェ・マリア」(シューベルト)、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(モーツァルト)と金子編曲「G線上のアリア」(バッハ)が収録されている。
「第9の第4楽章と組み合わせる作品として、いったいどんなものだったら適切だろうかと、ずいぶん悩みました。いろいろ試行錯誤した結果、リストの編曲版でまとめようと考えました。《フロイデ》が生きる喜びや前向きなエネルギーに満ちあふれていますから、他の曲は“祈り“をテーマにした曲がいいかなと思い、いろんな作曲家のリスト編を探しました。まず、頭に浮かんだのは、シューベルトの《アヴェ・マリア》です。それからモーツァルトも加えたいと思い、ようやく《アヴェ・ヴェルム・コルプス》を探し当て、その美しい編曲に心が洗われるような思いがしました。リストは高音域を生かした編曲を行い、声楽作品の音のつながりや音の伸びをピアノでうまく表現できるよう工夫を凝らしています。
そして最後の《G線上のアリア》は、やはりバッハを入れたいと思って選びました。これは僕がリストの編曲に負けないように、力を振り絞って編曲に挑戦したものです(笑)。声楽作品は、ピアノ用に編曲すると、音が伸びないという面にとても苦労します。それが実際に経験してみるとよくわかり、リストが《アヴェ・ヴェルム・コルプス》で高音域を多用したことが理解できました。すばらしいアイデアです。本当にリストから学ぶことは多いですね。今回のアルバムは、リストに感謝を捧げるという意味合いも備えています。リストはすばらしいピアニストであり、作曲家でしたが、それらの枠を超えて総合芸術を極めた人だと思います」
録音では、第9の金子三勇士編曲版を多数用意し、それぞれ演奏してはプレイバックを聴き直し、内容を探求していった。
「全部で8パターンの編曲版を用意し、何度も演奏してもっともいい編曲版を選びました。今回は全身全霊を傾けて編曲に挑んだり、かなり時間をかけて準備したり、自分にとってとても前向きな時間を過ごすことができました。実は、よくフランスの先生からいわれていることがあります。それは、「ピアニストは50歳から60歳になったときにバッハの平均律クラヴィーア曲集、インヴェンション、シンフォニア、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ32曲が弾けなければ一人前のピアニストとはいえない」ということです。
それを鑑みて、今後は時間をかけてバッハを順番に学び、ベートーヴェンのソナタは第32番から学んで順に第1番までたどり着く。逆から始めて、順に若い時代の作品へと歩みを進めていくわけです。ベートーヴェンのピアノ協奏曲も全曲演奏したいと考えています。そしてこれから1年くらいかけて、この《フロイデ》を日本各地で演奏していきたいと思っています。
実は、以前4人のソリストと僕のピアノで第9の第4楽章を演奏するという企画があり、すばらしい経験をしました。これに加えて合唱とピアノでのコラボレーションも企画されていたのですが、コロナ禍で声楽が無理だということになり、こちらは実現しませんでした。でも、いずれ挑戦したいと思っています。声楽とともに演奏すると、響きのニュアンスが理解でき、耳が変わるという思いを強くしたからです。今回のベートーヴェンのような大きな作品を演奏すると、ピアノ・ソナタを演奏するときに自分の演奏が大きな変容を遂げるということに気づきました。やはりベートーヴェンは偉大であり、そしてそれを橋渡ししてくれたリストの偉大さも痛感しています」
その思いが「フロイデ」に結実している。
Interviewed & Written By 音楽ジャーナリスト 伊熊よし子
■アーティスト情報
金子三勇士
1989年日本人の父とハンガリー人の母のもとに生まれる。6歳で単身ハンガリーに渡りバルトーク音楽小学校に入学、2001年からは11歳でハンガリー国立リスト音楽院大学(特別才能育成コース)に入学。
2006年に全課程取得とともに帰国、東京音楽大学付属高等学校に編入する。東京音楽大学を首席で卒業、同大学院修了。
2008年、バルトーク国際ピアノコンクール優勝の他、数々の国際コンクールで優勝。第22回出光音楽賞他を受賞。
これまでにゾルタン・コチシュ、小林研一郎、ジョナサン・ノット他と共演。国外でも広く演奏活動を行っている。
NHK-FM「リサイタル・パッシオ」に司会者としてレギュラー出演。
2019年5月には新譜CD「リスト・リサイタル」をリリースした。
コロナ禍でも、オンラインを活用したさまざまな企画を発信中。2021年は日本デビュー10周年を迎えた。
キシュマロシュ名誉市民。スタインウェイ・アーティスト。
■リリース情報
金子三勇士『フロイデ』
2022年3月4日発売
CD / iTunes / Apple Music / Spotify/ Amazon Music
- 金子三勇士 オフィシャル・ページ
- 金子三勇士 アーティスト・ページ
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