ときめく365日のためのクラシックレシピ:物語から生まれた音楽【連載第5回】
21世紀。「名盤」を聴くのも楽しいけれど、それぞれが思い思いに自分の「スタイル」で、日常のちょっとしたエッセンス――でも、それを聴くだけで目の前の世界をまるっきり新しくしてくれる魔法のように、音楽を楽しみたい。
では、自分らしいスタイルって、何?
この連載では、そんなスタイルの作り方(レシピ)を、季節ごとのプレイリストや、音楽のエピソードとともにご紹介。ご一緒に、ときめきに満ちた365日を過ごしましょう。
コラムニスト高野麻衣さんによる寄稿、その連載第5回です。(第1回/ 第2回/ 第3回/ 第4回)
どんな船よりもさまざまな異国へ
わたしたちを運んでくれる書物
エミリ・ディキンスンEmily Dickinson (1830-86)
食野雅子 訳
2月。一年でいちばん寒さが厳しくなるころ。しかし、凍てついた地面の下で、蕗の花が咲き始める春のはじまり(立春)の季節でもあります。雪の下、着実に動き出す草花に思いを重ねながら、わたしは今、新潟でこの原稿を書いています。生まれ育ったこの地に移住し、東京との二拠点生活をスタートしたのです。
一番の理由は、仕事の軸足が小説やシナリオなどの「物語」に移ったこと。もちろん、リモートが定着したこともきっかけです。ワーケーションを繰り返す中で、静寂と思索のときが、自分には欠かせないと思い知りました。
書斎の大きな窓の外には、美しい冬景色。遠くの山並みを背景に、薄く雪を冠った家々の瓦屋根。少し歩けば海岸線が見え、午前10時には港から汽笛の音がします。そして、松林の先には白鳥が飛来する湖。執筆中、広い空を白鳥が飛んで行くたび、ああ、決断は正しかったと噛みしめています。
「この町には、オペラハウスも美術館もミニシアターもないんだもの」かつて少女時代のわたしはそう思っていました。でも、大きくて美しい市立図書館があった。わたしは図書館の物語を読みつくし、同じ都市や時代の音楽や映画を鑑賞してはコメントを綴り、雑誌の切り抜きでスクラップブックを作りました。それが私の「物語」の原点です。
2020年の春、世界規模の巣ごもり生活の中、浴びるように読書をしながら思い出したのは、そんな途方もなく贅沢な少女時代でした。劇場に美術館に試写室に――時には地方や海外へと飛び回っていた日々が突然停止して、「物語」を味わい、綴ることの幸福を考えました。
「物語」さえあれば、どこでも暮らせる。どこにでも行けるし、どんな人にもなれる。わたしはそんな「物語」を書いて、かつてのわたしのような人たちに届けたい。思えばそのときから、今回の移住計画ははじまっていたのです。
音楽家もまた、物語からの感動を新しい表現の糧にしました。読書家だったリストは、大都会パリから逃れスイス、イタリアを転々とした「巡礼の年」の中で、出会った本たちを美しいピアノ曲に仕立てました。シューベルトやシューマン、そしてグリーグは、故郷の詩人たちに感銘を受け膨大な数の歌曲を綴りました。
そしてワーグナーは、神話や伝承を題材に自ら脚本を執筆し、楽劇という新ジャンルを打ち立てました。楽劇がヨーロッパ中を席巻した頃、オックスフォードではひとりの青年が「物語」の世界の入り口に立っていました。J.R.R.トールキン。のちに『指輪物語(The Lord of the Rings)』を著した、英国ファンタジーの第一人者です。
第5回のテーマは「物語と音楽」。
12曲を通して、冬の荒野をさまよっていた男が女に出会い、やがて愛と死を経験しながら故郷にたどりつく、というイメージの「物語」に仕立ててみました。家時間が長くなる冬。キャンドルを灯して、熱い紅茶を淹れて、ゆっくりと本の扉を開く。あるいはそっと、レコードに針を落とす。物語とともにある豊かな時間を、みなさんと分かち合えたら幸いです。
1.パーセル:歌劇《アーサー王、またはイギリスの偉人》より〈コールド・ソング〉
物語といえば英国。そして英国といえばアーサー王物語。スティング『ウィンターズ・ナイト』で最もスリリングでクールなこの曲は、パーセルの代表作《アーサー王、またはイギリスの偉人》に登場するアリア。敵方の魔術師オズモンドが、姫への求愛を拒絶された絶望を歌う。降りしきる雪のように下降する音型と、終盤の「let me freeze again(私を凍らせてくれ)」というセリフの繰り返しが胸に突き刺さる。
2.For Johann
英国の大学の調べによると、読書に最適なBGMはJ.S.バッハらしい。物語のはじまりのようなバッハの音を、アイスランドのピアニスト、オラフソンと電子音楽のバズーラによるクールなアレンジで。
3.グリーグ:《6つの詩》作品25より 第2番:白鳥
ノルウェーのソプラノ歌手、リーゼ・ダヴィドセンと、ピアニストのレイフ・オヴェ・アンスネスが、郷里の作曲家グリーグの音楽で共演した話題作『グリーグ:歌曲集』より。「美しい白鳥 おまえは黙し 叫びも鳴きもせずに見守る」と歌うイプセンの「白鳥」を題材に、静謐で、限りなく美しいハーモニーが紡がれる。
4.エルガー:《エニグマ変奏曲》より第9変奏:ニムロッド
最初の一音から、草原を風が通り抜けていく。英国の大作曲家エルガーが「エニグマ(謎)」の名を冠したこの曲、各変奏には当初イニシャルがつけられ、それぞれのモデルが仄めかされていた。ニムロッドは、アウグスト・イエーガーという楽譜出版社勤務の友人のこと。ミステリー好きの英国らしい遊び心と、友への愛がつまった1曲。
5.リスト:《巡礼の年》第2年〈イタリア〉より〈ペトラルカのソネット第47番〉
マリー・ダグー伯爵夫人とのスキャンダルでパリを離れたリストは、文化の中心イタリアで絵画や文学への造詣を存分に深めていく。その一つが、ルネサンスを代表する叙情詩人、フランチェスコ・ペトラルカの詩だった。
ソネットとは14行の定型詩のこと。ラウラへの愛を歌った〈ペトラルカのソネット〉3曲の中でも、この第47番は、恋におちた瞬間の甘やかな高揚感がたっぷり。
6.シューベルト:シルヴィアに
歌曲王が、シェイクスピア『ヴェローナの二紳士』第4幕第2場に登場する有名なセレナーデを基に作曲した名作。「シルヴィアとは誰?どんな人なのか」。まだ見ぬ相手に恋する心情が、浮き立つピアノで表現されている。
7. ラヴェル:組曲《マ・メール・ロワ》より 第4曲:美女と野獣の対話
モーリス・ラヴェルが「マザー・グース」を題材に作曲した管弦楽曲。ボーモン夫人の物語の優雅さが、ワルツで表現されている。
8.シューマン:《女の愛と生涯》より〈彼に会って以来〉
クララに恋するシューマンが、アーデルベルト・フォン・シャミッソーの詩を基に作曲した歌曲集の冒頭曲。
9.ナイマン:『アンネの日記』より〈If〉
1995年の映画『アンネの日記』のサウンドトラックとして、英国の作曲家マイケル・ナイマンが書き下ろした曲を、同国の若手サックス奏者ジェス・ギラムがカヴァー。少女が“架空の親友”に語った「もしも」が、甘くせつなく胸に響く。
10.バーンスタイン:《ウェスト・サイド・ストーリー》より〈Cha-cha(チャチャ)〉
ラヴ・ストーリーの王道、ロミオとジュリエット。ニューヨークの社会的背景を織り込み翻案したこの名作は、2021年に再び映画化され注目を集めている。
11.ワーグナー:楽劇《トリスタンとイゾルデ》より〈イゾルデの愛の死〉
そして、愛の物語の究極形といえばこの曲。中世の宮廷詩人たちが語り伝え、のちにアーサー王物語にも組み込まれたこの物語で、ワーグナーは新時代の響きをヨーロッパ中に知らしめた。
12.ショア:『ロード・オブ・ザ・リング』より〈エピローグ:西へ〉
トールキンの『指輪物語』は、おなじ北欧神話を基にしたワーグナー《ニーベルングの指環》と親和性がある。2000年代には、ピーター・ジャクソン監督により『ロード・オブ・ザ・リング』3部作として映画化、ラストの「王の帰還」でアカデミー賞11部門を受賞した。作曲賞受賞のハワード・ショアは、複雑で難解なこの作品を理解し易くするためにワーグナーのライトモチーフを採用したという。
胸いっぱいのエピローグを演奏するのは、映画をこよなく愛する若手チェリスト、キアン・ソルターニ。最新作『Cello Unlimited』では映画音楽をアレンジし、すべてのパートをチェロで演奏している。物語、万歳!
Written by 高野麻衣
Profile/文筆家。上智大学文学部史学科卒業。音楽雑誌編集を経て、2009年より現職。クラシック音楽とマンガ・アニメを中心に、歴史や人物について執筆、講演している。
著書に『フランス的クラシック生活』(ルネ・マルタンと共著/PHP新書)、『マンガと音楽の甘い関係』(太田出版)、コンピレーション企画に『クラシックの森』(ユニバーサル ミュージック)など。2021年には、原案・脚本を担当した朗読劇『F ショパンとリスト』が上演された。
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