《フィデリオ》~愛と自由を祝福するベートーヴェンの傑作オペラ
ベートーヴェン唯一のオペラ≪フィデリオ≫は、愛と自由を称える傑作。ヨナス・カウフマン主演のお薦めの録音でこのオペラを探究しよう。
オペラの中には、頭皮の知覚がヒリヒリと刺激されてしまうような特定の場面がある。トスカが好色な脅迫者を差し殺したり、殺意のある元カレをカルメンがかわしたりするシーンだ。しかし、フィデリオが女性であることを告白し、英雄的に夫を救って邪悪な強敵に銃を突きつける瞬間には、それらすべてを打ち負かす爆竹のような威力がある。《フィデリオ》は、1805年11月20日に“最初の”初演が行われた。ベートーヴェンの唯一のオペラが、なぜ、これほど熱い視線を注がれるのかを見ていきたい。
ヨナス・カウフマン、ニーナ・ステンメ、クラウディオ・アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団によるお薦めのベートーヴェン:オペラ《フィデリオ》を聴いてみよう。
英雄的な男女(おとこおんな)? 時代は19世紀初頭? かなり過激にみえるが、どのような筋書なのだろう。
フィデリオという名の青年に変装したレオノーレは、スペインの刑務所で働いているが、そこに夫のフロレスタンが政治犯として投獄されているのではないかと疑っている。やがて、彼女は地下牢で夫を発見する。邪悪な刑務所長のドン・ピツァロがフロレスタンの殺害を命じると、レオノーレは自分がフロレスタンの妻であることを告白し、夫の前に身を投げて人間の盾として立ちはだかり、銃を抜く。絶妙な頃合いで、正義を回復するために王室の大臣が到着する。クライマックスである銃と(レオノーレ)の身分の告白シーンは圧巻だ。
ベートーヴェン:《フィデリオ》作品72 第2幕より「あいつは死ぬのだ!」
(ヘルガ・リューニング&ロバート・ディディオ校訂版)
そこには崇高な音楽があり、解放と正義と自由がテーマだ。悪役が登場し、ヒロイズムがあり、ダンジョン(地下牢)もある。気に入らないはずがない。
ちょっと待って。上記に“最初の”初演とあるけれど、これはトートロジー(反復)ではないだろうか?
引っかかったな(笑)。実はベートーヴェンのオペラ《フィデリオ》には、3つのヴァージョンが存在する。最初が1805年の版で、少し長すぎて話の筋が定まらずに分かりにくいと受け取られた。その数ヵ月後の1806年に上演された改訂版は、継ぎはぎだらけの急ぎの仕事。1814年以降の3度目のものが、徹底的な見直しがされた力強い作品で、今日、通常使用されているヴァージョンだ。
混乱を避けるために付け加えると、それのいくつか、少なくとも最初の2つのヴァージョンは、現在では通常、《レオノーレ》というタイトルで呼ばれるようになっている。
台本を書いたのは誰?
あまり知られていない多くの人が台本制作に関わっている。フランスのジャン=ニコラ・ブイイの原作『レオノーレあるいは夫婦愛』に基づいており、フランス革命の余波で人気を博した「救出オペラ」と言われるものの一つだった。ベートーヴェン以前に、少なくとも3人の作曲家がこの作品(フランス語とイタリア語版の両方)を手掛けたが、現在もレパートリーとして残っているのはベートーヴェンのもののみである。
革命、専制政治、政治犯…という言葉で少し重すぎると感じてしまうかもしれない…。
筋書には、ロマンティック・コメディのような部分もあり、オペラのその他の場面と比較すると、それほど出来がよくないため、そこには触れないようにしていたのだが…。それが、マルツェリーネという若い女性がフィデリオに恋してしまい、彼女に夢中な門番のヤキーノを嫉妬させる部分だ。
オペラの冒頭で、二人はかなりだらだらと、くだらない小競り合いをするのだが、ベートーヴェンはなぜか、第2幕では可哀そうなマルツェリーネの存在を忘れてしまう。彼女が、フィデリオが女性であることを知るのは本当に最後の方で、彼女についての筋書は唐突に終わりを告げる。使い捨ての登場人物と言えるかもしれない。
自由という超越的な理想をテーマにした作品で、どのような形であれ、おどけた喜劇の要素を入れるのは間違いかもしれない。だが、ここでは奇妙なことに、一方が他方を高める結果となっている。
他に問題点はあるだろうか?
あえていくつかの問題点を挙げるとしたら、たとえ男装をしていたとしても、妻が“暴露”するまで、夫であるフロレスタンが彼女の正体がわからないというのは、少し信じ難い。さらに、このオペラはジングシュピールのようになっており、歌の合間に台詞が存在する。一般的にオペラ歌手は台詞と歌の間を行き来するのを嫌うし、ドイツ語を解する人以外には、慣れるのが難しく感じるかもしれない。そこを乗り越えさえすれば、得られる喜びはそれを補って余りある。
例えば、どのようなところ?
第1幕の〈囚人たちの合唱〉は、忘れることの出来ない印象的な場面だ。フィデリオ(レオノーレ)が刑務所のチーフのロッコに、囚人たちを外に出して新鮮な空気を吸わせ、太陽の光を浴びさせるよう説得する。夫を探すためだ。彼らの合唱「ああ、何という嬉しさ」は、音楽的な絶頂の表現で、制約された中で、強力な雰囲気を醸し出す。
ベートーヴェン:《フィデリオ》作品72第1幕より「ああ、何という嬉しさ」
ヘルガ・リューニング&ロバート・ディディオ校訂版
レオノーレが、ドン・ピツァロが企てた夫の殺害計画を耳にすると、彼女はソプラノのアリアの中でも最高峰の恐怖と希望のアリアを歌う。「非道の者よ!」という演説口調から始まり、「来たれ、希望よ」と歌う願いを込めたメロディへと移行していく。
もう1つの大きな感情の爆発は、舞台が刑務所の中から地下牢に移った際の第2幕冒頭で起こる。物悲しい序奏の後、観客は初めて鎖に繋がれたフロレスタンの姿を目にする。彼は「神よ!ここは何という暗さだ!」と歌い、妻が救出にやってくることを夢見ている。
ここで現代最高のフロレスタン、ヨナス・カウフマンの登場だ。信じられないほど難しいアリアを歌っている。
ベートーヴェン:《フィデリオ》作品72第2幕「神よ!ここは何という暗さだ!」
(ヘルガ・リューニング&ロバート・ディディオ校訂版)
そして最後に、レオノーレが夫を救出してフロレスタンが解放されると、合唱が祝祭に加わって作品を締めくくり、オペラは愛と自由のセレブレーションへと変わる。
お薦めの録音
「並外れたフロレスタン ― 間違いなくジョン・ヴィッカーズ以来最高の。ヨナス・カウフマンが道徳的な偉大さと苦しみの極限を見事に伝えている。」ティム・アシュリー、ガーディアン紙
ヨナス・カウフマン、ニーナ・ステンメ、クラウディオ・アバドとルツェルン祝祭管弦楽団によるお薦めのベートーヴェン:《フィデリオ》は、こちらから購入可能。
Written By Warwick Thompson
■リリース情報
クラウディオ・アバド
ベートーヴェン: 歌劇《フィデリオ》全曲
2020年5月20日発売
CD / Apple Music / Spotify /Amazon Music
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