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アリス=紗良・オット最新インタビュー:新作『フィールド:ノクターン全集』を語る
ピアニスト、アリス=紗良・オットがアイルランドの作曲家、ジョン・フィールドのノクターンを全曲録音したアルバム『フィールド:ノクターン全集』をリリースした。
ドイツ・グラモフォンでジョン・フィールドの全集録音が行われるのは今回が初めてだという。新作でアリスがジョン・フィールドをセレクトしたのはなぜか?またその制作はどのように行われたのか、前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)さんによるインタビュー。
――18世紀後半にアイルランドのダブリンに生まれ、19世紀前半にモスクワで亡くなった作曲家ジョン・フィールドは、必ずしもクラシック音楽ファンに広く知られた存在とは言えない。ピアノの学習者ならば、フィールドがピアノ曲の分野で初めて「ノクターン(夜想曲)」というジャンルを始め、彼の音楽を敬愛していたショパンに影響を与えたという音楽史の知識は多少かじったことがあるかもしれないが。
しかし、そのフィールドのノクターンが全部で何曲あるのか、よほどのマニアでないと答えはすぐに出てこないはずだ。いや、そもそもフィールドの夜想曲を聴いたり、弾いたりしたことがある人が、果たしてどのくらい存在するだろうか? そして驚くべきことに、アリス=紗良・オットにとっても、事情は全く同じだったという。
アリス=紗良・オット:私が学校で音楽の勉強をしていた時、ジョン・フィールドの名前を口にした人はいましたが、実際にフィールドの曲を弾く人は周囲に誰もいませんでした。私の先生もフィールドに興味がなかったし、誰も彼の音楽を私に紹介してくれなかったので、知りようがなかったんです。
ところが、そんなフィールドの音楽を、パンデミックの時に初めてちゃんと聴きました。私にとって大きな発見でしたが、同時にとても親しみやすい音楽だと思ったし、懐かしさすら感じたんです。
調べてみると、デッカ・レーベルにフィールドのノクターン全集の録音がありましたが、ドイツ・グラモフォンには全集録音が1枚もありませんでした。そこで「フィールドを録音したい」と提案したら、意外にも反対意見は全く出なくて、みんな大賛成してくれたんです。「ぜひぜひやりましょう!」という感じで、プロジェクトの話が進んでいきました。
――彼女の言う「親しみやすさ」や「懐かしさ」は、アルバム最初に演奏されるノクターン第1番からはっきり感じ取ることができる。心地よい左手の伴奏の上で歌われる右手の旋律は、私たちがノクターンという言葉から思い浮かべる連想とは全く異なる、屈託のない明るい“歌”だ。しかもその“歌”は、初対面なのに旧知のような印象を与える。
アリス:ショパンのノクターンを弾いたことがあるから、フィールドにすぐに馴染んだというのとは違うんです。むしろ、ショパンとは全然違います。少なくとも私には、フィールドは全く違う音楽のように感じられますね。
フィールドを聴いていると、むしろモーツァルトやハイドンを思い浮かべます。確かにフィールドがショパンに与えた影響というのはありますが、フィールドの音楽はショパンほどロマンティックに感じません。それとどういうわけか、フィールドを聴くとベートーヴェンを思い起こすのです。
©HannesCaspar
――かつてフランツ・リストはフィールドの楽譜を校訂・出版した際、「フィールドはソナタやロンドといった既存の形式の束縛から逃れ、感情とメロディーだけが支配するジャンルを初めて導入した」と絶賛した。だが、それだけでなく、シンプルな音楽の中にフィールドならではの卓越した演奏技術が隠されているのだと、彼女は指摘する。
アリス:フィールドのノクターンは、どれも曲の構造がとてもシンプルで、それは誰が聴いてもその通りだと思います。でも、彼の楽譜を実際に見てみると、彼が即興演奏の驚異的な達人だったとわかります。つまり装飾音を巧みに用い、ハーモニーやリズムを巧みに変化させていくんです。私が見る限り、この点に関してはショパンすらフィールドの技術力に全くおよびません。装飾音の使い方、ハーモニーやリズムの見事な変化は、信じられないほど素晴らしいです。右手の装飾音をフルに活用したノクターン第10番などは、フィールドの即興演奏の素晴らしさをあますところなく伝えていますね。最も素晴らしいノクターンのひとつだと思います。
――今回の彼女の全集録音は、フィールドの音楽に隠された技術を存分に引き出したばかりか、200年前のフィールド本人には予想もつかなかった手法を用い、彼の音楽に新たな光を当てている。
アリス:《性格的夜想曲: 真昼》と題されたノクターン第12番の終わりに「Cloche(鐘)」と記されたセクションが出てくるのですが、ちょうどランチを食べてお腹いっぱいになり、お昼寝したいなと思ったときに、後ろにある大きな古時計が正午を告げる鐘を鳴らし続ける。そういう情景ですね。
――そのセクションの演奏に際し、なんと彼女はピアノの内部奏法を用い、古時計の鐘の音色を見事に再現しているのである。フィールド自身も思いつかなかった手法だが、その効果は絶大だ。
アリス:今回の録音では、有名な調律師ミシェル・ブランジェスに初めて調律をお願いしたのですが、ピアノの音色に関する知識がものすごく豊富で、革新的なアイディアをどんどん出してくるんです。「ミシェルさん、こういう音が欲しいです」と言うと、彼はありとあらゆるテクニックを使って、その音を引き出してくれます。
ノクターン第12番は、実はその場の思いつきで「楽譜に鐘と書いてあるから、実際に鐘のようなサウンドを鳴らしたい」と伝えたんですが、彼はその場でいろんな実験を始め、ピアノから鐘のようなサウンドを引き出してくれました。内部奏法の鐘のサウンドはピアノと同時に弾けないので、多重録音を用いましたが、結果にはすごく満足しています。
――その鐘のようなサウンドは、単にノクターン第12番の中で効果を発揮しているだけではない。モスクワとサンクトペテルブルクを拠点に活動したフィールドは、グリンカをはじめとする多くの作曲家を教えたが、ノクターン第12番の鐘のサウンドを聴くと、フィールドが(鐘の響きと切っても切り離せない)ロシア音楽全体に与えた影響まで思いをめぐらすことができる。そういう意味で、今回の彼女の録音はひとつの啓示だと言ってもよい。
アリス:そこまでは気づきませんでした!でも、言われてみると確かにその通りですね。いまは簡単にロシアに行けませんが、以前ロシアを訪れた時、現地で聴いたロシア正教会の鐘の音がすごく記憶に残っています。
さまざまな音の高さの鐘が同時に鳴るのですが、その中には木琴で演奏しているような高い音域の鐘も含まれていて、とても印象的でした。これまでフィールドのノクターン第12番を弾くときは、古時計の鐘のことを思い浮かべていましたが、言われてみると、この曲全体が鐘のような音楽ですね。
フィールドの弟子だったグリンカは「ロシア音楽の父」と言われていますが、果たしてフィールドが「ロシア音楽の源流」とまで言い切れるか、私自身は確信が持てません。でも、彼がロシアだけでなくいろんな国の作曲家に影響を与えたことは事実です。例えば、クララ・シューマンの父親のフリードリヒ・ヴィークは、フィールド楽派のメソッドでクララを教えたと言っていますし、フィールドがいなければ、ノクターンというピアノ音楽のジャンルは存在しなかったわけですから、当時最も有名な音楽家のひとりだったのは間違いないですね。
――フィールドの作曲家像を深く掘り下げるためなら、多重録音のような現代的な技術も積極的に用いる彼女は、現代の聴衆にフィールドの音楽の魅力を伝えるべく、なんと最先端の映像技術を用いた約1時間のミュージックビデオまで作り上げた。テノール歌手/映像作家のアンドリュー・ステープルズが監督した映画『Nocturne』がそれだ。
アリス:以前、坂本龍一さんとTin Drumが作ったMR(複合現実)作品『KAGAMI』を観たことがありますが、とても感動的で美しい作品でした。ゴーグルを着用すると、突然ピアノが目の前に現れ、坂本さんが出てきてショーが始まるんです。こういう複合現実や拡張現実といったテクノロジーの可能性には、すごくワクワクしますね。
私自身は、非常に伝統的でクラシカルな世界から出てきましたが、この業界でよくないと感じる点のひとつは、新しい試みや変化に対して非常に懐疑的で、すぐに躊躇してしまうことです。でも、私たちが生きる世界は変化を続けています。新しい技術を用いながら、お互いの理解を深め、一緒にモノを作り上げていけば、もっと素晴らしい体験ができるんですよ。
――クラシックのミュージックビデオとしては、バーチャル・プロダクションの技術を初めて本格的に用いたという映画『Nocturne』は、ヴァーチャル・スタジオに設置された巨大なLEDスクリーンとLEDシーリングが映し出すさまざまな風景の中で、彼女がピアノを演奏していく大胆で実験的な映像作品である。
アリス:LEDスクリーンに現実の風景を映し出せば、リアルな世界を創りだすこともできますし、非現実的な映像を映しだせば、とてもシュールな世界を創りだすことも可能です。
例えばノクターン第2番では、私が好きなコンピューターゲーム『Stray』にインスパイアされたネオンの世界の中で私がピアノを弾くのですが、撮影のためにネオンの映像をスクリーンに映し出してみると、なんと漢字が逆さまに映っていたんです(笑)。幸いにも、映像のデザインを担当した美術チームが柔軟に対応してくれたので、すぐにコンピューターで修正を加えてもらいましたが、最終的にはあえて間違いをそのまま残そうと思ったんです。
例えば、完成版の映像の中で「寿司バー」というネオンの「ー(音引)」の向きが間違っていますが、最初にその間違いを見つけたときは「オー、マイ、ゴッド!」とびっくりしました。でも、この映像の世界、ヴァーチャルな世界は、現実を鏡のように映し出したゆがんだ世界と考えれば、それほどおかしくはありません。私たちが夢を見ているときも、この映画と同じように世界がゆがんでいるでしょう? それと同じなんです。
――そこから彼女はさらに一歩進み、ふだん私たちが結びつけることのない異なる世界を、この映画の中で見事に結びつけた。その世界とは、彼女がフィールドを演奏するときにいつも思い浮かべるというベートーヴェン、具体的にはフィールドのノクターン第9番に酷似しているベートーヴェンの《月光ソナタ》第1楽章だ。2曲とも短調で書かれ、左手の伴奏が三連符を特徴とし、右手の旋律に葬送行進曲を思わせる符点リズムが用いられている。
アリス:ベートーヴェンの《月光ソナタ》の第1楽章は、決して美しくロマンチックな曲ではありません。実は暗く、不吉で、不気味な曲なんです。なぜかというと、ベートーヴェンはモーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》にインスパイアされてこの曲を作曲したからです。日本ではあまり知られていない話かもしれませんが、有名なピアニストのエトヴィン・フィッシャーも《月光ソナタ》と《ドン・ジョヴァンニ》の関連について語っていますね。これはとても重要な知識だと思うので、ぜひみなさんとシェアしたいんです。
――今回の映画『Nocturne』では、フィールドのノクターン第2番の演奏シーンの後に、ベートーヴェン《月光ソナタ》第1楽章全曲が演奏される。舞台は、ホラー映画を思わせる暗い森の中。そこで彼女は不気味な石像、つまりドン・ジョヴァンニに殺害された騎士長の石像を見つけるが、この石像の正体は実際に《ドン・ジョヴァンニ》にインスパイアされて制作され、現在もザルツブルク大聖堂の脇に展示されている「ピエタ像」だという。
アリス:いま私がヨーロッパで演奏し、夏に日本でも披露するツアープログラムでは、フィールドとベートーヴェンを組み合わせていますが、なぜフィールドとベートーヴェンなのか、ふたりの類似点をぜひみなさんに紹介したいんです。
そもそもフィールドという作曲家を詳しく知っている聴衆は多くないと思うので、聴衆のみなさんが終演後にフィールドの経歴を調べるくらいなら、私が少しだけトークすればいいんじゃないかと。今回のツアーでは映像は用いず、ピアノだけで演奏するので、曲間トークという形をとると思いますが、実際にフィールドのノクターン第9番とベートーヴェンの《月光ソナタ》の抜粋を弾きながら比較してみると、とても楽しいんですよ。ヨーロッパでは終演後に「《月光ソナタ》が今までと全然違って聴こえてきました!」という感想も多くいただきました。とてもうれしいです。
――そうしたリサイタルにおける取り組みや、最先端の映像とコラボする新たな実験に加え、昨年から彼女は現代音楽の協奏曲を各地で演奏する野心的な試みにもチャレンジしている。欧米で絶大な人気を誇る人気作曲家であり、日本ではインディーズ・バンド「ザ・ナショナル」のメンバーとしても知られるブライス・デスナーが、彼女のために書き下ろした《ピアノ協奏曲》がそれだ。
アリス:現代作曲家が私のために協奏曲の新作を書き下ろしたのは、もちろん今回のブライスが初めてです。はじめはスウェーデンのオーケストラから「現代作曲家の協奏曲を演奏しないか」と話をいただいたのですが、オーケストラが委嘱料も用意できるということだったので、それなればブライス・デスナーはどうだろうと提案したんです。
彼がラベック姉妹のために作曲した《2台のピアノのための協奏曲》がとてもよかったので、ダメ元でブライスに訊ねてみましたが、意外にも彼は「イエス」と答えてくれました。ブライスに限りませんが、私がフランチェスコ・トリスターノやチリー・ゴンザレスのような作曲家に新曲を委嘱するときは、彼らの音楽に対するある一定のイメージや認識を踏まえた上で、作曲をお願いします。
ところが、彼らが私に対していだいているイメージや認識は、どうもそれとかなり違うみたいなんです。つまり、彼らの音楽に対して、私は球体のような、どちらかというとゆっくりしたイメージを持っているのですが、そういう音楽を書き上げてくると思っていたら、実際にはみんな超絶技巧満載の曲を書いてくるのですよ(笑)。とても面白いですね。
ブライスの協奏曲はテクニックは難しいし、テンポも速いし、全曲中、休みがわずか8小節しかなく、すべてがダンスの要素で書かれ、しかもジャズの要素まで含まれています。私はクラシックの教育を受けたピアニストなので、リズムを感じながら演奏するためには、小節を見ながら拍を数えなければなりません。でも、ブライスが書く音楽は小節に収まりきらないというか、フィーリングやエモーションが大切なんです。そういう意味で、今回の協奏曲はとてもチャレンジングな体験でしたが、ブライスはとても柔軟性のある作曲家なので、「ここは演奏不可能」と指摘すると、すぐ修正してくれます。作曲家と緊密な作業ができるのは素晴らしい体験ですね。おかげさまで、とても好評です。日本でもできるといいのですが。
Interviewed & Written by 前島秀国(サウンド&ヴィジュアル・ライター)
■リリース情報
アリス=紗良・オット『フィールド:ノクターン全集』
2025年2月7日 (金)リリース
CD / Apple Music / Spotify /Amazon Music
■公演情報
アリス=紗良・オット ピアノ・リサイタル
6月21日(土) 東北大学百周年記念会館川内萩ホール
6月26日(木) 文京シビックホール
6月28日(土) 兵庫県立芸術文化センター
6月29日(日) サントリーホール
7月1日(火) 愛知県芸術劇場 コンサートホール
東京都交響楽団 定期演奏会Bシリーズ
2025年7月4日(金) 19:00開演 サントリーホール
2025年7月5日(土) 14:00開演 サントリーホール
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