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シュープリームス「Baby Love」解説:当初ゴーディに却下されながら全米1位/初UK1位を記録した名曲
過去に‘ノー・ヒット・シュープリームス’とまで言われたグループは、1964年の夏、アメリカで最も人気のグループになろうとしていた。
1964年8月13日は「Where Did Our Love Go」がアメリカで1位に登る1週間前で、シュープリームスにもアルバムが必要と迫られていた時期だった。そのとき「Baby Love」の伝説は生まれた。しかし、モータウンのコレクターはご存知のように、3人のプロデューサー・チームのホーランド=ドジャー=ホーランドのこの曲は、もともとはその前月にレコーディングされ、ボスであるモータウンの創設者ベリー・ゴーディに却下されていたのだ。
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「Baby Love」の最初のヴァージョンは、3週間前の7月24日にレコーディングされていた。しかし、ベリー・ゴーディが1995年の自伝『モータウン、わが愛と夢』(東京FM出版刊)でこう振り返っている。
「ホーランド=ドジャー=ホーランドが最初に録り終えた時、“すごくいいんだけど、生き生きとしてなくて、仕掛けみたいなものを感じないな”と言ったんです。もちろん彼らは同意しなかったけど。そこでまたスタジオに入って録り直した。最初のあのウーウーウー、あの部分を付け足したんです。“これで完璧だ!”と伝えました」
ホーランド=ドジャー=ホーランドの一人、ブライアン・ホーランドの記憶では、彼らの3人の中ではすでにその結論に至っていたという。「“Baby Love”をレコーディングした時、テンポが遅すぎると思った」と振り返る。「もう少し覇気を足したいと感じていたんです」。
ダイアナ・ロスの新しいアドリブ以外に、録り直した楽曲は少しテンポが早く、結果的にキリッとした出来となった。また、バックビートにパーカッションを入れ、特に目立ったのは新しいイントロだった。『The Complete Motown Singles Volume 4』でタムラのキーボードの第一人者、アール・ヴァン・ダイクがそれは手拍子ではなく、2×4フィートの板の上を「ある男が踏みつけていた音だよ」と語った。
その夏の日、「Baby Love」の新しいヴァージョンは2回で録り終え、5週間後にアメリカで品番モータウン1066でリリースされた。それは、「Where Did Our Love Go」が全米シングル・チャートで2週間トップに君臨した記録が終わりを迎えた3週間後のことだった。
10月の終わりには「Baby Love」は頂点に達し、4週間の間1位を記録、11月にはR&Bチャートでも3週間1位を記録した。これは、Billboard誌が個別にソウル・チャートを発行していなかった14週間の間の出来事であり、チャート史の専門家ジョエル・ホイットバーンの本では、ライバル誌であるキャッシュボックスの‘R&Bトップ50’のデータを参照している。11月中旬には「Baby Love」はロイ・オービソンの「Oh, Pretty Woman」を全英シングル・チャートのトップの座から引きずり下ろした。
Written by Paul Sexton
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