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女性パンク・アーティストの歴史:“ロックン・ロール”という男性社会と性別の固定観念への抵抗
悲しい事実だが、1970年代に女性のパンクスが台頭するまでは、“ロックン・ロール”という男性社会において、女性が男性と同等に見られることはおろか、真面目に扱われるチャンスさえほとんどなかった。
こうした視点から見ると、かつてのロック界には独立心のある力強い女性が絶望的なほど少なかった。1960年代後期から1970年代初頭にかけての時期には、ジェファーソン・エアプレインのグレイス・スリック、今は亡きジャニス・ジョプリン、高く評価されているシンガー・ソングライターのジョニ・ミッチェルやキャロル・キングなどが頭角を現し始めている。しかしメンバー全員が女性というバンドはほとんど見られなかった。アメリカ・カナダの混成バンド、シー・トリニティやニューハンプシャー州の元祖パンク・バンド、シャッグスは、自分たちで作った曲をレコードにしようと果敢に挑戦したが、商業的な成功は収められなかった。
性別による不平等な扱い
パンクは弱点や矛盾もたくさん抱えていた。とはいえ、性別による不平等な扱いを是正する出発点となったことは後世に残る成果のひとつとなった。何もかも御破算にしようする「イヤー・ゼロ」というあの時代ならではのアプローチのおかげで、ザ・スリッツのような攻撃的なガール・バンド、あるいはカリスマ性溢れるスージー・スーのようなミュージシャンが表舞台に登場し、後に続く女性パンクスのために重みのある発言をすることが可能になった。
それまでの女性アーティストといえば、顔の見えない権謀術数に長け、そして例外なく男性ばかりのマネージャー/プロデューサー/音楽出版業者が考え出した売り出し計画に沿って、か弱い存在、捨てられた女、妖しい魅力に溢れた妖婦といった決まりきった役柄を与えられ、それを演じるように強いられていた。風向きが変化し始める最初の兆候は、1975年に現れた。
ギタリストのジョーン・ジェットとドラマーのサンディ・ウェストがメンバー全員女性のロック・バンド、ランナウェイズを結成したのである。マネージャーとなったロサンゼルスの有名人キム・フォーリーが、このバンドのキャリアに多少の影響を及ぼしたのは確か。とはいえ彼女らは派手な活動を繰り広げ、日本ではビートルズにも匹敵するほどの大人気バンドになった。ランナウェイズのギタリストふたり、ジェットとリタ・フォードは後にソロでも成功を収めている。
伝説的な女性パフォーマーたち
一方アメリカ東海岸では、CBGBとマクシズ・カンザス・シティというふたつの有名ライヴハウスを中心としてニューヨーク・パンクが盛り上がりつつあった。そこから、ふたりの伝説的な女性パフォーマーが姿を現した。そのひとり、パティ・スミスはジョン・ケイルがプロデュースを担当しているデビュー・アルバム『Horses』を1975年12月にアリスタ・レーベルから発表。
ビート詩人に影響された非常に独創的な歌詞と原始的なガレージ・ロック・サウンドによって、このアルバムはたちまち評論家から絶賛されるようになった。『Horses』は、世界初のアート・パンク・アルバムのひとつとして後に賞賛されることになる。
ニューヨーク・パンクからはもうひとり、デボラ・ハリーというスターも生まれた。そのフォトジェニックで独特な容貌と二色に染めた金髪のおかげで、彼女はすぐにパンクを代表する有名人のひとりとなる。デボラは、自らのバンド、ブロンディで重要な役割を果たしていた。
自ら曲作りに携わり、「Picture This」や「Heart Of Glass」といった大ヒット曲を生み出したのである。ブロンディのサード・アルバム『Parallel Lines』はマルチ・ミリオンセラーの大ヒット作となり、その後デボラはパンクの世界だけに止まらないスーパースターへと成長した。
「堂々としているが冷ややか。隅から隅までモダン」
同時期のUKパンクの爆発的なブームからは、非常に個性的な女性パンクスのグループも台頭してきた。スージー・スーはもともとセックス・ピストルズを追いかけていた集団のひとりだったが、やがて仲間のスティーヴ・セヴェリンと共に自らのバンド、スージー&ザ・バンシーズを結成する。これはUKパンクの中でも飛び抜けて魅力的なバンドへと成長していった。高名な音楽ライターのジョン・サヴェージは、スージーを「堂々としているが冷ややか。隅から隅までモダン」と評している。
セックス・ピストルズの周辺からは、驚異的なソングライターがもうひとり出現した。ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌で歯に衣を着せぬライターとして活動していたオハイオ州出身のミュージシャン、クリッシー・ハインドである。
彼女は、マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウェストウッドがロンドンのキングスロードで経営していたパンク・ブティック「SEX」で働いていたが、1978年にプリテンダーズを結成。デイヴ・ヒルのリアル・レーベルと契約する。そして1979年の暮れには、魅力的なシングル「Brass In Pocket」とデビュー・アルバムがそれぞれ全英チャートの首位を獲得していた。
初期のUKパンク・シーンでめきめきと頭角を現したもうひとつのバンドがX・レイ・スペックスだ。このバンドを率いていたのはアナーキーなポリー・スタイリーン(マリリン・エリオット)だった。『ビルボード』誌の表現を借りれば「現代のフェミニスト・パンクの元祖」であるポリーは、歯科矯正ブレースを誇らしげに身につけ、1970年代の「セクシーな女性ロック・スター」という固定観念に誰よりも抵抗していた。
X・レイ・スペックスの怒りに満ちたデビュー・シングル「Oh Bondage Up Yours!」は、反消費主義とフェミニズムの主張に貫かれ、現在でもパンクの最重要作品のひとつとして評価されている。このバンドの唯一のアルバム『Germfree Adolescents』は過小評価されがちだが、ここからは全英チャートのトップ40に入るヒット曲が3曲出ている。
「音楽的な面でバンドの必要不可欠な役割を担う」女性たち
重要なことだが、パンクにはもうひとつの功績があった。女性がお飾りのカワイコちゃんではなく、音楽的な面でバンドの必要不可欠な役割を担うべきだという考えを広めたことが、これに当たる。過小評価されがちなパンク・バンド、ジ・アドヴァーツは、ロンドンの有名なパンク・ライヴハウス、ザ・ロキシーに出演した最初のバンドのひとつだった。
このバンドの看板ヴォーカリストはシニカルな(男性の)TV・スミスだったが、ベースを担当していたゲイ・アドヴァートはイギリスの女性パンクスの中でも伝説的な存在となった。音楽評論家のデイヴ・トンプソンは次のように書いている。「パンダの目のようなメーキャップとレザージャケットという出で立ちは、女性パンクスのイメージを決定づけた」。
メンバー全員が女性のロンドンのバンド、ザ・スリッツはシングル「Typical Girls」がささやかなヒットになったが、彼女らの功績はそれどころのものではない。このバンドは、イギリスの女性パンクスの中で最も画期的な存在だったと言える。
ザ・クラッシュの前座を務めていた活動初期、ザ・スリッツは攻撃的なストリート・パンクだった。しかしその後はレゲエやダブにも手を染め、その先鋭的なパンク・ポップは、1979年のデビュー・アルバム『Cut』に結実した。デニス・ボーヴェルがプロデュースしたこの作品は歴史的な傑作となった。
『Cut』に影響を受けたと公言するアーティストはさまざまな方面にいくらも存在した。その中には、カート・コバーンやスリーター・キニーといった者も含まれている。また、このアルバムが刺激となって、女性メンバーを中心とした新世代の魅力的なポスト・パンク・バンドも生まれてきた。
その例として、デルタ・5、レインコーツ、モー・デッツ、クリネックス(のちのリリパット)などが挙げられる。こうしたバンドはどれもフェミニスト的な姿勢で活動していたが、サウンドはそれぞれ異なっていた。たとえばクリネックスは元気一杯だがルーズなアンサンブルのポスト・パンク。一方デルタ・5は、ギャング・オブ・フォー風のツイン・ベースによるタイトなサウンドをその特徴としていた。
自分らしさを保ちながら、華奢なところもさらけ出す
さらにザ・スリッツとレインコーツは、1980年代~1990年代の女性ロック・パフォーマーの代表格、つまりキム・ゴードンにも影響を与えている。キムは、ニューヨーク・シティのアート・パンク・バンド、ソニック・ユースのベーシストとなった(時にはヴォーカリストやソングライターといった役割も担っている)。
レインコーツのセカンド・アルバム『Odyshape』がラフ・トレード/DGC・レーベルから再発されたとき、キムはライナーノーツを寄稿し、その中で彼女はこう述べていた。
「私はザ・スリッツが大好きだった。なぜならあのバンドは大胆な活動しており、それと同時に売れ線の曲も作ることができたからだ。とはいえ、一番共感できたのはレインコーツだった……。あのバンドは自信に溢れていたので、自分らしさを保ちながら、自分たちの華奢なところも表にさらけ出すことができた。男のパンク/ロックの攻撃性を身にまとう必要などなかったのだ」
パンクの革命的な精神は、ブリーダーズやコートニー・ラヴのホールといった女性リーダーが率いる1990年代の有名バンドにも受け継がれていた(ホールは、1991年のデビュー・アルバム『Pretty On The Inside』でキム・ゴードンとコラボレートしている)。またパンクの焼け付くような攻撃性は、PJハーヴェイの初期の見事な(時には露骨すぎるきらいもある)アルバム『Dry』や『Rid Of Me』にも表れている。
しかし1990年代において、パンク精神を最も前面に出したのは”Riot Grrrl (ライオット・ガール)”というアンダーグラウンド・フェミニスト・ハードコア・パンク・ムーブメントだった。これは元々、アメリカ北西部のワシントン州でグランジ・ムーブメントと並行して始り、ライオット・ガールはフェミニズムとパンクのDIY精神を結びつけ、草の根運動や政治活動も積極的に推し進めていった。
ここからは、後の女性パンクスの代表的な人物がたくさん生まれ、素晴らしいバンドもいくつか誕生した。その例としては、ビキニ・キル、ブラットモービル、イギリスで活動していたハギー・ベア、そしてオレゴン州ポートランドの3人組、スリーター・キニーなどが挙げられる。
「パンク・ロックを作り出したのはイギリスではなく女の子たち」
こうした先駆的な作品を作り出し、パンクを越えて世界に大きな影響を及ぼした伝説的な女性ミュージシャンたちは、その多くが現在も元気に活動を繰り広げている。残念なことにポリー・スタイリーンは2011年4月にこの世を去ったが、近年のパティ・スミスはアルバム『Banga』、またデビー・ハリーはブロンディのアルバム『Ghosts Of Download』を発表し、どちらも評論家から絶賛されている。
一方イギリスでは、2007年にスージー・スーが多様な音楽性を持つドラマティックなソロ・デビュー作『Mantaray』を出していた。さらに最近では女性ミュージシャンによる回想録も出版されており(たとえばキム・ゴードンの『Girl In A Band』や元スリッツのヴィヴ・アルバータインの『Clothes Clothes Clothes Music Music Music Boys Boys Boys』)、そうした書籍も高い評価を受けている。
勇気づけられることだが、21世紀に入ってからも新世代の女性ロッカーたちがパンクの精神を受け継ぎ、驚異的な新しいサウンドを作り出している。たとえばニューヨーク・シティのヤー・ヤー・ヤーズ(リーダーはカレン・O)は、2003年の『Fever To Tell』を皮切りにエッジの効いたアート・パンクの快作を連発している。またメンバー全員が女性のロンドンの四人組バンド、サヴェージズは2013年のデビュー・アルバム『Silence Yourself』が幅広い方面から高く評価され、マーキュリー・ミュージック・プライズにノミネートされた。
そしてロシアのバンド、プッシー・ライオットは国家権力をも挑発するようなゲリラ・パフォーマンスでセックス・ピストルズじみた悪名を馳せ、パンクを再びメインストリームの大舞台で蘇らせた。キム・ゴードンはかつて「パンク・ロックを作り出したのはイギリスではなく女の子達」というメッセージが書かれたTシャツを着て賛否両論を呼んだが、こうした女性たちの活躍を踏まえると、そのメッセージも的を得ていたのではないかと思わされる。
Written By Tim Peacock
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