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ソングライターの歴史:”Danny Boy”や”ティン・パン・アレイ”、”ブリル・ビルディング”から自作自演アーティストまで

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楽曲というものは、どこからでも生まれてくる。イギリスの高名な弁護士であるフレッド・ウェザリーは、亡くなるまでに約3,000曲の歌詞を書いたと推定されている。チャールズ・ディケンズやウィリアム・グラッドストンの知人でもあったウェザリーは、1897年のヴィクトリア女王在位60周年記念祭に招かれ、自作の歌を披露している。また自分の本につける挿絵を、当時無名の画家だったベアトリクス・ポッター(『ピーター・ラビット』の作者)に依頼することもあった。しかし彼の最も有名な歌は、あり得ないほどの偶然から生まれた。1899年、彼の弟のエドワードがアメリカに移住、そしてゴールド・ラッシュのさなか、その妻のマーガレットが、あるアイルランド移民が歌う陽気なメロディを耳にした。その移民は、1840年代の大飢饉を逃れてアメリカに移住していた。

その「The Londonderry Air (ロンドンデリーの歌)」という曲をマーガレットは譜面に書き起こし、イギリスにいる義兄フレッド・ウェザリーに送った。フレッドは送られてきた楽譜と、引き出しの中に眠っていた歌詞を組み合わせてみた。幸運にも、その歌詞はメロディとほぼぴったり合っていた。こうしてこの曲は「Danny Boy」というタイトルで1913年に出版され、過去100年間で最も有名な曲のひとつとなった。これを吹き込んだ歌手は、枚挙にいとまがない。例えばジュディ・ガーランド、ビング・クロスビー、ジョニー・キャッシュ、エルヴィス・プレスリーといった具合だ。オックスフォード大学の音楽学教授サー・ハーバート・パリーは、この曲を「この世に存在する最も完璧な曲のひとつ」と呼んでいる。しかしこれができあがったのは、まさに偶然としか言いようがないように思える。

Danny Boy

 

昔からソングライターたちは、曲作りが「創作」というよりも「神のお告げ」であるかのように語ってきた。つまり、神のお告げを受け取るかのように、空気の中に漂っている曲を拾い上げるというわけである。「曲を”作る”とはいうけれども、それはむしろ霊媒師みたいな感じなんだよ」とキース・リチャーズは語っている。「この世に存在するどの曲も、ただそのへんを漂っているような感じがする。ソングライターはアンテナなんだ。あとは、どれを拾うかの問題でしかないんだ」。

しかし、一部のソングライターは、ほかのソングライターよりもそんな風に漂っている曲を拾い上げることに明らかに長けているように思える。では、偉大なソングライターはどこが違うのだろう?

 

「この曲は人類がこれまでに作った中で最高の作品なんだ」

人類の歴史が初めて記されたころから、人間は歌を作ってきた。そして特に歌作りが上手な人たちは、それで生計を立ててきた。かのモーツァルトでさえ、今で言うところのソングライターのようなものだ。神聖ローマ帝国の皇帝ヨーゼフ二世の命を受け、室内楽の作曲家として曲を作っていたのだから。

20世紀が始まると無数のソングライター(その多くはフレッド・ウェザリーのような人たちだった)が現れ、道楽半分に言葉と音楽に手を出し、その中の一部は幸運に恵まれた。やがて、より頭の切れる職人たちが自分たちの道楽をビジネスに変える方法を編み出した。19世紀後半にアメリカで著作権法が改正されると、ソングライターと音楽出版業者は互いの利益のために協力するようになっていった。そして19世紀終わりには、大手音楽出版業者の大部分がニューヨーク五番街の西28丁目に集まってきた。この地区は、やがて”ティン・パン・アレイ (Tin Pan Alley)”として知られるようになる。その名前は、おそらくたくさんの安物ピアノの鳴る音がブリキのフライパン(ティン・パン)が路地(アレイ)で打ち鳴らされているように聞こえたことから来ているのだろう。

ティン・パン・アレイのビジネスは、次のようなかたちで動いていた。まず新進ソングライターが音楽出版業者のオフィスのドアを叩き、自分の曲を聞いてほしいと売り込みに来る。音楽出版業者は、気に入った曲があるとその曲の権利を即座に買い取るか、または印税の割合をソングライターと交渉する。また、音楽出版業者が自分の分け前を増やすため、作詞/作曲者として自らの名をクレジットに追加することもめずらしくはなかった。こうしたソングライターの多くは東欧からの移民だった。

その中のひとりが、ティン・パン・アレイの最も有名で、そして最大の成功を収めたソングライターとなった。彼は1888年にベラルーシでイスロエル・ベイリンとして生まれた。彼の一家がユダヤ人への迫害を逃れ、ニューヨークに移住したとき、イスロエルは5歳だった。家計を助けるため、彼は路上や酒場で大道芸を披露していた。18歳になると、彼は名前をアメリカ風に改名し、アーヴィング・バーリンと名乗るようになる。その時点で彼は既にいくつもの楽曲を出版していた。バーリンは101歳で亡くなったが、それまでのあいだに作った曲の数は1,000曲以上を数える。

バーリンは、そもそもは作詞家として活動していたが、やがて自分の歌詞に合う曲を自ら作曲するようになり、収入を増やしていった。ただし譜面の読み書きはずっとできないままだった。彼の音楽的な技量はかなり限られていたので、ピアノを弾くときは黒鍵だけに集中していた。それでもヒット曲が次々と生まれ、彼の仕事は自ずとブロードウェイや映画音楽にも広がっていった。彼の一番有名な曲は「White Christmas」である。これは、ある晩カリフォルニア州でホテルに宿泊していたときに徹夜で作られたという。翌朝、採譜係の秘書がホテルの部屋にやって来ると、彼はこう言った。「ペンを取って、この曲を採譜してくれ。これは私がこれまでに作った中で最高の曲だ。それだけじゃない。これは人類がこれまでに作った曲の中でも最高の作品なんだ」。

White Christmas (Remastered 1999)

 

楽曲が作られ、それが音楽出版業者の目に留まると、今度はその音楽出版業者が楽曲の宣伝を担当する者を雇い入れる。歌手やピアニストを楽譜店や劇場に派遣してその曲を演奏させ、曲への興味をかきたてるのである。つまるところ、19世紀末から20世紀初頭という時期、著作権収入というのはレコードではなく楽譜の売り上げによって生まれていた。こうした宣伝担当は、ソングライターであることも多かった。たとえばジョージ・ガーシュインもそのひとり。彼の代表作「Rhapsody In Blue」はクラシックとジャズを融合させた魅力的な作品だった。

その他のティン・パン・アレイの代表的なソングライターとしては、コール・ポーター、リチャード・ロジャース&オスカー・ハマースタイン、スコット・ジョプリン、ホーギー・カーマイケルなどが挙げられる。ティン・パン・アレイのソングライターの多くは、譜面として出版される曲だけでなく、その拠点からほど近いブロードウェイで上演される人気ミュージカルも手がけていた。やがて音楽を吹き込んだレコードの人気が高まり始め、音楽ファンも楽譜を買って自分で弾くのではなく、レコードを買って自宅のレコード・プレーヤーで再生するほうを好むようになる。そうした変化と歩調を合わせ、ニューヨークのソングライターの中心地もティン・パン・アレイからブロードウェイ49丁目のオフィス・ブロックに移っていく。

 

ブリル・ビルディングに集まったすばらしいソングライターたち

このオフィス・ブロックには11階建ての建物があり、そこは”ブリル・ビルディング (Brill Building)”と呼ばれていた。この建物が完成したのは大恐慌のさなかで、タイミングはまさに最悪だった。アメリカの景気はどん底で、豪勢な装飾のついた建物とは裏腹に、ここに入居するのはしがない音楽出版業者やソングライターばかりだった。やがてビッグ・バンドの流行が過ぎ、ポップ・ミュージックのシングルが売れるようになると、業界誌のポップ・チャートはブリル・ビルディングを拠点としたソングライター・チームの作品で埋め尽くされていった。

そうしたチームとしては、バート・バカラック&ハル・デヴィッド、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キング、マイク・リーバー&ジェリー・ストーラー、エリー・グリニッチ&ジェフ・バリー、ドク・ポーマス&モート・シューマンなどが挙げられる。またブリル・ビルディングには、ポール・サイモン、フィル・スペクター、ニール・ダイアモンド、ニール・セダカといった人たちも出入りしていた。こうしたソングライターたちが何年にも亘ってアメリカのヒット・チャートを独占し、エルヴィス・プレスリー、ザ・ロネッツ、ボビー・ダーリン、ザ・ドリフターズ、ディオンヌ・ワーウィック、ジーン・ピットニーといったアーティスト/グループにその作品を提供していった。

もちろん、すべての曲がホテルのスイート・ルーム、オフィス・ビル、レコーディング・スタジオで作られていたわけではない。実に魅力的な曲の多くは、悲惨なほど貧しい人たちによって作られていた。特にアメリカの深南部(ディープ・サウス)からは、数多くの名曲が生まれている。

ブルース・ミュージシャンやゴスペル・シンガーたちは、多くの場合、自分たちのレパートリーを自ら作っていた。そうしたソングライターの代表例がレッド・ベリーである。彼は、タイタニック沈没を歌った昔の曲をヒントに新たな曲を作り上げていった一方で、殺人などの罪で何度も刑務所にも入れられている。しかしながら今では殺人事件の犯人としてではなく、数々の名曲の作者として記憶されている。彼の代表曲としては、「Goodnight Irene」「Cotton Fields」「Rock Island Line」、そして「Mystery Train」などが挙げられる。「Mystery Train」は、やはり南部の貧困層出身だったエルヴィス・プレスリーに、人気アーティストになるきっかけを与えている。

こうした音源を数多く録音し、残していたのが、民俗音楽の研究家だったジョン・ローマックスとアラン・ローマックスである。このローマックス親子がいなければ、たくさんの曲がとっくの昔に忘れ去られていたことだろう。ふたりは、数多くの偉大なソングライターの曲をテープに記録していた。そうしたソングライターたち、たとえばジェリー・ロール・モートン、ピート・シーガー、ウッディ・ガスリーは、第二次世界大戦中や同大戦後に生まれた若きミュージシャンたちに多大なる影響を及ぼすことになった。

 

「レコードを作り、ラジオで自分の曲を流してもらうということは、すなわちそれがたくさんの聴き手に届くということを意味していました」(ボブ・ディラン)

アーヴィング・バーリンの両親と同じように、ジグマン・ジンママンとアナ・ジンママンもユダヤ人の夫婦であり、やはり帝政ロシアを逃れてアメリカに渡っていた。ふたりの孫のロバート・アレン・ジンママン、やがてボブ・ディランの名前で世界中にその存在を知られるようになった人物は、ポップ・ソングの曲作りを優れた芸術の域にまで高めた。2016年、ディランはノーベル文学賞を受賞した初めてのソングライターとなった。このノーベル賞の受賞スピーチ用の文章で、彼はこう記している。「10代のころに曲作りを始めたときも、自分の能力について多少の名声を獲得し始めたときも、私が曲を作るときの野望といえば、それはせいぜい、なんとかしてレコードを作り、ラジオで自分の曲を流してもらうことくらいのものでした。レコードを作り、ラジオで自分の曲を流してもらうということは、すなわち、それがたくさんの聴き手に届くということを意味しました。そして、そのことによって、自分が始めた活動をそのまま続けていけるかもしれないといと思うことができたのです」。

デビュー・アルバムとなった『Bob Dylan』で、ディランは憧れのソングライター、ウディ・ガスリーに敬意を表す歌を作った(ガスリーの「This Land Is Our Land (我が祖国)」は、もうひとつのアメリカ国歌といってもいい楽曲である)。ガスリーに捧げられたその曲「Song To Woody (ウディに捧げる歌)」では、レッド・ベリーやブルース・ミュージシャンのサニー・テリーといったガスリー以外の偉大なソングライターにも敬意が払われている。しかし、こうしたフォーク・ミュージシャンの伝統に加えて、ディランはブリル・ビルディングから生まれたプロト・ロックン・ロールの音楽からも影響を受けていた。ブルースとフォークに加え、ロックン・ロールを聴きながら育ったディランは、エルストン・ガンという名でボビー・ヴィーのバンドに参加し、ブリル・ビルディングのソングライターたちがヴィーのために書き下ろしたヒット曲の多くを演奏していた。

 

1960年代に起こった革命的な変化

このように、アメリカのポピュラー・ミュージックはさまざまな伝統が合わさることで作り出されてきた。そして、そうした伝統の融合が、1960年代にイギリスとアメリカで革命を引き起こすことになった。言うまでもなく、ほかのすべての国と同じように、イギリスにも、昔からかなり大勢のソングライターが存在した。しかしながら、全体としてみれば、イギリスのソングライターの影響力は国内に留まっており、イギリス国外にさほど大きな影響を及ぼしていなかった。そうした状況を一変させたのが、1962年後半に登場したザ・ビートルズである。自分たちで曲を作るバンドというのは決して前例がなかったわけではない。しかしジョン・レノンポール・マッカートニーというふたりの優れたソングライターがいるバンド(数年後には、さらに3人目のソングライターであるジョージ・ハリソンもまた才能を開花させる)というのは、それ自体まさに革命的だった。レノンとマッカートニーは10代の頃からコンビやソロで曲作りを続けていた。 実際、ふたりが最初に仲良くなったのは、どちらもソングライティングにのめり込んでいたという共通点があったからだった。ビートルズの初期のレコードには、ブリル・ビルディングで生まれた楽曲やそのほかのアメリカ産のヒット曲(たとえばデトロイトのタムラ・モータウンのソングライターたちが作った楽曲)のカヴァー・ヴァージョンが含まれていた。とはいえ、世界中に衝撃を与えたのはビートルズの面々が自らがソングライティングを手がけた楽曲だったのである。

She Loves You (Mono / Remastered)

 

まもなく、誰もがビートルズのメンバーやボブ・ディランが書いた楽曲を欲しがるようになった。実際、ニーナ・シモン、ジョニー・キャッシュ、フランク・シナトラ、ザ・バーズ、ジ・アニマルズ、マンフレッド・マンなど、たくさんのスター歌手/グループがディランの作品(あるいはそのレパートリー)のカヴァー・ヴァージョンをヒット・チャートに送り込んでいる。また、ジョン・レノンとポール・マッカートニーが共作した楽曲も、エラ・フィッツジェラルド、ピーター・セラーズら無数のアーティストによって取り上げられている。さらにビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタス、シラ・ブラック、ローリング・ストーンズは、レノンとマッカートニーの楽曲をレコーディングしたことを契機に人気を獲得し、スターにのし上がっていった。

一方、「自分で曲を作らない」ということに関しては意見が分かれた。フランク・シナトラやエルヴィス・プレスリーといったザ・ビートルズ登場以前から人気を誇った大スターたちは、それまでと同様、世界トップ・クラスのさまざまなソングライターから楽曲の提供を受け、その中から自身の吹き込むべき楽曲を選んでいった。しかし評論家たちは、自分で曲を作らないアーティストに対して、次第に批判的になっていく。ローリング・ストーンズの精力的な若手マネージャー、アンドルー・”ルーグ”・オールダムは、ストーンズの面々にこんな風に助言している「自分でレパートリーを作らないでいれば、大きな稼ぎをみすみす逃すことになる」と。

彼はメンバーに自らソングライティングを手がけるよう、散々せっついたが、いい結果は出なかった。そこでオールダムは、ミック・ジャガーとキース・リチャーズに狙いを定め、作詞/作曲を無理強いするという手段に出た。当時を振り返り、オールダムは自らの回想録の中で、以下のように述べている。「ある晩、私はミックとキースに、うちの母の家まで食事に行こうと誘った。そうしてふたりを部屋に閉じ込めた。戻ってくるまでに曲を作ること。もし食い物が欲しいなら、楽曲を仕上げなければいけない」。

キース・リチャーズはこの出来事についてのちに以下のように回想している。「ショッキングな経験だった。俺の仕事はギタリストだった。ソングライターっていうのは、鍛冶屋やエンジニアと同じくらい自分とは縁遠い仕事だと思っていた」。しかし、そうした経験を経て生まれたのが「As Tears Go By (涙あふれて)」だった。

As Tears Go By (Mono Version)

 

振り返ってみると、ポップ・ミュージックは、1960年代が進むにつれてふたつのまったく異なる流れに分れていったように見える。ひとつ目の流れは”信頼のおける”アーティスト/グループで、たとえばザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ザ・ビーチ・ボーイズザ・フー、ジミ・ヘンドリクス、サイモン&ガーファンクルがこれに当たる。彼らは真の意味での”アーティスト”であり、自分たちで楽曲を作り、その曲を使って画期的なレコードを生み出していった。そして、もうひとつの流れは伝統的なポップ・スターで、アイク&ティナ・ターナー、ダスティ・スプリングフィールド、クリフ・リチャード、ソニー&シェールといったアーティスト/グループがこれに該当する。彼らは音楽出版社の管理する楽曲カタログから曲を選び、ヒット作を出していった。もちろん、現実はそれほど単純ではない。オリジナル曲とカヴァー・ヴァージョンの双方をレコーディングすることで、作品を仕上げたアーティストもいくらもいた。オーティス・レディング、アレサ・フランクリンもそんなアーティストのひとりだったし、モータウン・レーベルに所属する歌い手たちの多くもまた同様だった。

こうした流れは1970年代以降も続いた。エルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイ、ボブ・マーリー、マール・ハガード、ジョニ・ミッチェル、ブルース・スプリングスティーンといった偉大なソングライターたちは自らが書き上げたオリジナル・ナンバーで世界的なヒットを放ち、人気を獲得した。一方、ほかの無数のポップ・スターは自分たちに相応しい楽曲を探し続けた。一見すると、1970年代はシンガー・ソングライターの全盛期だったようにも思える。しかしこの時代に最大の成功を収めたソングライターはベニー・アンダーソンとビョルン・ウルヴァースのコンビだった。このふたりを擁したグループ、ABBAはイギリスでヒット・チャートの首位を8曲連続で獲得するという空前の記録を打ち立てている。

Abba – Thank You For The Music (Official Video)

 

レコーディング・スタジオにおける曲作り

過去50年間で特に偉大なソングライターを挙げてほしい。そんな風に言われると、たいていの人は自分で曲を作るアーティストをいろいろ列挙するだろう。同じ人に、そのさらに前の50年間で特に偉大なソングライターを挙げてほしいと頼むと、今度はティン・パン・アレイやブリル・ビルディングのソングライターたちの名前が挙がるだろう。

しかし今では、状況がさらに混沌としてきている。1960年代の革命以来、ビートルズに倣って、単に自分で曲を作るだけでなくスタジオで何もないところから楽曲を構築していくアーティストがどんどん増えていった。1970年代には、こうした手法がスティーヴィー・ワンダー、クラフトワーク、マイケル・ジャクソンのような革新的なアーティストにとって欠かせないものとなった。即興的なアイデアを重ねていくことで、楽曲がレコーディングの過程で形になっていき、編集の段階で洗練されたものに仕上げられていくのである。

創作過程に貢献する演奏者や技術者が増えてくると、実際に曲を作ったのが誰なのかを定義するのが難しくなっていった。あのキャッチーなフレーズを思いついたホーン・プレヤーは、曲作りの過程に加わっていたのだろうか? このミュージシャンもソングライターとしてクレジットすべきなのだろうか?これはバリー・マニロウの「Studio Musician」という楽曲の歌詞に出てくる問いかけだ。(マニロウの別のヒット・シングル「I Write The Songs (歌の贈り物)」もこの話題を扱っている。そのタイトルからすると、これはマニロウ本人が作った曲のように思われるが、実のところ本当のソングライターはビーチ・ボーイズのブルース・ジョンストンだった)。

2016年のビヨンセのアルバム『Lemonade』では、作者クレジットに多数の名前が並んでいる。そこにはスタジオ内外で活動しているソングライターたちが含まれているが、それだけではない。シングル「Hold Up」 のような曲の場合、古い曲のサンプルも使われているため、この曲だけで15人の名前が作者としてクレジットされている。その中には、ブリル・ビルディングのパイオニアであるドク・ポーマス&モート・シューマンの名もある。

しかし、時を経ても変わらないことがひとつある。それは、優れた音源を作るには優れた楽曲が不可欠だということである。予算さえあれば、派手なアレンジや装飾音はいくらでも加えることができる。しかしながらそれでも楽曲はやはり必要不可欠だ。曲がなければ、お話にならない。1980年代後半、業界の大物ナイジェル・マーティン=スミスはゲイリー・バーロウという名の10代のシンガーソングライターを紹介された。マーティン=スミスは、この才気あふれる若者から何かすばらしいものが生まれるだろうと考えた。そうしてバーロウの曲を歌うグループ、テイク・ザットを生み出した。テイク・ザットは「A Million Love Songs」「Pray」「Back For Good」などのオリジナル・ヒット曲を出し、イギリスのヒット・チャートの歴史にあって最も成功したグループのひとつとなった。(これらのヒット曲は、2018年のアルバム『Odyssey』で再録音されている)。

Take That – Pray (Odyssey Version)

 

それでも、謎は残ったままだ。曲というのはどこから生まれてくるのだろう?チャック・ベリーは自伝の中でこんな風に語っている。「『チャック、あの曲のアイデアはどこから出てきたんですか?」 こんな質問を今までに何度も受けてきた。そう尋ねられても、すぐには答えられない…。曲作りというのは、妙な仕事になることもあるものなんだ」。

Written By Paul McGuinness



 

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