News
ゲンスブールのコラボレーターであり、ユーロビジョンの優勝者、フランス・ギャルが70歳で死去
フランスの歌手、そしてフランク・シナトラの「My Way」として世界的なヒット曲となったオリジナル・ヴァージョンの曲「Comme d’ Habitude(邦題: いつものように)」にひらめきを与えたセルジュ・ゲンスブールのコラボレーターでもあったフランス・ギャルが2018年1月6日、パリにて70歳で亡くなった。
今は亡き歌手への追悼はすでに続々と押し寄せている。彼女が癌の宣告を受けてから2年、感染症による死亡だったことを知り、フランス大統領のエマニュエル・マクロンはこのようにツイートした。「フランスにいる誰もが知っている曲を彼女は残してくれた。そして他の人たちに対して献身的だった人生も」。フランスの文化大臣であるフランソワーズ・ニセンもフランス・ギャルを「フレンチソングの永遠のアイコン」と表現した。
フランス・ギャルは1947年に音楽一家に生まれ、彼女が16歳のときに最初のヒット曲「Don’t Be So Stupid(邦題: 恋のお返し)」をレコーディングした。この頃には数枚のアルバムをリリースし、ミッシェル・アルノーやジュリエット・グレコといった歌手に曲を書いていたセルジュ・ゲンスブールは、フランス・ギャルのために曲を書いて欲しいと彼女の出版者、デニス・ブルジョワから依頼を受けた。セルジュ・ゲンスブールの「N’écoute pas les idoles(英題:Don’t Listen To The Idols’ / 邦題:アイドルばかり聞かないで)」は結果としてフランス・ギャルのセカンド・シングルとなり、1964年3月にフランスのチャートに登場し、3週間、首位の座を守り抜いた。
パリで生まれながらも、フランス・ギャルはルクセンブルク代表としてセルジュ・ゲンスブールの曲「Poupée de Cire, Poupée de Son(邦題: 夢みるシャンソン人形)」と共に、イギリスのキャシー・カービーを破り、ナポリのユーロビジョン・ソング・コンテストで優勝をつかんだ。
フランス・ギャルの勝利はもちろん、あらゆる国の言語でこの曲がカヴァーされたことで、ヨーロッパやそれ以外の国で彼女に国際的な名声をもたらした。「Poupée de Cire, Poupée de Son」はユーロビジョン・ソング・コンテストで優勝した最初のポップソングとして評価され、それからの数年間、コンテストに応募される曲の音のスタイルにも大きな影響を与えた。フランス・ギャルへの追悼はユーロビジョンのウェブサイトにも投稿されており、公式にユーロビジョンは “ユーロビジョン・ファミリー全体を代表して” ツイッター上で悲しみの気持ちを表した。
露出度の高いビキニとキャンディを舐めている歌手のプロモーション・イメージで、フランス・ギャルが歌うセルジュ・ゲンスブールの挑発的な曲「Les Sucettes’(英題:Lollipops / 邦題: アニーとボンボン)」が大ヒットした1966年、彼とのコラボレーションは彼女を論争に追い込んだ。この件について後年、フランス・ギャルは彼女が歌詞の二重の意味を理解するには若すぎたと述べている。
「My Way(邦題: マイ・ウェイ)」の元となった曲は最初、フランス・ギャルとの恋愛の終わりを陰鬱に反映したシンガー・ソングライターのクロード・フランソワによる「Comme d’ Habitude(邦題: いつものように)」として1968年にリリースされた。フランク・シナトラ・ヴァージョンとは異なり、オリジナル・ヴァージョンでは人生ではなく最後に愛が低下していった。「もうすぐ見放そうとしている恋人も誰もいない家に戻る。そして いつもどおりこの大きな空っぽのベッドで 孤独に眠りにつくんだ 」と。
「Comme d’ Habitude(邦題: いつものように)」の著作権は、パリに滞在中にこの曲をたまたま聞いたシンガー・ソングライターのポール・アンカによって買われた。彼は1969年にリリースしたフランク・シナトラのヴァージョンのために、英語の歌詞を終末期で高慢な告別の詩に完全に書き換えた。
フランス・ギャルにはもう一曲、1987年のアルバム『Babacar』から世界的ヒットとなった曲があった。44歳という若さで1992年に亡くなった彼女の夫であり、音楽パートナーだったミシェル・ベルジェによる作詞作曲のエラ・フィッツジェラルドに捧げた「Ella, elle l’a(英題:Ella’s Got It /邦題:エラ・エ・ラ [エラ・フィッツジェラルドに捧げる])」である。『Babacar』のリリースに続いて、フランス・ギャルは新しいショーを始めた。パリのル・ゼニス競技場を皮切りにヨーロッパ中をツアーした上演は成功し、ライヴ・アルバム『Le Tour de France ’88』がリリースされた。
1996年、フランス・ギャルは彼女のアルバム『France』からの曲「Plus haut(邦題:もっと高く)」でミュージック・クリップを制作したいとジャン=リュック・ゴダールに依頼。ジャン=ゴダールはスイスのロール市にある彼の住居近くで、「Plus Oh!(プリュ・オー!)」と名付けた夢のような魅力あふれる映像を監督した。その一年後のロサンゼルスで、フランス・ギャルは彼女の最後となるスタジオアルバム『France』を1996年にリリースした。その同じ年、彼女はオランピア劇場でヘッドライナーを務めている。翌1997年に彼女は引退を発表すると共に、フランスのTV番組のためにアンプラグド・ショーを行い、これを彼女のラスト・アルバムとしてレコーディングした。
彼女の長女ポーリーヌが嚢胞性線維症で亡くなったことを機に、フランス・ギャルは1997年をもってレコーディングやパフォーマンスから引退。彼女と彼女の夫の曲に基づいて行われた2015年のカムバック・パフォーマンス・ショーまで、ギャルは主に人道的な活動に身を捧げた。
Written by Tim Peacock
- サム・フィリップスが開業したサン・スタジオ誕生の歴史
- 2017年亡くなったミュージシャン、音楽関係者たち
- 回収/発売禁止ながらUK1位、ジェーン・バーキン&セルジュ・ゲンスブール「Je T’Aime… Moi Non Plus」
- ゲンスブールが”セクシーな少女に夢中になる年老いた男性”を描いた『くたばれキャベツ野郎』
1 Comment