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なぜブルースには変名/偽名が多いのか:ブルースの芸名に隠された秘密

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ミュージシャン達が不満を漏らす違法なダウンロードが登場する以前のこと、ブルース・アーティストの先駆者達はもっと困難な問題に直面していた。100万枚売れたシングルをレコーディングしてもその報酬として得られるのは僅か$100。おまけに契約上、その期間は他のレコード会社とのレコーディングが禁じられている状況を、ちょっと想像して欲しい。

一握りのブルースの偉人達が偽名を使って数多くのレコーディングに挑んだのは、簡単に言えばそういう理由があったからだ。自分のレーベルから公平な扱いを受けるのが今よりも各段に難しかった時代、一連のアーティストたちは、ブルースのニックネームを持っていた方が、少なくとも契約と上手く立ち回れたのだ。

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ニックネームの王様

この方策の立役者と言えばジョン・リー・フッカーであり、その10年に及ぶキャリアは5枚組CDボックス・セット『King Of The Boogie』で堪能することが出来る。彼はブルース史上最も多くの作品を残したアーティストのひとりで、それが全盛期を迎えた頃、ニックネームでの活動が唯一の収入源だったと思われる。当時ブルースマンは固定給が珍しいことではなく、従ってジョン・リー・フッカーの「Boogie Chillen’」(1949年)とその2年後の「I’m In The Mood」のようにレコードが最終的に100万枚売れても、アーティストがその莫大な利益を手にすることはなかった。

John Lee Hooker – "Boogie Chillun"

幾分良い面として挙げられるのは、この成功後に彼が起用した数多くのニックネームの内のふたつ、ジョン・リー・ブッカーとジョン・リー・クッカーのように、すぐに分かるようなものでも、彼を追及するような一流の法務部はその当時存在しなかったことだ。

単純に他のブルースマンの名を拝借したこともあり、ジョン・リー・フッカーのシングル数枚はジョニー・ウィリアムズとして発売された。少なくとも6レーベルの為にレコーディングを行なった彼が使用したその他の名は、プア・ジョン、テキサス・スリム、ブギー・マン、リトル・ポーク・ショップス、それからあとはもう神のみぞ知るだ。

メジャー・アーティストのカタログ全てが引っ張り出され、パッケージし直されていた時代に於いて、ジョン・リー・フッカーが1955年にヴィー・ジェイと契約を交わす以前に(そして恐らくはその後も)レコーディングした数多くの曲を正確に追うことが出来た者はいない。しかし著名な曲の幾つかが別名によって発表されているのは知られている。非常に原始的な「Mad Man Blues」と不気味な「Graveyard Blues」は、それぞれチェス・レコードとゴーン・レコードからリリースされた“ジョン・リー・ブッカー”のシングルだった。

Mad Man Blues

レコード・レーベルを欺く

ジュニア・ウェルズの『Hoodoo Man Blues』(1965年)は、幾つかの理由から重要な作品とされている。この曲は初のシカゴ・ブルース・アルバムのひとつとして、未来のロッカー達にインスピレーションを与え、輝かしいパートナーシップの始まりとなった。またバディ・ガイ(当時はチェス、一方のジュニア・ウェルズはデルマークと契約していた)が“フレンドリー・チャップ”という、過去最高におかしなブルースのニックネームのひとつで登場する。彼等のレーベルは騙されたかも知れないが、他の人達は騙されなかった。

ジュニア・ウェルズとバディ・ガイとリズム・セクションのみがフィーチャーされたアルバムのタイトル・トラックには、バディ・ガイがレズリーでリフを刻み、ジュニア・ウェルズがハーモニカで物悲しい音色を出す、独創性に富んだ瞬間が収録されており、「Hey Lawdy Mama」はこの後まもなくクリームによってカヴァーされている。

Hey Lawdy Mama

バディ・ガイを師と仰ぐエリック・クラプトンもまた、ペンネームを使った経験がある。過去最高に不思議なアルバム、TDFの『Retail Therapy』(プロデューサー/プログラマーのサイモン・クライミ―と取り組んだテクノのサイドトラック)では、“x-サンプル”という名を使っていた。

T.D.F. RipStop (music video) Eric Clapton / Simon Climie

 

契約以外の理由

皆が契約上の理由からペンネームを使っていたわけではない。特定のスタイルのレコーディングで利用していた者もいた。テキサス出身ギタリストの草分け的存在のブラインド・レモン・ジェファーソンは、神聖なものと世俗的なものの両者をカヴァー、後者は彼のトレードマーク・ソング「Black Snake Moan」が非常に印象的だ。

Black Snake Moan

しかし彼が1925年末にレコーディングした最初の2曲は、どちらもゴスペル・ソングで、ディーコンL.J.ベイツなる人物を名乗っている(後にハンク・ウィリアムスが、ルーク・ザ・ドリフタ―なる名でスピリチュアルなセリフをレコーディングしたように)。ボブ・ディランがカヴァーしたブラインド・レモン・ジェファーソンのスタンダード・ナンバー「See That My Grave Is Kept Clean」もまた、ディーコンL.J.ベイツの名の元で発表された。

See That My Grave Is Kept Clean

初期のブルースマンであり人権活動家のジョシュ・ホワイトは、同じ理由でペンネームを使った。彼の世俗的な作品はわいせつで(オールマン・ブラザーズ・バンドのファンなら「Jelly Jelly」をご存じだろう)、神聖な曲は敬虔なものだった。と言うわけで20代のレコーディングでは”ジョシュア・ホワイト、ザ・シンギング・クリスチャン”として活動し、世俗的な曲を歌う時にはパインウッド・トムという芸名を使った。そして50代半ば、社会的不公正に対して声を挙げたことでブラックリストに載った頃には、彼はどんな場合でも本名を堂々と使っていた。

マディ・ウォーターズ、B.B.キング、ハウリン・ウルフ、ライトニン・ホプキンスといったブルースマンの芸名は、今では非常に崇拝されている為に別名と見なすには少々無理があるだろう。アーティスト達がレコーディング・キャリアをスタートさせた頃に使い始め、そうして伝説となっていった名前だ。しかし決断するまでに時間を要したブルースの名人が、少なくともひとりはいた。テキサス出身のギタリスト、T・ボーン・ウォーカーはオーク・クリフ・T・ボーンとして数多くの曲をリリース。これは1929年にコロンビアと契約を交わした時にたまたま使用した名だった。オーク・クリフは彼の当時の住所で、たびたび真似られている“T・ボーン”はミドル・ネーム“シーボード”に由来する。彼は1947年に、傑作「Stormy Monday」をリリースする前にどうやらオーク・クリフから引っ越したようだ。

 

勝手に名乗ったII世

このどのケースでも、ひとりのアーティストがふたつ以上の名を使用しているが、その逆だった有名なケースがひとつある。サニー・ボーイ・ウィリアムソンI世(ジョン・リー・カーティス・ウィリアムソン)は元々シカゴ出身のブルース・ハープの先駆者で1948年に亡くなったが、彼になろうとしたアレック・フォードなる人物がこの名前を無断で拝借し、本人として押し通そうとし、結局サニー・ボーイ・ウィリアムソンII世で活動をし始めた。

意外な展開だったのは、このどちらのサニー・ボーイも同じようにしっかりとしたレガシーを残したことだ。サニー・ボーイII世はシカゴ・ブルースにしっかりした足跡を残し、頻繁にカヴァーされることになる「Good Morning Little School Girl」を作曲、一方のサニー・ボーイ・ウィリアムソンII世はブルース・ロックの創造に貢献し、若きヤードバーズとアニマルズとライヴ・レコーディングを行なっている。

Good Morning Little School Girl (Remastered)

 

歴史を聞く

歴史の中でその記録が埋もれてしまったアーティストもいる。聞くところによると、カンザス・ジョー・マッコイはミシシッピ・デルタ出身の凄腕ギタリストであり、シカゴへの移住後は著名なセッション・マンだった。

このギタリストは数多くの初期ブルース及びジャグ・バンドのセッションに、ヒルビリー・プロウボーイ、マッド・ドーバー・ジョー、ハムフット・ハム、ザ・ジョージア・パイン・ボーイ、ハレルーヤ・ジョー等々さまざまなブルースの芸名で(これらは全てカンザス・ジョー・マッコイのこと)クレジットされている。そしてその大部分はひとつのレーベル、デッカからリリースされており、彼はここのハウス・バンドの一員だったので、名前を変えていたのは、単なる気まぐれによるものだったのかも知れない。

しかしながら、彼の伝説の大部分は、1930年から組んでいた当時の妻メンフィス・ミニとの作品で、その代表作は「When The Levee Breaks」のオリジナル・ヴァージョンだ。ふたりの離婚後、カンザス・ジョー・マッコイはザ・ハーレム・ハムファッツを結成し、「The Weed-Smoker’s Dream」というナンバーでヒップスター達を讃えた。その後カンザス・ジョー・マッコイはこれをよりコマーシャルな形に書き換え「Why Don’t You Do Right」として発表し、ペギー・リーがベニー・グッドマン・オーケストラと共演したヴァージョンは彼女の初ヒット曲となった。

When The Levee Breaks

最後に、キャサリン・“キティ”・ブラウンにはついてあまり分からず残念だ。彼女が1924年に発表した曲「I Wanna Jazz Some More」はジャズへの強い思いを歌ったブルース・ソングである(あるオンラインの歴史解説ではこの“ジャズ”をセックスの遠回しな言い方だとした誤った解釈をしているが、彼女は“あなたの音楽が本当に大好き、もっとジャズがしたいの”とはっきり歌っている)。

彼女が何者だったのか、いずれにせよ、ベッシー・ウィリアムズ(この名前を使用するブルース・ウーマンは少なくともあとひとり存在する)等、幾つかのブルースの芸名でレコーディングを行なっている。僅かな数の曲しかなく、全ての名を説明するだけの経歴も分からない。今あるものだけで満足しなければならない時もある、と言うことなのだろう。

I Wanna Jazz Some More

Written By Brett Milano



 

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