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カナダを代表するバンド、トラジカリー・ヒップのフロントマンのゴード・ダウニーが53歳で死去
カナダのオルタナティヴ・ロック・バンド、トラジカリー・ヒップのリード・シンガー、ゴード・ダウニーが10月17日に亡くなった。享年53歳。死因は末期の脳腫瘍だった。
「昨晩、ゴードは愛する子供や家族に見守られながら、静かに息を引き取りました」と家族は声明で発表した。「ゴードはこの日が来ることをわかっていましたが、残された貴重な時間をいつものように音楽を作り、思い出を作り、家族や友人に対して充実した人生を過ごせたことの深い感謝の気持ちを伝えて過ごしました。多くの場合は唇にキスを添えて」
ゴート・ダウニーは2015年12月に脳腫瘍と診断されたが2016年5月まで公表しなかった。同年の夏、トラジカリー・ヒップはニュー・アルバム『Man Machine Poem』をリリースし、長期のカナダ・ツアーを行い、感動的な最終公演を地元のオンタリオ州のキングストンにあるロジャース・Kロック・センターで迎えた。
このコンサートは生放送され、カナダ中でヴューイング・パーティーが開かれた。ジャスティン・トルドー首相も鑑賞し、トロント警察はそのイベントの重要さについて「世界へ、カナダは今夜20:30から休みますのでご了承ください。#TragicallyHipデーをお過ごし下さい」とツイートするほどだった。
トラジカリー・ヒップは30年以上活躍し、その間に14枚のスタジオ・アルバムをリリースした。その大半がカナダのアルバム・チャートのトップを飾り、のちにプラチナ(最初の3枚のLPはダイヤモンド認定)を記録した。またジュノ・アワードを16回受賞し、その受賞回数はバンドとしては最多、アーティストとしても歴代4位であり、最後の2つのアワードは4月に受賞した『Man Machine Poem』で最優秀グループ賞、最優秀ロック・アルバム賞である。
しかし、バンドの最大の功績はカナダの文化的な基準を超えて、カナダという国のアイデンティティの核をなす存在となったことだ。2013年、バンドは切手のデザインにもなり、カナダで最も高い栄誉のひとつカナダ勲章を授与された。
最後のコンサートの際に、同じくカナダ出身のバンド、ブロークン・ソーシャル・シーンのケヴィン・ドリューは、トラジカリー・ヒップの影響についてニューヨーク・タイムズ紙にこうコメントしている。「カナダはまだ国としての歴史を完全に受け入れきっていないんだ。世界で最もうるさいお隣さんもいる中で、何が僕たちをカナダ人にさせるのかをまだ我々も探っている。そんな中、トラジカリー・ヒップはカナダという国を救ってくれた。ゴードの歌や詩は人々に手を差し伸べ、ゆっくりと自分たちの存在に意味を見出し始めたんだ」。
ゴード・ダウニーは1984年に子供の頃からの友人だったボビー・ベイカー、ポール・ラングロワ、ゴード・シンクレアとジョニー・フェイとともにトラジカリー・ヒップを結成。80年代はカナダ中をツアーし、当時のMCAの社長だったブルース・ディキンソン(*アイアン・メイデンのメンバーと同姓同名)がトロントのライヴを見たことがきっかけでレコード契約を結ぶ。
1987年にセルフ・タイトルのデビューEPをリリースし、続いて1989年に初のLP『Up To Here』がリリースされた。1990年にカナダのグラミー賞であるジュノ・アワードで最も有望な新人に送られるMost Promising Group of the Yearを受賞した。
カナダでの人気が広がるにつれ、トラジカリー・ヒップはオルタナティヴ・ロック全盛だった90年代に、アメリカでも人気になるように思えた。バンドのアメリカでの最大の瞬間は、1995年に『Day For Night』が3枚連続カナダでNo.1アルバムとなった後に『Saturday Night Live』に出演した時だった。同じくカナダのオンタリオ州キングストン出身のダン・エイクロイドのおかげで出演が実現し、ジョン・グッドマンがその回の司会だったものの、ダン・エイクロイドがバンド紹介を行ったのだ。
バンド以外での活動として、ゴード・ダウニーはソロ・アルバムを5枚リリースしている。初のソロ・アルバム『Coke Machine Glow』は2001年に発表、さらにバック65、ファックド・アップ、ダラス・グリーン、アレクシスオンファイアやザ・セーディースなど数々のアーティストのコラボレーションも行った。また、社会活動も積極的に行い、環境問題やカナダの原住民のコミュニティの権利の剥奪などに着目した。トラジカリー・ヒップは2005年にカナダの音楽殿堂入りを果たしている。
Written by Tim Peacock