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『Sgt Pepper』以降、70年代~10年代まで10年ごとの代表アルバムとは?
ザ・ビートルズの画期的な『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』が今年50週年を迎え、祝賀と議論の中でこの作品が音楽の歴史にどれほどの影響を与えたのかが語られている。ザ・ビートルズの他の作品を好む者でさえも『Sgt Pepper』がサウンドと文化の両方に広範囲に渡る影響を与えたことを認めている。発売後、音楽界に大改革をもたらした『Sgt Pepper』と似た現象は約10年ごとに起こっており、制作の方法、スタイル、もしくは文化的な影響が何度も変わってきた。音楽的な流行りは本来10年ごとの年代に付着する訳ではないが、それぞれの変わっていく時代精神を特定する手助けとなってくれる。音楽は多くの場合、より大きな文化的変化のきっかけとなっている。その例として『Sgt Pepper』以降に発売された以下の作品をご紹介。
クイーン:『A Night At The Opera(邦題:オペラ座の夜)』 (70年代)
70年代後半にはディスコ音楽がチャートを支配していたが、70年代はどの年代よりも音楽が多様であった10年間であり、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』が発売されていなかったらその真の音楽のるつぼは存在しなかっただろう。そして、1975年に発売されたクイーンの突破口となった最高傑作『A Night At The Opera』はその多様性を代表する作品と言えるだろう。
『A Night At The Opera』の発売は1975年で、『Sgt Pepper』のリリースから10年もたっていなかったが、クイーンはその先例に倣い、リハーサルに同じスタジオを使い、メンバー全員が協力して曲を書き上げた。『A Night At The Opera』は『Sgt Pepper』の時代の4トラックをはるかに越える24に拡大したマルチ・トラック・レコーディングの技術を論理的かつ極端にまで使いこなし、ステレオ・サウンドの持つ能力を利用し、細部までこだわった作曲を行った。後に、ブライアン・メイは、このアルバムを自分たちの『Sgt Pepper』と述べている。マルクス兄弟の映画のタイトルから名づけられたように、『A Night At The Opera』は、度を越えるほどたくみに制作され、オペラの要素を抒情詩的なロックに取り入れている。
クイーンはこの新しい試みをすぐに試したくてたまらなくなると同時に、世界中のオーディエンスに届くような大きなヒットが必要だと考えていた。そこでロック史上最も野心的なロック・ソング「Bohemian Rhapsody」を収録。ザ。ビートルズの「A Day In The Life」のように、クイーンの疑似オペラのような多重録音のパートはプロダクションが成し遂げたことにおいても、その恒久的な文化的伝説においても革新的なものであった。完璧な技術、統制の取れたメロディを持つこの曲は6分近くに及ぶ傑作であり、その輝きは今も失われてはいない。
しかし、アルバムは「Bohemian Rhapsody」だけではない。全体を通じて聴くと、すばらしい多様性を持った楽曲の集まりであることがわかる。フレディ・マーキュリー作曲の「Lazing On A Sunday Afternoon(邦題:うつろな日曜日)」と「Seaside Rendezvous」は『Sgt Pepper』の「Being For The Benefit Of Mr Kite!」のようなヴォードヴィル精神をとらえており、一方で、ブライアン・メイ作曲の「39」はデジタル以前の聴覚効果や、バッキング・ヴォーカルのオペラティックなソプラノを用い、フォークミュージックを未来型のサウンドにしようと試みている。 伝統的なロック・ファンは、ヘヴィにロックする「Sweet Lady」に満足するだろう。そしてバンドは「The Prophet’s Song」でプログレッシヴ・ロックの領域にも戻っている。『A Night At The Opera』はメンバー全員のベストな状態を象徴しており、また、フレディ・マーキュリーを20世紀でもっとも才能あるヴォーカリストとして確固たるものとした。このバンドの芸術的な賭けは大きな成功を生み出し、『A Night At The Opera』はイギリスで1位、アメリカでは4位を獲得した。クイーンにとっては、全米初のTOP10入りを果たしたアルバムとなった。
プリンス&ザ・レヴォリューション『Purple Rain 』(80年代)
80年代はポップ・ミュージックの黄金時代であったが、非常にクリエイティブであり、かつ商業的な成功を収めたプリンスの『Purple Rain』 と競える作品は存在しない。80年代の初めにプリンスはトップ40入りを果たした「I Wanna Be Your Lover」を1980年に発売しそこそこの成功を収めたが、1983年の「Little Red Corvette」がプリンスにとっての初のトップ10入りを果たした曲となり、それでも当時隔離されていた有名なロック・ラジオの枠を超えないという問題に直面していた。彼の解決策はブルース・スプリングスティーンやヒューイ・ルイス&ザ・ニュースなどのミュージシャンたちをチャートから吹き飛ばすようなビッグなポップ・アルバムを作ることだった。
マイケル・ジャクソンがジャンルを超えた魅力を得るには音楽の全域にまたがることであると『Thriller』で証明したので、プリンスもそのファンクの影響を受けたポップ・ロック、ソウル、そしてサイケデリックを混合した『Purple Rain』を制作することにした。ザ・ビートルズの『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』に匹敵する実験的な作品で、プリンスはジャンルに手を出するのではなく、やすやすとジャンルそのものを支配し、迫力のあるロック・バラード「Purple Rain」ではジミ・ヘンドリックスの方向性をとり、ベースラインのないサイケデリック・ソウル「When Doves Cry(邦題:ビートに抱かれて)」は初めてのヒット・シングルとなった。ジャンルを曲げるトラックリストで『Purple Rain』は、人々とプログラマーを推測させ続け、ポップ・ラジオでデペッシュ・モードのようなエレクトロ・ポップ・ミュージシャンたちと同じ枠に入れられながら、それまでマイケル・ジャクソンしか成し遂げられなかったMTVでのヘビーロテーションにも取り上げられるという功績を上げた。
『Purple Rain』以前のプリンスはナンバーワン・ヒットに恵まれることはなかったが、今作で「When Doves Cry」と「Let’s Go Crazy」の2曲で1位を獲得。その他にも『Purple Rain』は一夜にしてプリンスを映画スターにした。1984年、全米1位のアルバムとシングル、そしてアメリカで映画出演を同時に果たしたアーティストはザ・ビートルズ以来プリンスが初めてのことで、アルバムは2,000万枚以上の売り上げを果たし、映画の興行収入は7,000万ドル近くとなった(制作費のおよそ10倍である)。ミュージックビデオがまだマーケティング手段として使用し始めた頃だったため、プリンスはその一歩先を見越して、アルバム用に映画一本を作ってしまったのだ。アルバムはポップ・ミュージック界で最高レベルに位置づけされ、アーティストたちが自分の音楽を表現する方法を全く新しく再定義した。映画はオスカーで最優秀オリジナル・ソング部門(現在はなくなった部門)を受賞し、同時にファースト・レディのティッパー・ゴアの娘が「Darling Nikki」を聴いているのを聴いた後に、ペアレンタル・アドヴァイザリー(*未成年者に相応しくない)のシールを貼ることになったことでも有名となった。上院議員の発言を駆り立てたと断言できるアーティストは一体何人いるだろうか?
レディオヘッド『OK Computer』(90年代)
UKのアーティストが“世界で最も重要なバンド”と再び称賛されるまで、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』の発売から30年の年月を必要とした。その頃になると、約束されたサイケデリックな理想社会は、被害妄想なテクノロジーが負荷をかける90年代へと変わっていた。ダウンロード可能な音楽が普及し始めていたが、レディオヘッドの『OK Computer』はアルバム形式を保ち、今ではその形式では最後のアルバムであったとも言われている。30周年を迎えてアルバムを振り返る人たちの殆どは、作品の予言的なテーマの歌詞について語っている。個人主義の放棄(「No Surprises」)、政府の監視(「Karma Police」と「Electioneering」)、そして私たちの人生の自動化(「Fitter Happier」)。これらのテーマは、激しいガレージ・ロック・ギター、巧妙に書かれたメロディー、そしてトム・ヨークの拍子抜けするようなテノールがなければ、非常に大げさに感じてしまうだろう。
『Sgt Pepper』と同じように『OK Computer』もその革新的な制作法が特徴である。『The Bends』や『Pablo Honey』のようなそれまでのギター主導の強いアルバム作りから離れ、プログラミングされたドラム、エレクトロニック・キーボード、そして後に彼らの独特のモダン・エレクトロニカを特徴づけるインストゥルメンタル・サンプリングを試している。その複雑さは作曲過程でも用いられ、ザ・ビートルズのように曲作りを行い、それぞれのメンバーが書いた異なる部分を融合させ、結果として多数のキー、BPM、そしてテンポ変化を得て「Paranoid Android」のような無秩序な曲が完成した。
ブリットポップのレトロ・フェティッシュなサウンドが君臨していた時代に、レディオヘッドはロック全体を再始動させた。『OK Computer』は間違いなく90年代で最もロック・ミュージックに影響を与えたアルバムである。リリース時に世界規模な称賛を受け、アルバムの人気、関連性、そして影響はそれから急激に増していった。殆どの国でプラチナム・ディスクを獲得し、1位のシングルを3枚生み、衰え始めていたミュージック・ビデオがヒットとなった。『OK Computer』でバンドは正式に主流ロックから抜けて独自の領域へと移り、そこで誰もが予想できなかった新たな方向へと進化し続けていた。
カニエ・ウェスト『College Dropout』(00年代)
ドレイクが自分の繊細な内面と向き合う前、そしてチャンス・ザ・ラッパーがまだテディベアと遊んでいた頃、カニエ・ウェストはデビュー・アルバム『College Dropout』をリリースし、ヒップホップに巣食う根強いステレオタイプの人たちを燃え立たせた。彼の指導者であるジェイ・Zに有望なプロデューサー、そしてロッカフェラ・レコードの次のスターとして育てられたカニエ・ウェストは、ラップができて歌えるプロデューサーであることをきっぱりと証明した。カニエ・ウェストのデビュー作品は、ヒップホップが一番それを必要としている時に、笑いのタイミングと破壊精神をもたらした。それは、ストリートから突如現れた新時代到来の物語とは違っている。『College Dropout』は、ピンクのポロシャツを着たシカゴ出身の“ベンツとバックパックを持った最初のラッパー”が自分を世に知らせる作品となっており、『Sgt Pepper』がポップ・ミュージックとアヴァンギャルドな実験的音楽の境界線を越えたように、メインストリームのラップとアングラ・ヒップホップの境界線をぼやかした。
元ブラック・パンサー党員と英語教師の間に生まれたカニエ・ウェストはアルバムを通じて、その多岐にわたる音楽の好みについてのラヴレターを書いており、ベット・ミドラーからアレサ・フランクリン、そしてチャカ・カーンなどをサンプリングしている。それはR&Bが織り込まれた愛だった。『College Dropout』はヒップホップに感情を加え、同時にラッパーのリリックに対するルールを書き直した。「It Falls Down」でカニエ・ウェストは明確な消費者主義について勢い良くラップし(“俺は車/レクサス/Lexusが買えないから、彼女は娘をア・レキサス/Alexisと名付けた”)、同時に恥ずかしそうにそれを認めている(“全然上手く発音できないけど、ベルサーシーを俺にくれ”)。どのトラックも大胆なサウンドで、勢いあるゴスペル調の「Jesus Walks」から、熱狂的なパロディーの「The New Workout Plan」まで、カニエ・ウェストはすべてを独自のスタイル、自信、そして知性で完成させた。『College Dropout』は1年を通じてラジオでのヘビーロテーションでオンエアされ、グラミー賞では10部門にノミネートされて3部門を受賞し、ケンドリック・ラマー、チャンス・ザ・ラッパー、ドレイク、そして数知れない多くの意識の高いMCたちを含む世代にインスピレーションを与えた。
ケンドリック・ラマー『To Pimp A Butterfly』(2010年代)
2010年代を迎え、ストリーミングが主要となった頃、アルバムは最期のあがきとして団結した芸術的であり文化的な意味を持つ存在であることを主張し、消えさることへの抵抗をおこなった。2012年にケンドリック・ラマーはメジャー・レーベルからの素晴らしいデビュー作『Good Kid, MAAD City』をリリースし、ラップとヒップホップというジャンル全体に転機をもたらした。彼は西海岸ヒップホップの新しいキングとしての地位を獲得したが、同時にその世代の代弁者となった。その責任を彼は決して軽くは受け止めなかった。次作の『To Pimp A Butterfly』は感情が詰まった挑発的な作品となっている。
非常にプライベートであり、乱雑で混乱したこの作品は、ヒップホップ、ジャズ、ファンク、ソウル、そして語られる言葉を融合しながら、より大きな真実を語っている。アウトキャスト、ザ・ルーツ、カニエ・ウェストの足跡をたどる『To Pimp A Butterfly』は、ヒップホップの派手な面と違った面の両面を披露し、“ラップ・ミュージック”という固定観念の枠を塗り替えている。ケンドリック・ラマーはサンプリングを芸術に変え、「That Lady」ではアイズレー・ブラザーズを、「King Kunta」ではジェームズ・ブラウン、「Wesley’s Theory」ではジャマイカのベーシストであるボリス・ガーディナー、そして「Hood Politics」ではインディーズの博学者であるスフィアン・スティーヴンスをサンプリングしている。
リリース時に『To Pimp A Butterfly』の中にある熱狂的で予測不可能なジャズのエネルギーにリスナーはすぐに気が付いた、それはブルーノートのピアニストであるロバート・グラスパーと彼の長年のコラボレーターであるビラル、そしてプロデューサー/サクソフォン演奏者のテラス・マーティンとベタラン・ベーシストのサンダーキャット、そしてその他にも36人近くのコラボレーターたちを含むライブ・バンドが大きく貢献をしている。人によってはこのアルバムをコンセプト・アルバムと呼び、他の人は75分の生存者の罪悪感を物語る論文だと言う。どっちにしても、それは音楽的な声明である。ケンドリック・ラマーは伝統的なラジオ・シングルを避けて、比類なきフローを通じてより大きな物語を語っている。ラップ新時代のファースト・アルバムと称賛され、ノトーリアス・B.I.G.の『Ready To Die』やナズの1994年のアルバム『Illmatic』以来、そこまでのインパクトを残したヒップホップ・アルバムは初めてのことだった。
それらのアルバムや『Sgt Pepper』のように、『To Pimp A Butterfly』は時代の音楽を表す非常に独特な作品だ。それはオバマが提唱した”人種を超えたアメリカ”を象徴する最も記憶に残る作品の一つになった力強いアルバム・ジャケットによって証明されている。『To Pimp A Butterfly』はリリース時からカニエ・ウェストやデヴィッド・ボウイを含むあらゆるミュージシャンに影響を与えており、デヴィッド・ボウイはローリング・ストーンズ誌で『To Pimp A Butterfly』から『★』で新しいサウンドを試すインスピレーション受けたことをコメントしている。アルバムは58回グラミー賞にてベスト・ラップ・アルバムを受賞し、その文化的な影響を認められてハーバード大学図書館に追加された。
By Laura Stavropoulos June 23, 2017
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