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偉大なるラヴィ・シャンカールの想い出
ジョージ・ハリスンは、折に触れて「ラヴィ・シャンカールは僕の人生において、僕に感銘を与えた最初の人であり、僕に感銘を与えようとしなかった唯一の人である」と心から語っていた。
他の誰よりも、自身の国の文化と音楽を紹介することになったインド人ミュージシャン、巨匠ラヴィ・シャンカールは1920年の4月7日に生まれた。ビリー・ホリデイが5歳になったころに、彼は‘インドのアテネ’と時に呼ばれるヴァーナラシーに、違うバックグラウンドを持つもの同士の心の壁を取り除くという心を持ち、生を受けた。
ラヴィ・シャンカールは、1966年にジョージ・ハリスンと出会い、彼に感銘を与える以前にも、非常に重要かつ興味深い作品を数十年にわたり、制作していた。13歳の時に、彼の兄ウダイ・シャンカールのグループに入り、様々な楽器を学び、1930年半ば以降は、彼らとともに、アメリカやそのほかの国々を旅することとなった。
1940年代には、ラヴィ・シャンカールはHMVインドで録音されたバレエ音楽も手掛けており、また、AIR、オール・インディア・ラジオの音楽ディレクターをつとめ、彼の作る作品や演奏は東洋と西洋の音楽が見事にブレンドされたものとなった。 1956年にリリースされた彼のデビュー・アルバム『Three Ragas』の録音のためにロンドンを訪れ、またヨーロッパやその他の地域でツアーを行い、インド映画ではない映画へ楽曲を提供することで、彼の地平線は限りなく広がっていくことになる。
ザ・バーズがラヴィ・シャンカールの音楽を聴いた初めての西洋のポップ・ロックのグループで、彼らの友人であったジョージ・ハリスンにラヴィ・シャンカールの音楽を紹介した。 すでに精神的啓発に関して探求を行っていた、思慮深いジョージはすぐに、かつ深く感銘を受けた。ジョージとラヴィ・シャンカールが出会う前、1965年後半には、ザ・ビートルズの『Rubber Soul』収録の楽曲「Norwegian Wood(邦題:ノルウェーの森)」でジョージはシタールを弾いている。
「何かを探そうとしているとき、その源を探し出すのは非常に難しい」とジョージは語った。ジョージの妻オリヴィア・ハリスンの本『Living In The Material World』では、このように述べられている「だけど、僕にはラヴィ・シャンカールというパッチ・コード(*注:接続のために両端にプラグがついているコード)がいてくれて、とても幸運だった。彼は僕と本物をつないでくれる。だから僕の体験はいつも最高のクオリティだった」
この二人は、その後のジョージの人生において、友人関係を続け、またこの有名なポップ・ミュージシャンとの関係は、ラヴィ・シャンカールの作品においても大きな実りとなった。 素晴らしいコラボレーター イェフディ・メニューインと共作した1967年の作品『West meets East』はグラミー賞を受賞。また、1967、1968年には、3枚のアルバムがアメリカのチャートに入り、1973年にもチャート入りを果たした。それ以外にも、1969年のウッドストックや1971年のバングラディッシュ・コンサートで演奏するなど、更なる文化の融合に貢献した。
ジョージ・ハリスンが彼のレーベル、ダーク・ホースを立ち上げた時、彼は、ラヴィ・シャンカールと彼のファミリーを迎え入れ、1974年発表の『Shankar Family & Friends』をプロデュース。その後も、ホワイト・ハウスでの演奏や、オスカーにノミネートされた1982年の映画『ガンジー』の音楽を手掛けるなど、このインドの音楽家の偉業は多数におよび、畏敬の念を起させるものであった。
ラヴィ・シャンカールは、インド議員の一員として、自身の知恵を広め、自身の自伝を書いた、2つ目の自伝はジョージ・ハリスンによって編集された。また、ラヴィ・シャンカールは、自身の名義で非常に優れたシタール演奏者である彼の娘アヌーシュカ・シャンカールのよき指導者であり、ともにツアーも行った。もう一人の娘ノラ・ジョーンズも、自身の名前で世界的に知られ、何百万枚ものセールスを売り上げるなど成功を収めている。
2000年、彼が80歳の時に、ニューヨークのカーネギー・ホールで録音されたアルバムはグラミー賞最優秀ワールド・ミュージック・アルバムを受賞。 彼は、その後も彼の人生が終わりに近づくその時まで、非常に活動的でありつづけた、2012年11月には彼の娘アヌーシュカと最後のコンサートで演奏、92歳、彼がなくなるたった4週間前のことだ。彼の音楽的光明、寛容の唱道、宗教そして文化の相互作用は、これからも生き続ける。
『The Ravi Shankar Collection: Three Ragas』のSpotifyはこちら