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元エイジアのメンバー、ジョン・ウェットンが死去
モーガル・スラッシュでキャリアをスタートさせ、その後ファミリーに参加したジョン・ウェットンが、1月31日に67歳で死去した。1972年、このベーシスト兼シンガーはキング・クリムゾンに加入し、アルバム『Larks’ Tongues in Aspic(邦題:太陽と戦慄)』、そしてその翌年『Starless and Bible Black(邦題:暗黒の世界)』と『Red』に参加。『Red』リリース後、創設メンバーのロバート・フリップはキング・クリムゾンを解散させ、ウェットンは失業する。
その後ウェットンはロキシー・ミュージックとツアーし、ユーライア・ヒープとアルバム2枚をレコーディング。1977年、彼は元イエスのメンバー、リック・ウェイクマンとビル・ブルーフォードと新バンドを結成しU.K.と名づける。キーボード・プレイヤー兼ヴァイオリニストのエディ・ジョブソンとギタリストのアラン・ホールズワースをラインナップに加える。ブルーフォードとホールズワースがバンドから離れた後、彼等はアメリカ人パーカッショニストのテリー・ボジオを雇い、生まれ変わったU.K.はアルバム『Danger Money』をリリース。
ウェットンはファースト・ソロ・アルバム『Caught in the Crossfire』を1980年にリリースし、ウィッシュボーン・アッシュに短期間参加する。1981年、同じくイエスに在籍していたスティーヴ・ハウと組み曲作りを始め、後にエイジアを結成。キーボードにジェフ・ダウンズ、ドラムスにカール・パーマーを加えたバンドは、1982年にセルフ・タイトル・デビュー・アルバムをリリース、本作は9週間に渡り全米アルバム・チャートのトップに輝き、1995年にクアトロ・プラチナ・ディスクに認定された。
1983年、これに続くアルバム『Alpha』が発表されたが、USで6位になったにもかかわらず、売上は満足のいくものではなく、ゲフィン・レコードに強要されウェットンはクビを言い渡される。その表向きの理由は、予想よりも低かったアルバム売上とされる。1985年、ウェットンはエイジアに戻り、同時期にスティーヴ・ハウの代わりにマンディ・メイヤーが加入し、バンドは『Astra』を完成した。
1980年代末、彼は元ロキシー・ミュージックのギタリスト、フィル・マンザネラとウェットン・マンザネラを組む。1990年代のウェットンは、ソロ・キャリアに集中、これは再びエイジア再結成話が持ち上がる1999年まで続く。2000年代初期、彼はエイジアのキーボード・プレイヤー、ジェフ・ダウンズと再び合流し、『iCon』を制作する。
2006年、オリジナル・ラインアップ(ウェットン、ダウンズ、ハウ、そしてパーマー)によるエイジアの正式再結成がようやく実現。オリジナル・メンバーの1983年発『Alpha』以来のスタジオ・アルバム『Phoenix』がリリースされ、全米アルバム・チャート最高73位を記録。オリジナル・ラインアップで、その後ハウが去る2013年1月までに、2枚のスタジオ・アルバム『Omega』と『XXX』をリリース。エイジアは新ギタリストのサム・クールソンと共に、2014年3月に『Gravitas(邦題:グラヴィタス~荘厳なる刻)』をリリース。
オンライン投稿で、ダウンズは次のように書いている: 「深い悲しみを抱え、悄然としつつ、我々の最愛の友、兄弟、バンド・メイト、そして長年の音楽パートナーを失ったことを、ご報告しなければなりません。ジョン・ウェットンが、癌との長く粘り強い戦いの後にこの世を去りました。この非凡な才能の持ち主と、これまで数え切れないほどのプロジェクトで、密に仕事が出来たことを、非常に光栄に思っています。彼の声は神から贈られたものだった。その作品は…天下一品。そのメロディとハーモニーのセンスは…信じられないようなものだった。彼は文字通り‘特別な存在’でした」
彼は癌との戦いの後、妻のリサ、息子のディラン、兄弟ロバートと母ペギーを残し、ドーセット州ボーンマスの自宅にて死去。
ジョン・ウェットン どうぞ安らかに
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