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なぜザ・ラッツの『The Crack』がパンク史上最も熱いデビュー・アルバムなのか

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1977年ではヘッドライン・ニュースだったパンクも、その2年後には風前の灯であった。セックス・ピストルズはとっくに終了、ザ・クラッシュはアメリカで必死、イギリスのキッズ達は2トーンやモッズ・リバイバルといったストリート・レヴェルの新たなムーヴメントに魅了され始めていた。そんな79年の6月、ウェスト・ロンドン出身の4人組であるザ・ラッツが、パンクに心肺蘇生を与えるべく、緊迫感とドライブ感(現在聞いても恐ろしく思うほど)を持ち合わせ、人種差別的暴力を糾弾するアンセムである彼らの2枚目の傑作シングル「Babylon’s Burning」でUKチャートのトップ10入りを果たし、その後リリースされたアルバム『The Crack』の片鱗を示した。

公にはパンク・バンドとして登場したザ・ラッツであったが、実はいろんな過去を持ち合わせたバンドであった。皮肉にも、ギタリストのポール・フォックスとカリスマ的ヴォーカリストであったマルコム・オーウェンは70年代初頭にウェールズのアングルシー島のヒッピー・コミューンで初めて出会いった。その頃リズム隊であるデイヴ・ラフィー(ドラム)と元ローディーだったジョン・”セグス”・ジェニングス(ベース)はどちらもレゲエ好きで、デイヴ・ラフィーは10代の頃からイースト・エンドを拠点にしたスカ/ロックステディ・バンドだったザ・スターキーズで腕を磨いていた。

従って、間違いなくザ・ラッツはラモーンズやザ・クラッシュ、セックス・ピストルズからの影響を受けつつも幅広く、そしてパワフルなバンドであった。一夜にしてトップ10入りの成功を見せたように映るが、実はその前に18ヶ月に渡るハードなライヴ・スケジュールをこなし、ロンドンのレゲエ・グループであるミスティ・イン・ルーツが主宰するピープル・ユナイトにも出演、そしてようやくヴァージン・レコードとの契約を手に入れデビュー・シングルとなった「In A Rut」をリリースしたのであった。

The Ruts Something That I Said Single Cover - 300

彼らは1979年の8月に2度目のUKトップ30入りを果たすヒット作である強烈な「Something That I Said」をリリースしたが、そのB面の「Give Youth A Chance」こそザ・ラッツとして初めて70年代ルーツ・レゲエ調の曲を見事に提示し、マルコム・オーウェン率いるこの4人が強烈なアンセムばかりではない懐の深さを見せつけたのであった。

そしてヴァージンはザ・ラッツの素晴らしいデビューアルバム『The Crack』を1979年9月にリリース。人気プロデューサーであったミック・グロソップ(ザ・スキッズ、ザ・コーズ)を迎え、ミリタントなレゲエ調の「Jah War」やネオ・プログレ的な反核アンセム「It Was Cold」、そして疾走感と共に政治的なアンセム「Backbiter」と「Savage Circle」、警察による暴力の横行を訴えた「SUS」など、圧倒的にパンクでありながらも多彩なアルバムで評価を得た。

『The Crack』はUKトップ40の中で16位まで上がり、彼らの第1章は成功を収めた。しかし、彼らの3度目のトップ40入り果たしたシングル「Staring At The Rude Boys」をリリース後、1980年7月にマルコム・オーウェンがヘロインの過剰摂取により他界、この悲劇によりザ・ラッツの活動は縮小される。その後、ラッツ・DCと改名し2枚の過小評価されたアルバムを残しポール・フォックス、ジョン・ジェニングス、デイヴ・ラフィーの3人は解散、ポール・フォックスが亡くなる2007年の前に感動的な再結成を果たし、その後デイヴ・ラフィーとジョン・ジェニングスはギタリストのリー・ヘガーティを迎え、2013年にダブ色の影響を受け高評価を得たカムバック作『Rhithem Collision Vol 2』をリリースした。

Written by Tim Peacock



Why The Ruts’ ‘The Crack’ Remains One Of Punk’s Hottest Debut Albums

ザ・ラッツ 『The Crack』

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