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バディ・ホリー VS ボビー・ダーリン「Early In The Morning」
58年前のこの日、バディ・ホリーのパフォーマーとしての才能とボビー・ダーリンの作曲の能力がひとつになった。だがその結果は珍奇なチャート争いに発展し、両者が同じ「Early In The Morning」でトップ40に入ることになる。この曲はバディ・ホリーがアメリカで生み出した、自分の8つのTOP40ヒットのうちの7つ目となるが、この出来事の裏話は少々信じがたいものだ。
当時もチャート争いはよくあったものだが、それにしてもボビー・ダーリンとウディ・ハリス作のこの曲には奇妙な物語がある。「Early In The Morning」を初めてレコーディングしリリースしたのはボビー・ダーリンで、その際はブランズウィック・レコード(彼が以前に所属していたデッカ・レコード傘下のレーベル)からディン・ドンズの名義で発表された。これは当時彼が契約していたアトコ・レコードに別の会社からリリースしたことを隠すためだった。
この偽装工作の理由は、ボビー・ダーリンがアトコと結んだ1年契約が間もなく満了することになっていたことにある。ボビーは1958年4月に「Early In The Morning」を含む4曲を、ニューヨークにあるデッカ所有のピューティアン・スタジオでレコーディングした。だがそのとき、以前制作した「Splish Splash」がまだリリースされておらず、日の目を見る保証もない状態だった。契約が更新されないことを恐れたボビー・ダーリンは、将来への不安に保険をかけることにしたのである。
当然、アトコはボビー・ダーリン独特の声質から”ディン・ドンズ”なるグループの正体を見抜き、ブランズウィックに「Early In The Morning」のマスター・テープを譲渡するよう言い渡した。また、アトコは「Splish Splash」のリリースも決定。6月にチャート・インした「Splish Splash」はボビー・ダーリン初のスマッシュ・ヒットとなった。そうして彼はアトコとの契約更新をしたが、一方でこれ以上にややこしい問題が生まれ始めていた。
「Splish Splash」が成功を収める前、アトコはブランズウィックから”取り戻した”「Early In The Morning」の音源を、これまた別のリンキー・ディングスという名義でリリースしていた。一方、デッカはブランズウィック以外にもバディ・ホリーの所属していたコーラル・レコードも傘下に収めていた。そして同社はバディ・ホリーをスタジオに入らせ、この曲のまったくのコピー版を制作させていたのだ。
バディ・ホリーのヴァージョンは、スタジオ、ミュージシャン、アレンジ、プロデューサー、ヘレン・ウェイ・シンガーズのゴスペル調のコーラスに至るまですべて同じ環境でレコーディングされた。さらにB面曲も同じ、ボビー・ダーリン作の「You Are The One」のカヴァー・ヴァージョンが収録された。
1958年7月5日、「Early In The Morning」のバディ・ホリー・ヴァージョンはコーラルからリリースされ、リンキー・ディングスに1週間遅れた8月の前半に全米シングル・チャートに入った。他方、ボビー・ダーリンによる本家ヴァージョンがトップ100から外れようとしている頃、今度は彼の「Splish Splash」がトップ5入りを果たしていた。その際の名義が”ボビー・ダーリン&ザ・リンキー・ディングス”に変わっていたのはごく自然なことだろう。
そのうちの一時期、8月11日のランキングでは、ボビー・ダーリンとバディ・ホリーのヴァージョンが同時に全米シングル・チャートのトップ40に入っていた。だがどちらも当初の期待値とは程遠い結果に終わり、バディ・ホリーは最高32位、ボビー・ダーリンは最高24位となった。ボビー・ダーリンの場合は、ファンが同時期にリリースされたヒット曲「Splish Splash」に気を取られた(あるいは混乱した)のかもしれない。
バディ・ホリーが全米40位以内に入るヒットを残したのは、この後1959年前半の「It Doesn’t Matter Anymore」での一度だけだった。彼は同曲が順位を上げている中、飛行機の墜落事故で悲劇的な死を遂げる。その頃、ボビー・ダーリンは自身の名義で発表した次のシングル「Queen Of The Pop」でTop10ヒットを記録。その後もしばらくアトコ・レコードとの契約を維持し、活動を続けた。
By Paul Sexton
♪それぞれの「Early In The Morning」を 聴き比べ
ボビー・ダーリン「Early In The Morning」
バディ・ホリー「Early In The Morning」
ボビー・ダーリン「Splish Splash」