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オープリーの一夜:ナッシュヴィルの名門が誇る90年の歴史
2016年4月12日、ブラッド・ペイズリーはグランド・オール・オープリーのステージに上がると、同会場で初めてパフォーマンスを行うアメリカン・ルーツ・ミュージックの巨匠、ジョン・フォガティを紹介した。
ジョン・フォガティはロックン・ロールの大物と考えられているかもしれないが、彼はカントリー・ミュージックの伝統に親しんで育った――特に、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルをインスパイアしたベーカーズフィールド・サウンドに慣れ親しんでいた。ジョン・フォガティは同バンドが出した1970年のヒット「Lookin’ Out My Back Door」の歌詞の中で、バック・オーウェンスの名前を出しているほどだ。
ブラッド・ペイズリーが自身のヒーローの1人であるジョン・フォガティを褒め称えながら、雄弁に語っていたように、ジョン・フォガティの出演はグランド・オール・オープリーの全てを受け入れる影響力と、不滅かつ求心力のある重要性を証明している。ナッシュヴィルのコンサート会場/ラジオ番組は、1926年のスタート以来、カントリー・ミュージックの記念碑的存在として誇り高く続いている。
[layerslider id=”818“]「オープリーで特に素晴らしいのは、カントリー・ミュージックという傘がどれほど大きくなったかをきちんと理解していることと、従来はカントリーだと考えられていなかったような音楽に、カントリー・ミュージックの影響を取り入れた人々を認識していることだ。しかし、フォガティがやったことを振り返れば、ほとんどがカントリーだ」とこの時、ブラッド・ペイズリーは観客に語っている。
ブラッド・ペイズリーとジョン・フォガティの出演後にオープリーで公演したアーティストを見ると、過去、現在、未来のカントリーの名士が勢揃いしていることが分かる。70年代から80年代にヒットを飛ばしたラリー・ガトリンも、オープリー・カントリー・クラシックスのホストを務めたアーティストの1人だ。その他、ナッシュヴィルの大使的存在なヴィンス・ギルや、リトル・ビッグ・タウンからロレッタ・リン、コニー・スミスからキャリー・アンダーウッドに至るまで世代を超越したカントリー・アーティストが公演を行なった。
フィラデルフィアで生まれ、ナッシュヴィルで育ったカントリー・シンガーソングライターのジェン・ボスティックは、uDiscoverにこう語っている。「私はグランド・オール・オープリーで7回も公演するという栄誉に恵まれたけれど、毎回が初めての気分になった。あの会場には、とにかく魔法のような何かがあるの」
「大学時代、あの会場でキャリー・アンダーウッドが歌っているのを観客席から見て、涙を流していたことを覚えているわ。『いつか、あなたもあのステージで歌うからね』と私の心が囁き続けていた。それから数年後、私はそのステージで父の命日に、父のことについて語った『Jealous Of The Angeles』を歌った。オープリーは、夢が叶い、音楽が評価され、一生ものの思い出が作れる場所なの」
新進ヒットメイカーのマディ&テイも、アシュリー・キャンベルやタラ・トンプソンといった成長株と同様に、オープリーで公演を行っている。また、2015年6月、英国出身のデュオのシャイアーズはオープリーでアメリカ初の公演を行うという、最高の形でカントリー・コミュニティに受け入れられた。
毎年、世界中からオープリーを訪れる無数のファンと同じく、英国出身のシャイアーズにとっては、オープリーで公演をすることは、真の聖地礼拝と呼べるものだった。80曲ものヒット曲をカントリー・チャートに送り込んだグランド・オール・オープリーの常連、ビル・アンダーソンはこの時、「こちらはベン・アールとクリシー・ローズ。2人は一緒に特別なことをやってきた」とシャイアーズを紹介した。
「特別なこと」は、いまだにオープリー自体から発散されている雰囲気でもある。オープリーには、カントリー・ミュージックと同じくらいの長い歴史がある。その所在地は何度も変わったが、1974年にナッシュヴィルのダウンタウンから10マイルほど東、オープリーランド・ドライヴにある特設会場、グランド・オール・オープリー・ハウスに移転して落ち着いた。同会場の所在地は現在でも、カントリー・ミュージックの中で最も有名な住所である。
オープリーは、カントリー・ミュージックを有名にした番組であり、カントリー・ミュージックで最も有名な番組であることを自負している。番組は現在も続いており、AMラジオ局WSMで毎週金曜と土曜に放送されている。90年以上続く不滅の人気番組は、1925年11月25日、ラジオ・パーソナリティのジョージ・D・‘ジャッジ’・ヘイによってスタートした。
この日、最初のパフォーマーとなったのは、フィドル奏者のアンクル・ジミー・トンプソンだ。当初の番組タイトルは「WSM バーン・ダンス(WSM Barn Dance)」で、ナッシュヴィルのダウンタウンにあるナショナル・ライフ&アクシデント・インシュアランス・カンパニーの5階にあったラジオ・スタジオから放送された。このスタジオから9年間にわたり番組が放送され、‘ブルーグラスの父’として知られたビル・モンローも番組初期にゲスト出演した。
その他の出演者も、カントリーの形成期を担った多彩な顔触れだ。彼らの多くが19世紀の終盤生まれで、 ‘オールドタイム・ミュージック’の雄、フィドリン・アーサー・スミスやシド・ハークリーダーや、ガリー・ジャンパーズやビンクリー・ブラザーズ・ディキシー・クロッドホッパーズといった「ホーダウン」のストリングス・バンドが番組に登場した。
番組の評判が広がると、バンジョー奏者でヴォードヴィルのヴェテラン、アンクル・デイヴ・メイコンは、同番組との関係を通じて、より幅広い人気を獲得した初のパフォーマーとなった。そして、1927年12月10日、歴史的瞬間がやって来た。放送の中で現在の番組名が初めて使われたのだ。
初期の「WSMバーン・ダンス」は、グランド・オペラを目玉としたNBC系列のクラシック音楽番組「ミュージック・アプリシエーション・アワー(Music Appreciation Hour)」の後に放送されていた。プレゼンターのヘイは、「これまでの1時間は、グランド・オペラからの楽曲をお届けしていましたが、今からはグランド・オール・オープリーをお届けします」と3時間のカントリー番組を紹介したのだった。
1934年10月、オープリーはヒルズボロー・シアターに場所を移すが、2年もしないうちに、ディキシー・タバーナクルへと移転した。サリー&サリーやジャマップ&ハニーといったコメディ・アクトがキャストに加わったが、それと同時に番組は、始まったばかりのカントリーの‘オールドタイム系’・アーティストから、現在のシーンの先駆者となるようなアーティストにスポットを当てるようになった。
ヒルズボローで3年を過ごした後、オープリーは戦時中の大半をウォー・メモリアル・オーディトリアムで過ごした。そして1943年、‘カントリー・ミュージックのマザー・チャーチ(母教会)’として神聖化されていたライマン・オーディトリアムへと移ると、1974年にオープリーが現在の場所へと移転するまで、同オーディトリアムが番組の会場となった。
1930年代には番組の人気が高まり、放送時間が4時間に延長された。広告主からも引く手あまたとなったため、後に番組はスポンサーごとの時間枠が作られ、それぞれにスターが出演した。プリンス・アルバート(タバコ会社)のスポンサーによる「プリンス・アルバート・オープリー(The Prince Albert Opry)」でスターとなったのは、1937年に番組に加わったロイ・エイカフで、1944年に全米でカントリー・ヒットを放ち始めた。これと同時期、番組はビル・モンローやミニー・パール、エディ・アーノルド、アーネスト・タブ等、全米で名声を博したアーティストを輩出した。
40年代後半、オープリーの番組はWSMの広告収入の3分の2を占めるまでになった。毎週、入場料80ドルの会場に3000人もの観客が訪れた。ロイ・エイカフは1946年に番組を辞め、ケンタッキー州出身のレッド・フォーリーが後釜となり、オープリーの栄光に浸るのだった。
ロイ・エイカフが辞めた1946年、23歳になろうとしていたハンク・ウィリアムスがオープリーのオーディションを受けたが、不合格に終わった。しかしそれから3年後、彼はオープリーに初出演し、当時ナンバーワン・ヒットだった「Lovesick Blues」などをパフォーマンスすると、観客を熱狂させた。大反響を受けて、ハンク・ウィリアムスは1週間後に再び会場に呼ばれると、今回はプリンス・アルバートがスポンサーする30分枠のネットワーク放送で、フォーリーに紹介されてパフォーマンスを行った。
「一般的な認識とは裏腹に、アンコールはなかったが、ハンクがフォーリーに示したとおり、彼はこの時、カントリー・ミュージックで最もエクスクルーシヴなクラブへのメンバーシップを認められたのだった」とコリン・エスコットは『Hank Williams: The Biography』に記している。
オープリーのメンバー入りは、現在も番組のマネジメントによって決定され、マネジメントはセールス、エアプレイ、ツアーから、カントリー・ミュージックにおけるアーティストの総合的な状況に至るまで、あらゆる成功の基準を考慮する。オープリーのウェブサイトには、こう記載されている。「グランド・オール・オープリーのアーティスト玄関にあるオープリー・メンバー・ギャラリーは、現在のオープリー・メンバーもしくは番組の長い歴史上で一時的にメンバーだった200人以上のアーティスト/グループを認識しています」
「ギャラリーは、オープリー初のパフォーマー、アンクル・ジミー・トンプソンから始まり、アーネスト・タブ、レッド・フォーリー、ハンク・ウィリアムス、ポーター・ワゴナー、パッツィ・クライン、タミー・ワイネット等、過去のメンバーが年代順に続きます」
「ブレイク・シェルトンは2010年10月、正式にオープリーのメンバーとして迎えられると、このギャラリーに自ら名前を加え、オープリーの新しい伝統をスタートしました。それ以来、新メンバーは皆、シェルトンに倣っています。例えばキース・アーバンは、その夜にマーティ・スチュアートからもらっていたポケットナイフを使い、自分の額をギャラリーに取りつけました」
40年代までに、番組は物理的にナッシュヴィルという境界を越えた。タブ率いるオープリーのパフォーマー集団は、初のヨーロッパ・ツアー後、ニューヨークのカーネギー・ホールで公演を行った。50年代は、同番組との結びつきが、キティ・ウェルズ、ジョージ・ジョーンズ、マーティ・ロビンス、ジョニー・キャッシュ、エヴァリー・ブラザーズ、ポーター・ワゴナー等、多くの新人にとってスターへの足掛かりとなった。また、1954年10月には、若き有望アーティストだったエルヴィス・プレスリーが最初で最後の出演を果たした。
パッツィ・クラインは、1955年からゲストとしてオープリーでパフォーマンスしはじめ、その2年後、「Walkin’ After Midnight」で全米ヒットを放った。1960年、彼女は番組のジェネラル・マネージャー、オット・ディヴァインにオープリーのメンバーになれるか尋ねると、彼は「パッツィ、それが君の望みなら、君はオープリーのメンバーだ」と答えたそうだ。
その他、60年代にオープリーのメンバーとなったのは、ドリー・パートン、ウィリー・ネルソン、ロレッタ・リン等だ。70年代、オープリーはタミー・ワイネットをメンバーに迎え入れ、ネオ・トラディショナリズムが全盛を極めた80年代には、ランディ・トラヴィス、パティ・ラヴレスがメンバーの仲間入りをした。
アリソン・クラウス、アラン・ジャクソン、ヴィンス・ギル、ガース・ブルックスといった、現在も活躍する息の長いスターは、90年代にオープリーのメンバーとなった。「既に1000回は言っているけれど、何度でも繰り返してやる。これは俺がやっていることの頂点だ。グランド・オール・オープリーのメンバーになることほど、光栄なことはない」と熱く語っている。
その後、この栄誉は、ブラッド・ペイズリー、キャリー・アンダーウッド、キース・アーバン、さらにはダークス・ベントリー、ラスカル・フラッツ、ダリアス・ラッカーといったアーティストが受け継いできた。2010年、ナッシュヴィルを襲った洪水で、グランド・オール・オープリー・ハウスのステージは浸水したが、一時的に移転した後、会場は修復され、ここからさらに栄光は続いた。
メンバーと熱狂的なオーディエンスに支えられ、オープリーはカントリー・ミュージックが続く限り、栄え続けるだろう――つまり、永遠に、ということだ。ドリー・パートンの言葉が、オープリーの特別さを最もよく表しているだろう。「オープリーのメンバーになることは、ずっと私が夢見ていたことでした。10歳の頃、私はグランド・オール・オープリーで歌うことができました。そして60年代後半、私はメンバーになりました」
「オープリーは『マザー・チャーチ(母教会)』と呼ばれています。これはライマン・オーディトリアムが教会だったからですが、私にとっては本当に神聖な場所です。オープリーはどこへ行こうとも、私の心の教会なのです。私にとって、オープリーは『New York, New York』に似ています――『そこで成功できれば、どこででも成功できる』のだから」
オープリーの主要アーティストによるライヴ・レコーディングやスタジオ・トラックを集めたプレイリスト「A Night At The Opry」