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カーナビー・ストリート
ミニ・スカート、モデルにモッズ。ツイッギーにマリー・クワント。オプ・アートにポップ・アート。これら全ては活気あふれる60年代のロンドンを象徴する存在となった。しかし、1960年代半ばの夢見るような時代に、ロンドンを世界のポップ・ミュージックの中心地にしたのは、バンドとシンガーだ。このカルチャーは1966年5月、ニューヨーク・タイムズ紙によってスウィンギング・ロンドンと名づけられ、カーナビー・ストリートを中心として、変化の時代を象徴するようになった。史上最高のポップ・ミュージックが生み出された時代でもある。ミュージカル『カーナビー・ストリート』は、この60年代のスウィンギング・ロンドンを舞台としている。
[layerslider id=”817“]レコード契約という難関を目指し、英国中からシンガーやバンドがロンドンにやって来た。成功者ひとりにつき、挫折した者は大勢いた。トム・ジョーンズはウェールズの渓谷からロンドンにやって来ると、程なくしてデッカ・レコードとの契約を獲得し、50年にわたるキャリアをスタートした。グラスゴー出身のルルも、ロンドンの歓楽街にやって来ると、デッカ・レコードと契約を結んだ。ザ・フーと ダスティ・スプリングフィールド は音楽的には大きな違いがあるが、どちらもロンドン出身で、60年代で特に才能を発揮したアーティストだ。十代の天才、スティーヴ・ウィンウッドを擁したスペンサー・デイヴィス・グループは、バーミンガムからM1モーターウェイを走ってロンドンに到着すると、アイランド・レコード社長のクリス・ブラックウェルに見いだされた。最長距離を移動したのはウォーカー・ブラザーズで、彼らは大きな成功を求めてアメリカからロンドンにやって来くると、しばらくの間、彼らはロンドンで特に人気の高いグループとなった。同じくアメリカ出身のライチャス・ブラザーズはロンドンに拠点を置いたことはなかったが、彼らのレコードは60年代のロンドンで重要な役割を果たした。リヴァプール出身のビリー・フューリーは、カーナビー・ストリートとスウィンギング・ロンドンの到来にともない、オールドスクールなロックン・ロールの象徴的な存在となっていたが、それでも彼は素晴らしい才能の持ち主だった。ビリー・フューリーは1960年、自身のバック・バンドのオーディションを受けたザ・ビートルズという名のリヴァプール出身のバンドを却下した。しかし、この時にビル・フューリーが彼らをバック・バンドに採用していたら、歴史はどうなっていただろう?
「カーナビー・ストリートほど、活気に満ちた新しいロンドンを説明できる場所はないだろう。3ブロックにわたる細道には‘ギア(洋服)’を売るブティックがひしめき、少年少女はここでお互いに洋服を買いあっている」――タイム・マガジン 1966年4月
ロンドンのカーナビー・ハウス(Karnaby House)をその名の由来とするカーナビー・ストリート(Carnaby Street)は17世紀に建設され、通りには小さな家が並んでいた。ロンドンの中心部という場所柄、時を経るにつれてカーナビー・ストリートは賑やかなマーケットへと発展した。60年代までには、ストリートはモッズ・カルチャーやヒッピー・カルチャーのフォロワーの人気スポットとなっていた。この時期、スモール・フェイセスやザ・フー 、ザ・ローリング・ストーンズといったバンドは、ウォードー・ストリートにあった伝説的なマーキー・クラブでギグをやっており、このエリアによく出没していた。カーナビー・ストリートは、周囲にアンダーグラウンド・ミュージックのバーなどがあったために社交の拠点となり、‘スウィンギング・ロンドン’で最もクールな場所となった。
キング・オブ・カーナビー・ストリートを自称するジョン・スティーブンは1963年、自身にとっての第一号店「His Clothes」をオープンした。これに続いて「I Was Lord Kitchener’s Valet」、「Lady Jane」、「Kleptomania」、「Mates」、「Ravel」等のブティックが続々とオープンし、ポップ・スターだけでなく、ポップ・スターの服装を真似る若者たちの支持を獲得した。マリー・クワント、ロード・ジョン、マークやアーヴァイン・セラーズといったブランドは、周囲に合わせたファッションなど過去のものだと主張した。ロンドンっ子たちは、人とは違う服装をしたがるようになった。ダークスーツや実用的な服を好む‘堅物’から一線を画そうとしたのはもちろんのこと、仲間とも違う服装をしようとしていた。全体の流儀よりも個性を重視したのだ。その後まもなくすると、英国全土、さらには世界中がロンドンのファッションを真似し、ロンドンで流行っている音楽を聴こうとするようになった。
カーナビー―・ストリートは、ザ・ビートルズをはじめとするビート・バンドの台頭と同時に繁栄したが、これは偶然ではない。また、1964年1月、TV番組『Top Of The Pops』の放映開始とも重なっている。これは、ザ・ビートルズがアメリカに進出したのと同じ時期だ。6月にはザ・ローリング・ストーンズもアメリカに進出し、さらに他の誇り高きブリティッシュ・バンドたちもこれに続いた。
1965年、ザ・フーのロジャー・ダルトリーは「決して歳は取りたくない。一生若いままでいたい」と言い、「My Generation」を歌った。ピート・タウンゼントが書いた同曲の歌詞は、歳を取る前に死にたいという内容だ。しかし全体として見れば、この雰囲気がザ・フーや60年代のロンドンを代表していたわけではない。ザ・フーは「I Can’t Explain」で65年をスタートすると、すぐに「Anyway, Anyhow, Anywhere」をリリース。その後、「My Generation」がチャートの上位に食い込んだ。これらの楽曲を含め、ザ・フーがリリースした60年代の名曲シングルは、『The Greatest Hits And More』に収められている。当然ながら、ザ・フーのファースト・アルバムは『My Generation』というタイトルで、ジャケット写真には、スタイリッシュなザ・フーの姿が写っており、ベーシストのジョン・エントウィッスルはユニオン・ジャック(英国国旗)のジャケットを着ている――65年当時では、お決まりのスタイルだ。
1964年元旦、放送第1回目の『Top Of The Pops』では、スプリングフィールズというトリオの女性メンバー、ダスティ・スプリングフィールドがニュー・シングルを披露した。同トリオは、その前年にいくつかヒット曲を出していた。そしてダスティ・スプリングフィールドの「I Only Want To Be With You(邦題:二人だけのデート)」は非常にキャッチ―で、これで彼女のTV出演が決まると、すぐにチャートの4位まで上昇する。その後、彼女は60年代を通じて、「Some Of Your Lovin’」やナンバーワン・ヒットとなった「You Don’t Have To Say You Love Me(この胸のときめきを)」等、シングル・チャートに入るヒットを連発した。そして60年代が終わる頃、ダスティ・スプリングフィールドはすっかり成長し、名盤『Dusty In Memphis』に収録されている「Son Of A Preacher Man」等の素晴らしいレコードを作った。
ルルもダスティ・スプリングフィールドと同様、この時代をエキサイティングなものにしたのはボーイ・バンドだけではないことを証明した(ただしルルは、ラヴァーズの力を借りて初のヒットを出した)。「Shout」はアイズレー・ブラザーズのよるモータウン・レコードのカヴァーで、結婚式のダンス・パーティを盛り上げること確実な1曲である。意外にも、同曲はそこまでの大ヒットには至っておらず、チャートでは最高7位に終わっている。ルルがデビューした当初、多くの人々はそのキャリアが短命に終わると考えていたが、彼女はそんな予想を裏切って長期にわたって活躍を続け、1973年にはデヴィッド・ボウイの「The Man Who Sold The World」をカヴァーし、チャートの第3位に入った。
スペンサー・デイヴィス・グループはバーミンガム出身だが、グループ名はウェールズのギタリストにちなんでいる。3枚のシングルはチャートの下位に入っただけで、人気に火が付くまでには少々時間がかかったが、1965年の後半には「Keep On Running」、1966年の初頭には「Somebody Help Me」と2曲連続でチャートの首位を獲得した。最初のヒットを出した時、オルガン奏者/シンガー、スティーヴ・ウィンウッドは16歳という若さだったが、スペンサー・デイヴィス・グループが特別なバンドとなったのは、彼のおかげである。スティーヴ・ウィンウッドは1967年にグループを脱退すると、トラフィックを結成。その後、エリック・クラプトンと結成したブラインド・フェイスが短命に終わると、ソロとして活動をはじめ、現在に至っている。
ウォーカー・ブラザーズ(とはいえ、彼らは兄弟バンドではない)は、新メンバーとなったゲイリー・リーズの勧めで英国に降り立った。リーズはアメリカのシンガー、P.J.プロビーのバックシンガーとして英国をツアーした直後、ウォーカー・ブラザーズに加入。デュオだった同グループは、トリオとなった。ゲイリー・リーズは、ウォーカー・ブラザーズはアメリカ本国よりも英国で受けるだろうと考えたのだった。彼の考えは正しかった。1965年、名曲「Love Her」で最初のヒットを記録すると、バート・バカラックの「Make It Easy On Yourself」をリリース。これが1965年晩夏、チャートの首位を獲得。アイドル的人気を誇るポップ界屈指のリード・シンガー、スコット・ウォーカーがソロに転向するまで、ヒットを連発した。スコット・ウォーカーは多作ではなかったが、現代音楽においてとりわけ素晴らしい功績を残している。
ブラザーズという名前を持ち、スウィンギン・ロンドン時代に作品を残したアメリカのグループがもうひとつある(こちらのメンバーも兄弟ではない)。ライチャス・ブラザーズだ。彼らは1965年初頭、フィル・スペクターのプロデュースによる「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(邦題:ふられた気持)」を全英首位に送り込み、躍動するロンドンに進出した。その後もスケールの大きな素晴らしい楽曲を続々と発表したが、60年代の彼らは、上述曲と同じ規模の大ヒットを再び記録することはできなかった。しかし1990年、「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’」は再リリースされ、英国チャートの首位を獲得した。また、「Unchained Melody」も映画『Ghost』で使用されると、60年代に次いで90年代に2度目のヒットを記録した。
トム・ジョーンズはデビュー当初、P.J.ロビーの真似をしているのかと尋ねられると、「僕は僕だ。一般に考えられている現代のセックス・シンボルというものになろうと思ったことはない」と答えていた。1965年2月半ば、24歳だったトム・ジョーンズは初めてシングル・ヒットを飛ばし、人々を驚かせた。「It’s Not Unusual」は発売週に英国チャートに入り、1カ月後には英国チャートを制覇したのだ。
そのキャリアの大半で、トム・ジョーンズは大衆受けする作品とは異なる音楽を作ってきたように思えるが、それでも自分が選んだ音楽を支持してくれるファンを獲得してきた。ウェールズ出身のトム・ジョーンズもまた、通例を覆しながら、変化に富んだキャリアを長年にわたって築き上げてきたアーティストだ。また彼は、素晴らしい楽曲を聴きわける素晴らしい耳を持ち続けてきた。
現在の音楽シーンで、ビリー・フューリーの名前が語られることは少なく、彼のレコードはラジオでもほとんどかからない。ザ・ビートルズをバック・バンドに採用するだけの優れた感覚は持ち合わせていなかったものの、彼は1960年代に17曲ものヒットを連発した。中でも顕著なのが「Last Night Made For Love」(全英第5位)、「Like I’ve Never Been Gone」(1963年に全英3位)で、どちらの曲もコンピレーション・アルバム『Carnaby Street』に収録されている(これは、同名のミュージカルのサウンドトラックだ)。残念ながら、ビリー・フューリーは1983年、心臓疾患によって40代前半の若さで死去している。
カーナビー・ストリートは1960年代だけのものだと思ったら大間違いだ。ザ・ジャムには「Carnaby Street」という持ち歌がある。ベーシストのブルース・フォクストンがペンを執った同曲は、シングル「All Around The World」(1977年)のB面に収録されている。また、1992年にはU2 がアルバム『Achtung Baby』からのシングル「Even Better Than The Real Thing」のヴィデオをカーナビー・ストリートで撮影している。同ヴィデオでは、店のウィンドウの中にいるバンドのドッペルゲンガーが、買い物客に向かって演奏している。
ミュージカル『Carnaby Street』は、60年代のロンドンのウェスト・エンドを舞台にしている――「世界が変化しており、あらゆることが可能に思える、希望と自由に満ち溢れた時代」だ。このミュージカルの中では、本稿で紹介した楽曲の大半だけでなく、その他のヒットも使用されている。監督はボブ・トムソン(『ブラッド・ブラザーズ(原題:Blood Brothers)』、『Dreamboats & Petticoats』)、デザインはマシュー・ライト(『エビータ(原題:Evita)』、『ラ・カージュ・オ・フォール(原題:La Cage au Folles)』)が担当した。『Carnaby Street』は、名声を夢見てギターだけを抱え、リヴァプールからロンドンにやって来た労働者階級の少年ジュードの物語だ。スターを目指す過程での浮き沈み、情熱や傷心を描いている。2013年夏、全英で巡回公演され、同ミュージカルのアルバムや劇中曲は、コ・ライターでプロデューサーのカール・レイトン・ポープが編集した。彼の父親はソーホーのディーン・ストリートにザ・クラウン・アンド・トゥー・チェアメン(The Crown and Two Chairmen)というパブを持っており、カール・レイトン・ホープ自身もマーキー・クラブに週5日通うと、60年代の英国で人気だったバンドを数多く見てきた。ザ・フー、マンフレッド・マン、ビリー・J・クレイマー&ザ・ダコタス、アニマルズ等、多くのバンドの音楽が、マーキー・クラブや、海賊ラジオ局で流れていた。「My Generation」、「Son Of A Preacher Man」(劇中 で特に目立つ1曲だ)、「Downtown」といった60年代を代表するヒット曲がアルバム『Carnaby Street』の中核をなしており、カーナビー・ストリート隆盛のはじまりを思いださせてくれる。
♪ プレイリスト『Carnaby Street Essentials』
By Richard Havers