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1991年のガンズ・アンド・ローゼズ:発売が確定しないアルバムとマットとイジーのインタビュー
2025年5月5日、Kアリーナ横浜にて一夜限りの来日公演を行うガンズ・アンド・ローゼズ(Guns N’ Roses)。そんな彼らについて音楽評論家の増田勇一さんによる短期連載を掲載。第3回は、1991年は『Use Your Illusion Ⅰ/Ⅱ』の時代について。
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1991年という時代
短期連載の3回目となる今回は、1991年当時のことを振り返ってみたい。
ロック史において、たとえば1977年が英国でのパンク・ムーヴィメント勃発の年だったとするならば、この年はグランジ元年ということにでもなるのではないだろうか。ニルヴァーナのメジャー・デビュー作にあたる『Nevermind』はこの年の9月24日に米国でリリースされている。
同作が「Smells Like Teen Spirit」のシングル・ヒットとの相乗効果をもって急激にセールスを延ばし、実際に全米アルバム・チャートの頂点へと躍り出たのは1992年に入ってからのことだが、パール・ジャムがデビューし、サウンドガーデンやアリス・イン・チェインズなどが新勢力として注目を集めるようになっていたこの時期、彼らをはじめとするバンドの多くがワシントン州シアトルを拠点としていたことから「シアトルこそがロサンゼルスに代わるロック・ミュージックの新たな首都/聖地だ」なんてことがよく言われていたものだ。
ここまでの文中にガンズ・アンド・ローゼズの名前は一度も登場していないが、この中には彼らと無関係ではない話が二件ほど含まれている。まずはシアトルといえばダフ・マッケイガンの出身地であること。そして1992年1月11日付の全米アルバム・チャートで『Nevermind』に首位の座を明け渡したのが、スラッシュがゲスト参加していたマイケル・ジャクソンの『Dangerous』だったことだ。
そして言うまでもなく1991年は、『Use Your Illusion Ⅰ/Ⅱ』が世に放たれた年でもある。同作が実際にリリースされたのは9月17日のことで、ちょうど『Nevermind』の発売前週にあたる。ただ、そもそもこの2枚のアルバムは、その年の5月にはリリースされることになっていた。
確定しなかったアルバム発売日と海外取材
当時、BURRN!編集部に籍を置いていた筆者が、同年2月の時点で渡米しているのは、1月20日と23日にブラジルはリオデジャネイロでの『Rock In Rio』に出演していた彼らが同月末にはロサンゼルスに戻っていて、そのタイミングで新作アルバムについて話を聞くことが可能だと、当時の彼らのマネージャーであるアラン・ニーヴンから聞いていたからだった。
結果的にその際にはスラッシュとダフが個別にインタビューに応じてくれ、僕は確定情報が何ひとつ届いていなかった新作アルバムにまつわる情報をひとつでも多く聞き出そうと必死になったものだった。しかしその後もアルバムの発売日はなかなか確定せず、そもそもアルバム発売を経てのスタートとなるはずだった北米ツアーは、見切り発車のごとく同年5月にスタートしている。
彼らはまずサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークの三都市でウォームアップ的な小規模公演を行ない、5月24、25日のウィスコンシン州イースト・トロイ公演をもって野外アンフィシアター規模のツアーを開始。そして僕は、ふたたび彼らに接触するために、その次の公演地にあたるインディアナに飛んだのだった。実のところ取材地としてインディアナを選ぶべき必然性は特になかったのだが、そこがアクセル・ローズとイジー・ストラドリンにとっての故郷であることが選択理由のひとつだったことは言うまでもない。
アルバムの発売日さえも確定せぬままスタートしたこのツアーは、彼らにとっては新体制のお披露目の機会でもあった。前年の時点でドラマーがスティーヴン・アドラーからマット・ソーラムに代わり、新たにキーボード奏者としてディジー・リードを迎えていた彼らは、前述の『Rock In Rio』にもその布陣で出演している。ただ、ディジーの加入については当初、サポート・メンバー的なニュアンスで伝えられていたこともあり、僕はこのインディアナでの取材に際しては、確実に新メンバーとして迎えられていたマット・ソーラムのインタビューを申し込み、実際に公演当日のバックステージで彼に話を聞いている。
ドラマー交代劇を経てのツアーという意味では、フランク・フェラーに代わりアイザック・カーペンターを迎えた体制で新たなツアーに乗り出そうとしている今現在のガンズにも重なるところがあるが、実のところマットはこのツアー開始前から『Use Your Illusion Ⅰ/Ⅱ』の収録楽曲のレコーディングに携わっていたわけで、加入から1年を経ていた。だから「新メンバーとしてのプレッシャーを感じたりはしませんか?」というこちらからの質問にも、彼は「それは特にない。もう加わってから1年になるし、メンバーたちとも打ち解けている。みんなも気を遣ってくれるし、バンドの一員として平等に扱ってもらえていることを嬉しく思っている」と答えている。
マットとアイザックには「ダフとの人脈的な繋がり」という共通点もある。とはいえ同じバンドの一員としてダフとの活動歴があったアイザックとは違い、マットの場合は「お互いのガールフレンド同士が同じ店で働いていたことがあり、それでダフのことも前々から知っていた」という関係に過ぎなかった。
ただ、あらかじめそうした関係性があったからこそ、彼が在籍していた当時のザ・カルトのロサンゼルス公演にダフとスラッシュが訪れた際にも、マットはそれを特に意味のあることとは捉えずにいた。そして彼自身の発言によれば「それから約2週間後にスラッシュから電話で加入を誘われたが、当初はレコーディングのみという話だった」のだという。加えて、彼は「その時点では、ツアーまでにはスティーヴンが戻って来るのではないかと思っていた」とも語っている。
イジー・ストラドリンとのインタビュー
マットとのインタビュー終了直後、僕はある人物から「俺、今なら少し話ができるけど?」と声を掛けられている。その発言の主は、なんとイジー・ストラドリンだった。願ってもない申し出に舞い上がりそうになったが「一応、マネージャーに断りを入れてきますね」と言い、ダグ・ゴールドステイン(註:アラン・ニーヴンはこの北米ツアーの時点ですでにガンズから離れており、それまでツアー・マネージャーを務めていたダグが彼に代わってすべてを取り仕切っていた)を見つけて報告したところ、「彼が自分からそんなことを言い出すなんて奇跡だ! 是非やったほうがいい。最近の彼は俺が何を言っても聞いてくれない」との回答があった。正確なところはわからないが、当時、アクセルはダグを信頼していたが、イジーはアラン派だったとの話も聞こえてきていた。
そして僕は無事にイジーから話を聞くことができたのだが、その際の彼の口調はいつものように穏やかでありつつも、発言内容には驚くべきものがあった。
新作アルバムが2枚同時リリースになるという情報についてはその時点でオープンになっていたのだが、その件について彼は「自分に決定権があったならばそんなふうにはしない。誰でも一度に2枚のアルバムを買えるわけじゃないし、30曲以上録るくらいならアルバム1枚分に絞り込むべきだ」と語っている。
また、このツアーにはスペシャル・ゲストとしてスキッド・ロウが同行しており、前夜のステージでセバスチャン・バックが「ガンズと俺たち、これでこそ本物のロックンロール・ショウだ。ボン・ジョヴィはお呼びじゃない」などと発言していた。そのことを告げた際にも彼は「本物のロックンロールという意味で共演バンドを選ぶなら、俺だったらジョージア・サテライツとかラモーンズにするけど」と答えていた。
後者の件については問題なのはイジーの発言ではなく、セバスチャンが勢い余って余計な一言を口にしがちであることだが、まだ発売されていない新作のリリースのあり方について、作曲面以外においてさほど自己主張が強いという印象のないイジーが異論を唱えたことが僕にとっては衝撃的だった。
イジーの脱退
後になってよくよく考えてみると、この時点ですでにバンド内には溝が生まれていたのだと思う。なにしろイジーはメンバー用のツアー・バスではなく、彼自身の車で、ガールフレンドと犬同伴で移動していたし、前出のダグ・ゴールドステインの発言からもわかるように、彼は「暴れたり事件を起こしたりするわけではないが、誰にもコントロールできない状態」になっていたのだ。
そしてこの時点から3ヵ月半ほどを経た1991年9月半ば、事件が起こる。ロサンゼルスでの「Don’t Cry」のビデオ・クリップ撮影現場に、イジーが現れなかったのである。当時、この件については「夏のヨーロッパ・ツアー後にそのまま現地で休暇をとっていたイジーが、ビデオ撮影だけのために帰国することを拒んだだけのこと」と伝えられていたが、同じ頃には、その年の9月26日のハワイ公演を最後に解散することが決まっていたジェーンズ・アディクションのギタリスト、デイヴ・ナヴァロの名前がイジーの後任候補にあがっているとのニュースも報じられている。
結果から言えば、イジーにとっては同年8月31日に行なわれたロンドンはウェンブリー・スタジアムでの公演が、ガンズの一員としてのラスト・ショウとなった。そしてデイヴ・ナヴァロはガンズではなく、1993年にレッド・ホット・チリ・ペッパーズに合流。イジー脱退の穴を埋めることになったのは、キャンディやキル・フォー・スリルズでの活動歴を持っていたギルビー・クラークで、ガンズが1992年2月に二度目の日本上陸を果たし、初めて東京ドーム公演を行なった際のステージにも彼の姿があった。
ただ、ギルビーの当時の立場はあくまでツアー・メンバー的なもので、1991年12月の時点でスラッシュに電話取材を行なった際にも、彼は「ツアー・メンバーなのかパーマネントなメンバーになるのかはわからない」と答えている。また、彼は同じインタビューの中で「イジーは努力してくれなかった」「ギルビーはステージでもとても良くやってくれている」とも発言している。
その後の来日時のメンバーの発言や、ソロ始動後のイジーの発言なども踏まえたうえで言うと、当時、ガンズにとってアリーナ規模での公演が当たり前になりつつある中、イジーが「広いステージ上を駆け回ったり、派手なパフォーマンスをしたりすること」について積極的ではなかったこと、バンドが肥大化していく中で自由な動きがしにくくなりつつあることに疑問を感じていたことは間違いない。
彼の脱退は、音楽的なことよりもむしろそうした状況変化によるところが大きかったのだと思われる。また、若干補足しておくと、スラッシュはそのインタビューの中で、デイヴ・ナヴァロの名前が公認候補に挙がっていたとの件についても事実だと認め、「彼を推したのはアクセルだったが、上手くいかなかった」と語っている。
『Use Your Illusion Ⅰ/Ⅱ』の成功
話は前後するが、結果的に『Use Your Illusion Ⅰ/Ⅱ』がリリースされた1991年9月17日というのは、イジーがとても微妙な立場にあった時期だった。同作が世に出る以前、7月2日に行なわれたセントルイス公演の際には多数の負傷者のみならず逮捕者まで出るような暴動事件も発生していたし、同公演に限らず、開演の遅れなども多発していた。
ガンズ・アンド・ローゼズの名前は、ロック・ミュージックにさほど興味のない人たちにさえも“お騒がせバンド”として知られるようになっていた。そして結果、『Use Your Illusion Ⅰ/Ⅱ』は全米アルバム・チャートの1位と2位に初登場するという快挙を成し遂げ、世界中で大ヒットを記録することになった。
日本もその例外ではなく、オリコンによる当時のチャートでは発売初週に『Use Your Illusion Ⅱ』が2位、『Use Your Illusion Ⅰ』が3位に名を連ねている。余談ながらその週の1位に輝いていたのは久保田利伸の『KUBOJAH』だった。
1991年当時のガンズ・アンド・ローゼズは、明らかに大きな転機の時期にあった。この年に彼らから離れているアラン・ニーヴンは去る4月、インタビューに応えて「最初の亀裂はスティーヴンを失ったことだった。そしてイジーを失ったことは、バンドを失うことに等しかった」といった発言をしている。彼の視点からすれば、それによってガンズはさらに巨大になりはしたが、バンドではなくなった、ということなのだろう。6月に刊行される予定だという彼の著書『Sound N’ Fury: Rock N’ Roll Stories』でも、当時の知られざる逸話の数々が綴られているに違いない。
そして2025年の現在おいても、ガンズ・アンド・ローゼズは伝説的怪物バンドと呼ぶに相応しい存在であり続けている。ただ、僕は、彼らがかつて失ったものがそのまま損なわれたままの状態にあるとは感じていない。そのあたりのことは、また機会を改めて書きたいと思う。今はとにかく、5月5日、Kアリーナ横浜でどのようなライヴ・パフォーマンスが繰り広げられることになるのかが、楽しみでならない。
Written by 増田勇一
来日公演予習プレイリスト公開中
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ガンズ・アンド・ローゼズ『Appetite For Destruction』
1987年8月21日発売
BOX SET / CD / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music
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