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ソウルとファンクの1975年:当たり年の立役者となった8組のアーティスト
ヒップホップやR&Bなどを専門に扱う雑誌『ブラック・ミュージック・リヴュー』改めウェブサイト『bmr』を経て、現在は音楽・映画・ドラマ評論/編集/トークイベント(最新情報はこちら)など幅広く活躍されている丸屋九兵衛さんの連載コラム「丸屋九兵衛は常に借りを返す」の第51回。
今回は、今年50年を迎える1975年の米ソウル・チャートを彩ったアーティストたちをご紹介。
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豊作だったシングルチャート
ソウルとファンクが最高だった年。それはいくつかあるが、1975年もそのうちの一つだ。というわけで今回は、今から半世紀前にあたる1975年のブラック・ミュージックの勢力図に迫ってみよう。
それは群雄割拠というか百家争鳴というか、とにかく凄い年だった。ビルボードのチャート「Hot Soul Singles」に注目すれば、その物凄さがハッキリする。1年52週間で43もの曲がナンバーワンを獲得という前代未聞の事態となったのだ。つまり「⚫︎週連続1位」がとても少ないということである。3週連続で1位だったのは唯一、アイズレー・ブラザーズの「Fight the Power (Part 1)」のみ。他に、2週連続No.1は6曲、連続ではない離れた週だが合計2週1位を獲得した例が1曲ある。
そんなシングル・チャートを見れば豊作だったことは痛感できるが、あまりに目まぐるしい。なので、ここはやはりアルバム・チャート「Hot Soul LPs」を基本のよりどころとして、この当たり年の立役者となったアーティスト8組を選出したい。そして、その後の世界に与えたインパクトを鑑み、特別枠として2組のアーティストも合わせて紹介する。
1. オハイオ・プレイヤーズ
※『Fire』:1月4日〜2月1日に1位
※『Honey』:9月27日〜10月4日、10月25日に1位
誰がなんと言おうと、オハイオ・プレイヤーズは70年代半ばのブラック・ミュージック界の中心の一つだった。代名詞的大ヒット曲「Fire」と家出願望男が心情を吐露するバラード「I Want to Be Free」を収めたアルバム『Fire』は1974年11月に出たもので、この翌1975年の年始からHot Soul LPsチャートの首位を爆走。
さらに1975年8月にリリースしたアルバム『Honey』は、9月から10月にかけて1位を獲得した。同作からの先行シングルである夢見心地のバラード「Sweet Sticky Thing」も遅れてヒット。声の裏返りっぷりが衝撃的な「Love Rollercoaster」や、やはり裏返りが止められない「Fopp」も収録した『Honey』は、彼らのキャリアの最高到達点と言えるのではないか。
Hot Soul Singlesチャートを見ても、激戦の1975年で計4週も首位を獲得したのはオハイオ・プレイヤーズだけなのだ。
2. アヴェレイジ・ホワイト・バンド
※『AWB』:3月1日〜3月15日に1位
※『Cut the Cake』:8月23日に1位
スコットランドが生んだ驚異! 「平均的な白人バンド」も、1975年はとても忙しかった。
問答無用のインストゥルメンタル・ファンク「Pick Up the Pieces」を含むセカンド・アルバム『AWB』は前1974年8月に出たが、この1975年初春になって総合チャート「Billboard 200」でもHot Soul LPsでも首位に上り詰める。
その『AWB』発売直後の1974年9月にオリジナル・メンバーのロビー・マッキントッシュ(ドラムス)がヘロイン過剰摂取で死去。それに起因する内紛で何度かレコーディングが中断した曰く付きのアルバムが第3作『Cut the Cake』だが、1975年6月にリリースされ、タイトル曲のヒットもあって再び首位となる。「全てはプロデューサーのアリフ・マーディンの忍耐のおかげ」という説あり。
3. アル・グリーン
※『Al Green Explores Your Mind』:3月22日に1位
※『Al Green Is Love』:11月1日〜11月8日に1位
メンフィスの巨人もとても忙しかった。
『Al Green Explores Your Mind』は1974年10月リリース。『Al Green Is Love』は1975年8月。さらに『Full of Fire』が1976年2月に出ることになる。なんというインターヴァルの短さか……。
テクニカリー、1975年に出したアルバムは1枚だけ。しかし、前年のアルバムが春先に首位獲得、翌年のアルバムからのシングル「Full of Fire」が12月20日にHot Soul Singlesで1位となるから、1975年のチャートではアル・グリーンの3作が暴れまくっている印象があるのだ。
4. ミニー・リパートン
※『Perfect Angel』:3月29日〜4月12日に1位
生涯にアルバムを6枚しか出していない彼女にとっても、そのキャリアの中心は1975年だったのだろう。もっとも、この(復帰作でもある)セカンド・アルバム『Perfect Angel』は前1974年、それも5月下旬のリリースだから、10ヶ月ほど経ってHot Soul LPs首位に到達した計算になる。初登場1位がほとんどなく、「チャートとは時間をかけて昇るもの」だった70年代とはいえ、ここまでスロウな例は珍しい。
これは、当時のレコード業界において彼女の音楽性——確かにソウルだがポップ的でもあり、ロック色もある——がマーケティング困難だったためだ。「プロデューサー=スティーヴィー・ワンダー」を押し出せば展開は違ったのかも知れないが、専属解放を嫌うモータウンの妨害を避けるべく「エル・トロ・ネグロ(黒い雄牛)」名義だったため、それもできず。
しかし、最後のシングルとして1974年11月末にリリースされた(実は)母娘讃歌「Lovin’ You」が数ヶ月かけて火がついた結果、アルバムも首位を獲得。ミニーというアーティストが70年代黒人音楽史の特異点の一つとして記憶されるに至るのだった。
5. アース・ウィンド&ファイアー
※『That’s the Way of the World』: 4月19日〜4月26日、6月21日〜7月5日に1位
時は00年代なのに一人だけ70年代そのままで生きている主人公(説明なし)の活躍を描く映画『アンダーカバー・ブラザー』を思い出そう。終盤、悪のエージェントであるミスター・フェザーと戦う彼が切り出すのはEW&Fキック! ベルボトムをなびかせながら滞空時間が長い飛び蹴りを放つ様子は、まさに『That’s the Way of the World』のジャケットそっくりであった。
少なくとも日本では1977年の『All ‘n All』以降、ジャケットが長岡秀星によるイラストになってからの方が人気が高いが、真の最高到達点はこのアルバムなのだと思う……彼ら自身も出演した同題の映画への評価はともかく。本作からヒットし代表曲の一つとなったのが、唐突にジャジーな展開を見せるサビで聴く者を困惑させる人生応援ファンク「Shining Star」だ。
なお、本稿で取り上げている多くのアーティストと同様、アース・ウィンド&ファイアーも1975年にもう1作のアルバムを出す。幸いにして(?)、それはライヴ盤『Gratitude』だが。あっ、5月24日にHot Soul LPs首位となったラムゼイ・ルイスの『Sun Goddess』もEW&F関与作だ!
6. アイズレー・ブラザーズ
※『The Heat Is On』:7月19日〜8月2日、9月20日に1位
1970年から1980年まで、毎年きっちり1作ずつアルバムをリリースしてきたのがアイズレー兄弟。この時期となると、気軽なカバー曲も多かった1973年作『3 + 3』あたりとは様相が違い、全曲が兄弟たちによる作詞作曲。37分強で全6曲、その6曲が全て「Part 1 & 2」に分かれている。
ファンクなら、ストレートに疾走する「Fight the Power (Part 1 & 2)」と、より粘着質に揺れながら進む「The Heat Is On (Part 1 & 2)」。バラードでは「For the Love of You (Part 1 & 2)」が白眉だろう。
7. ウォー
※『Why Can’t We Be Friends?』:8月30日に1位
この不世出のバンドにとっての最高到達点は、やはり1972年の『The World Is a Ghetto』と、1975年の『Why Can’t We Be Friends?』だろう。共に激烈な邦題でも印象深い。つまり『世界はゲットーだ!』と『仲間よ目をさませ!』である。
6曲で44分ほど、シングルとなった「The Cisco Kid」とタイトル曲を除けば「延々と続くジャム・セッション集」という感が強い前者と比べ、同じく44分だが9曲(数え方によっては12曲)の後者は、よりメロディアスで、なおかつラテン色が数倍増となっている。その中で、レゲエ調のタイトル曲は異色。むしろ、メキシコ系アメリカ人にとっての2大アンセム「Don’t Let No One Get You Down」「Low Rider」で永遠に記憶されるだろう。
8. KC&ザ・サンシャイン・バンド
※『KC and the Sunshine Band』:11月15日に1位
「ソウル/R&B/ファンクの有名曲を歌っているのが実は白人と知った黒人リスナーがビックリ!」という趣旨の動画が好きだ。筆頭はもちろんボビー・コールドウェルのアレだが、往々にしてビージーズも挙げられる。そしてKCも。
しかし、ソロであるボビー・コールドウェルや白人兄弟トリオのビージーズと決定的に違うのは、KC&ザ・サンシャイン・バンドが大所帯の人種混成バンドであることだ。ステージ風景を見ると、派手派手な衣装に身を包んだ黒人メンバー多数の中で鍵盤を弾いているKCは、必ずしもフロントマン然としているわけではない。ゆえに、「実は白人!」という驚きは薄めなのだ。
大出世作である『KC and the Sunshine Band』は、タイトルのイメージに反して実はセカンド・アルバム。9曲も入っているのに30分に満たないという疾走感が、後世を生きる我々の意表を突く。つまり、これだけディスコ感が強いグループでありながら、曲が短いのだ! 2大ヒットである「Get Down Tonight」と「That’s the Way (I Like It)」が収録されているわけだが、実は前者の方がヒット規模が大きいという事実にも驚く。
ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ
※『Live!』:最高47位
1975年の7月17日と18日のロンドン公演を収録したライヴ盤『Live!』がリリースされたのは同年12月5日。当時のチャート・アクションのパターンを思えば、最高位に達したのは1976年だろうが、いずれにしてもHot Soul LPsチャートで47位までしか上昇していないので、ここでは拘らないことにする。そもそもボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズには、アメリカでの大ヒットがほぼない。例外的にHot Soul LPsで11位、Billboard 200で8位となった『Rastaman Vibration』と、全米1500万枚セールスを記録した死後のベスト盤『Legend』のみだ。
だが、荒削りな魅力に満ち満ちた『Live!』で勝ち得た評価がなければ、件の『Rastaman Vibration』(1976年)、『Exodus』(1977年)、『Kaya』(1978年)という三部作もなく、ひいてはレゲエが世界に広まることもなかったのでは……と考えると、黒人音楽史の最重要アルバムの一つと思える。
パーラメント
※『Chocolate City』:最高18位
Pファンクの中心グループであるパーラメントは、チャート・アクションを見る限り、70年代リアルタイムの超絶人気バンドではない。アース・ウィンド&ファイアーやオハイオ・プレイヤーズ、ウォーと比べると、チャート上の存在感は小さいものだ。
実際、この1975年にパーラメントがリリースした『Chocolate City』にしても、Hot Soul LPsで最高18位。それでも、その後の世界に与えたインパクトを考えると取り上げておくべきなのだ。先のボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ同様に。
ただしパーラメントというのは劇的な起点を見つけにくいグループでもある。デビュー作=1970年『Osmium』、再デビュー作=1974年『Up for the Down Stroke』、初コンセプト作=1975年『Chocolate City』と、漸進的かつ断続的に拡充を遂げていった感があるから。
そして、『Chocolate City』で始まったコンセプト志向が宇宙に飛んでいってしまった結果、同じ1975年の12月に『Mothership Connection』がリリースされる……が、このマスターピースについてはまたの機会に。
Written By 丸屋九兵衛