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追悼ジョン・サイクス:自ら選んだ道だけを歩み続けてきた稀有な音楽家
2025年1月21日、英国出身のギタリストでありシンガーであるジョン・サイクス(John Sykes)が65歳で亡くなった。そんな彼について音楽評論家の増田勇一さんに追悼文を寄稿いただきました。
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1月21日、ジョン・サイクスの訃報が届いた。まだ65歳という若さだった。日本時間の同日未明、彼のSNSアカウントには以下のような書き込みがあり、このメッセージは驚きと悲しみを伴いながらまたたく間に広く拡散されることになった。
「ジョン・サイクスが癌との闘病の末に亡くなったことを、深い悲しみとともに皆さまにお知らせします。彼は類まれな音楽的才能の持ち主として多くの人々に記憶されることになるはずですが、そればかりではなく彼が思慮深い人間であり、その存在自体が周囲を明るく照らすようなカリスマ性を持っていたことを、個人としての彼をご存知ではなかった方々にお伝えしておきます。彼は確たる自分自身のリズムで歩み、常に弱者を応援していました。晩年には、長年きにわたり彼を支え続けてくださったファンへの皆さんの誠実な愛と感謝の念を口にしていました。彼を失うことは大きな衝撃であり、悲しみに包まれていますが、彼の思い出の光が、その不在の影を消し去ってくれることを願っています」
「毎回、順番待ちの列の後ろのほうにいたからです」
ジョン・サイクスは本名をジョン・ジェイムズ・サイクスといい、1959年7月29日、英国はバークシャーのレディングに生まれている。歴史ある『READING FESTIVAL』でも知られる土地である。彼の闘病生活がどれほど長きに亘るものだったのかといった詳細は、本稿を書いている1月22日午後の時点では伝わってきていない。すでにSNS上には数多くのミュージシャンやファン、関係者たちからの哀悼の言葉が飛び交っており、この才能に満ちた音楽家と彼の作品がいかに愛されてきたかを改めて実感させずにおかない。
こうした局面において筆者のような立場の人間に求められるのは、取材時のやりとりやエピソードなどをまじえながら、彼がどのような人物だったかを綴ることだろう。しかし残念なことに、僕は過去40年を超える取材歴を通じて、彼に対面インタビューをしたことが一度もない。
彼の存在にはタイガーズ・オブ・パンタン加入当時から注目していたし、その後、彼がシン・リジィやホワイトスネイクにどれほど貢献してきたかについても理解しているつもりだし、ブルー・マーダーやそれ以降の作品にも常にリアルタイムで触れてきたにも拘らず、彼に直接話を聞く機会は一度も巡ってこなかったのだ。
以前、90年代になってから初めてデイヴィッド・カヴァデールに対面した際、彼の口から「これまで会えなかったのは何故だろうね?」という映画の台詞のような言葉が聞こえてきたことがあった。その際に僕は「毎回、順番待ちの列の後ろのほうにいたからです」と答えて彼を爆笑させているのだが、サイクスとずっと話ができずにいた理由もほぼ同じであり、どんな時期にも僕以上に彼に話を聞きたがっている誰か、取材者として自分以上に相応しいと思える誰かが身近なところにいたのだった。
タイガーズ・オブ・パンタン
先述の通り、僕がジョン・サイクスという存在を知ったのは、1981年にリリースされたタイガーズ・オブ・パンタンの2ndアルバム『Spellbound』を通じてだった。いわゆるNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)の流れの中から登場した同バンドは、ツイン・ギター編成の5人組で、1980年に『Wild Cat』でデビューしているが、この第2作の制作時点で早くもギタリストのうち1人とフロントマンが交替している。そこで迎えられた新ギタリストがサイクスであり、ヴォーカリストがジョン・デヴァリルだった。
当時は詳しい資料なども手元になく、メンバーの年齢などについても定かではなかったが、同作が発売された頃、サイクスはまだ21歳だったはずだ。そんな彼を擁するタイガーズ・オブ・パンタンの若々しいたたずまいは、その年に20歳になったばかりだった僕の目には「自分たちの世代のバンド」として映っていたし、NWOBHMのムーヴメントを先導していたアイアン・メイデンやサクソンよりも少しだけ身近に感じていたところがあった。
そうしたブーム的なものの第一波が届いてくると、マニアックなファンは第二波の到着を待ちながら、メディアが騒ぎ立てるよりも先に次なる注目株を見つけようとするものだと思うが、タイガーズにはそうしたファン心理に訴える魅力があり、当時はファン主導による来日嘆願署名運動なども行なわれたものだった。
実際、このバンドは1982年9月に日本初上陸を果たしているが、そこにサイクスの姿はなかった。あれこれ検索して調べてみると、彼は同年の序盤、フランス・ツアーに向かう2日前に脱退しているようだ。フランスでの一連の公演が始まっているのは4月28日なので、おそらくその時期ということになるだろう。彼らの初来日公演のチケットはサイクスの脱退が発覚する以前に発売されていたように思う。もはや40年以上前のことなので記憶の前後関係があやふやなところはあるが、「せっかく良い席がとれたのにジョン・サイクスが来ないなんて」という落胆をおぼえた記憶がある。リッチー・ブラックモアやマイケル・シェンカーといった、すでにスーパー・ギタリストとしての地位を確立していた人たちよりも下の世代の、自分たちと同じ世代の新たなヒーローの姿をいち早く目撃できるという期待感が、いきなり蹴散らされることになったのだった。
シン・リジィに加入
しかしサイクスの日本上陸は、その翌年に実現することになる。タイガーズ・オブ・パンタン脱退後の彼はシン・リジィに加入。彼を擁する新布陣で制作された『Thunder and Lightning』は1983年3月にリリースされ、同年5月に行なわれた同バンドにとって3回目のジャパン・ツアーが、彼にとっての初来日の機会となったのだった。
この際の公演には僕自身も通い詰めているが、サイクスの演奏は前評判を裏切ることのない素晴らしいものだったし、ニュー・ヒーロー然としたたたずまいにも目を惹くものがあった。同時に、彼自身が少年期から敬愛してきたバンドの一員としてプレイしていることを心から楽しんでいることがうかがえ、こちらまで嬉しくなったものだ。
『Thunder and Lightning』はシン・リジィの歴史においてもっともヘヴィ・メタル色の濃い作品だといえる。そうしたアプローチはNWOBHMの流れを経ていたシーンの変化に呼応するものだったし、そこでバンドが80年代なりの型を確立するうえでサイクスの貢献が大きかったことは想像に難くない。しかし残念ながら、この作品が彼らにとっての最終オリジナル・アルバムとなってしまう。
同作に伴うツアーは、いわゆるフェアウェル・ツアーでもあり、同年9月4日、ドイツ版『MONSTERS OF ROCK』のニュルンベルク公演が最後のステージとなった。当時、ライノットはドラッグの問題を抱えてはいたもののバンドを継続していく意思を持っており、サイクスもそれに同調していたとされているが、スコット・ゴーハムは限界を感じていたという。しかしまさか、そのニュルンベルクでのライヴがライノット自身にとってのラスト・ステージになってしまうとは、誰も想像していなかったに違いない。彼は1986年1月4日、ヘロイン過剰摂取による内臓疾患、敗血症により36歳という若さで他界している。
SUPER ROCK ’84
話は少しばかり前後するが、サイクスの二度目の日本上陸は、シン・リジィの歴史にひとたびピリオドが打たれた翌年にあたる1984年の夏に実現している。同年8月に開催された『SUPER ROCK ’84 IN JAPAN』のステージにホワイトスネイクの一員として立っているのだ。当初、サイクスはシン・リジィ解散後もライノットと活動を共にする意向を持っていたが、シン・リジィのツアー中にホワイトスネイクとフェスで一緒になり、カヴァデール側から再三にわたり打診を受け、結果的にはライノットが彼を送り出す形となったのだった。
新天地でのサイクスの最初の任務は、すでに完成していた『Slide It In』のアメリカでのリリースに際し、一部のギター・パートを録り直すことだった。当時のホワイトスネイクは米ゲフィン・レコードと契約を交わし、それまでのブルーズを基調とするオーソドックスなスタイルからの脱却を図ろうとしていた時期でもあり、同作自体もアメリカにおいては、同国の市場を意識した新たなミックスで登場することになったのだった。そこでのサイクスの貢献は、シン・リジィの『Thunder and Lightning』でのそれに共通するものがあったように思われる。70年代から継続してきた両バンドの伝統的なスタイルを、80年代的にアップデートする役割を果たしたのが彼だったのだと僕は考えている。
『SUPER ROCK ’84 IN JAPAN』でのホワイトスネイクは、いわば過渡期にあったといえる。前述のようにアメリカ市場を本格的に意識し始めていたというのもあるし、なにしろツイン・ギターが当たり前だったこのバンドが、サイクスのワン・ギター体制での演奏を披露していたのだから。そうした編成で観られたこと自体も貴重だったが、観客のひとりとして僕が初めて気付かされたのは「サイクスが歌えること」だった。もうひとりのギタリストの必然性を感じさせない演奏ぶりも素晴らしかったが、カヴァデールの歌唱にハーモニーをつけ、彼を支えていたサイクスの歌声に惹かれ、それをもっと聴いてみたいと感じさせられたものだった。
そしてホワイトスネイクは、サイクスが作曲面に初めて関与する形で次なるアルバムを制作するが、その後、カヴァデールは彼を含む全メンバーを解雇してしまう。そうした流れを経て登場に至った次作が、同バンドに最大級の成功をもたらすことになる。『白蛇の紋章~サーペンス・アルバス』の邦題で知られる同作は、欧州では『1987』、アメリカでは『Whitesnake』のタイトルで1987年の春にリリースされている。そしてホワイトスネイク自体はエイドリアン・ヴァンデンバーグとヴィヴィアン・キャンベルを両サイドに据えたオールスター・バンド的な打ち出し方で快進撃を続けていくことになる。
ブルー・マーダー
こうして振り返ってみると、サイクスはシン・リジィやホワイトスネイクといった彼自身が少年期から触れてきたバンドに新たな刺激と未来へのヒントをもたらした存在だといえる。しかしシン・リジィは終焉を迎え、ホワイトスネイクにおける彼は「成功劇前夜の立役者」になってしまった。
そうした経緯があったからこそなおさら、彼が自らのバンドを率いての活動に乗り出すとの情報が届いた時には興奮をおぼえたものだし、そのバンドがブルー・マーダーとして実際に動き始めた際には期待感しかなかった。そして実際、同バンドはそれを裏切ることのない作品を発表してくれた。デビュー作『Blue Murder』がリリースされたのは1989年4月、同作を引っ提げての来日公演が実現したのは同年8月のことだった。余談ながらその時も僕自身はサイクスとは縁がなく、カーマイン・アピスをインタビューしている。
名曲「Please Don’t Leave Me」
さて、本稿はジョン・サイクスのキャリアを総括することを目的とするものではないので、時系列に沿ったバイオグラフィー的な内容は勝手ながらここまでにしておくが、言うまでもなく彼はそれ以降も創作活動を続け、彼ならではの魅力に富んだ作品を発表してきた。決して多作とはいえないし、むしろ沈黙の時間のほうが長かったことも確かだが、駄作はひとつもなかったし、彼自身の音楽に揺らぎが生じることもなかったように思う。逆に言えば、もっとコンスタントに作品が世に出ていれば、そうした揺らぎさえも変化の過程として楽しめたのではないかという気もするが、それを求めるのは筋違いというものだろう。
ここでひとつ、彼の音楽人生においてとても重要な意味を持っていたはずの楽曲にまつわるエピソードを紹介しておきたい。1982年に彼のソロ名義でのシングルとして登場した「Please Don’t Leave Me」に関することである。
このシングル自体は、タイガーズ・オブ・パンタン脱退後の彼が、当時のレコード会社との契約消化のために制作したものに過ぎないのだが、そこで重要なのはフィル・ライノットをヴォーカリストに迎えている事実だ。両者の間を取り持ったのは、タイガーズとシン・リジィ双方との仕事歴があったプロデューサー、クリス・タンガリーディスだったとされている。そして結果、このコラボレーションがサイクスのシン・リジィ加入へのイントロダクションとなったのだった。当時、この楽曲が大きなヒットを記録することはなかったが、マニアの間では人気を集め、日本でも輸入盤の7インチ・シングルが高値を呼んでいたものだった。要するに、それくらいプレス枚数が少なかったということだろう。
この「Please Don’t Leave Me」は、のちにプリティ・メイズによってカヴァーされ、1992年に発表された彼らのアルバム『Sin-Decade』に収録されている。実際、彼らによるヴァージョンでこの曲を知ったという読者も多いことだろう。そして筆者は、その前年にあたる1991年9月、彼らの母国であるデンマークに赴き、コペンハーゲンのスタジオでメンバーたちと共に完成したばかりのアルバム音源を試聴するという貴重な機会に恵まれている。
その時点では各楽曲の収録順も決まっていなかったのだが、最後の最後に彼らが聴かせてくれたのがこの曲だった。甘美なギターのイントロが聴こえてきた瞬間、僕は即座に楽曲の正体を察知したのだが、その驚きが顔にもはっきりと出ていたようで、メンバーたちは満足げにその様子を見ていた。その際、彼らは僕の驚きが、プリティ・メイズがメロウな楽曲をやることに対するものだと受け止めていたようだ。そしてその直後、歌詞に合わせて僕の口が動き始めると、今度は彼らの側が「この曲を知っているのか!」と驚いたのだった。
僕が、同楽曲が日本でヒット実績があるわけではないものの、熱心なメタル・ファンには「隠れた名曲」として認知されていることを説明すると、彼らは納得していた。ことにギタリストのケン・ハマーはシン・リジィの熱心なファンで、彼自身もかつてこの曲のシングルを探しまくった末に手に入れていたようだった。
そんな彼は、どうやら「誰も知らないようなシン・リジィ関連の曲」をカヴァーすることにひそかな喜びを感じていたらしく、そもそもはシングルのカップリングにすることを考えていたようだった。結果的にこの曲は『Sin-Decade』に正式な形で収録されることになったが、もしかしたらあの時の僕のリアクションの大きさが判断材料のひとつになっていたのかもしれない。
何が言いたいのかといえば、サイクスの楽曲には、聴き手側に「自分だけの名曲」といった思い入れを抱かせるに足るものがたくさんあり、そうした気持ちで彼の作品に触れてきた人たちが世界各地に居るはずだということだ。
彼の訃報が届いてからの1日を、僕はほとんど彼に関する音源ばかりを聴きながら過ごしてきたが、彼がさまざまな時代に紡いできた楽曲群を改めて自分なりに咀嚼しながら感じているのは、やはり楽曲の素晴らしさであり、そうした楽曲たちにいちばん似つかわしいギターと歌声を乗せているのも彼自身だということだった。もちろん、フィル・ライノットをはじめとする彼自身が敬意を寄せる先達たちとのまじわりも素晴らしいものばかりだったが、彼自身の素晴らしさがもっと語られて然るべきだったのではないかと改めて感じずにいられない。
サイクスは2013年の時点で新作アルバムを制作中であることを公言し、2021年の初頭には「Dawning Of A Brand New Day」、そして同年7月には「Out Alive」という楽曲を発表している。どちらも彼のオフィシャルYouTubeチャンネルで試聴可能だが、更新がその時点で止まっている事実は、それ以降の彼の日常が音楽以上に病と向き合わねばならない日々だったことを思わせもする。
正直に言えば、その2曲を含むアルバムが何らかの形で世に出て欲しいという気持ちと、それを彼自身が望んでいないのではないかという疑念が、僕自身の中には混在している。知る人ぞ知る名曲はもう充分だ、という気持ちもある。
彼には訊いてみたいことがたくさんあったが、この先はどんなに幸運な偶然や縁に恵まれようと、彼の口から本心を聴く機会は巡ってこない。今はとにかくそれが残念でならないが、自ら選んだ道だけを歩み続けてきた稀有な音楽家の眠りが安らかなものだったことを願いつつ、改めて最上級の敬意と感謝の気持ちを表したい。
Written By 増田 勇一
ジョン・サイクス『Please Don’t Leave Me』
1992年12月16日発売
購入
1. Please Don’t Leave Me (original version)
2. Don’t Take Nothing
3. Bad Times
4. All or Nothing
5. Don’t Give a Damn
6. Please Don’t Leave Me (short version)
7. Slave to Freedom (live)
8. Raised on Rock (live)
9. Paradise Drive
10. Love Potion No. 9″ (7″ mix)
11. Please Don’t Leave Me” (instrumental version)
*1、6、11はジョン・サイクスのソロ名義曲
*他楽曲はタイガース・オブ・パンタンの楽曲
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