Columns
ザ・ビートルズと1964年のアメリカ:『エド・サリヴァン・ショー』や主演映画での旋風
1964年2月7日、ザ・ビートルズが初めてアメリカに降り立ち、その2日後の2月9日の晩、”エド・サリヴァン・ショー”に初出演して以降、アメリカをはじめとする世界各国でビートルズ旋風が巻き起こってから60年。
その起点となったザ・ビートルズと1964年について様々な角度から焦点をあてる連載がスタート。
その第1回目は『1964年のザ・ビートルズ』。
<関連記事>
・ビートルズ、アナログ盤ボックス『1964 U.S. Albums in Mono』発売
・新作ドキュメンタリー『ビートルズ ‘64』配信決定
2024年は、ビートルズのアメリカ上陸60周年となる記念年。日本のレコード・デビュー60周年記念の年でもある。
毎年11月になると、ビートルズの会社「アップル」から、何らかの動きがある。昨年(2023年)は、ビートルズのまさかの新曲――ポール曰く“ビートルズ最後の新曲”――「Now and Then」が11月2日に発売された。映画『ザ・ビートルズ:Get Back』を手掛けたピーター・ジャクソン監督による斬新なミュージック・ビデオの相乗効果もあり、「Now and Then」は世界的にも大ニュースとなった。この10月に再び世界ツアーを開始したポール・マッカートニーが「Now and Then」を新たにレパートリーに取り入れたこともあり、余波は2024年の現在でも続いている。
さて今年は何が出るのか。期待を込めて待ち望んでいたところ、アメリカ上陸60年にふさわしい8枚組LPボックス・セット『The Beatles: 1964 U.S. Albums in Mono』が11月22日に発売されることになった。2枚組のドキュメンタリー・アルバム『The Beatles’ Story / ザ・ビートルズ・ストーリー(ビートルズ物語)』を除くLP6枚も、それぞれ単独作品として同時発売される。
併せてアップルは、1964年のアメリカ初上陸を描いた新たなドキュメンタリー映画『ビートルズ’64』も制作し(監督はデヴィッド・テデスキ)、こちらは、映画『ザ・ビートルズ:Get Back』や映画『ザ・ビートルズ:Let It Be』と同じくディズニープラスから11月29日より配信開始と決まった。
この連載では、キャピトル・レコードから発売された作品をまとめたボックス・セット『The Beatles: 1964 U.S. Albums in Mono』に焦点を絞り、具体的な内容や聴きどころ、さらに映画『ビートルズ’64』も絡めながら5回に分けて紹介する。
まず1回目は、「1964年のビートルズ」について。
初めてアメリカに降り立ったビートルズ
大まかに言って、ビートルズの人気は、1962年まではリヴァプール、1963年はイギリス国内、1964年はアメリカや日本、そして世界へと広がっていった。1963年までは、ビートルズはそれほど知られた存在ではなかったということになる。
実際、1月15日にフランス公演を開始した時は、まだそれほど熱狂的なファンがいたわけではない。追い風となったのは、キャピトル・レコードからの第1弾シングルとなった「I Wanna Hold Your Hand(抱きしめたい)」だ。発売1週間後にアメリカで100万枚を売り上げ、1964年2月1日付の全米チャートで1位を獲得した。
まさにこれからビートルズ旋風が起ころうという絶好の時期となった2月7日午後1時20分、ビートルズはニューヨークのジョン・F・ケネディ空港降り立った。出迎えたファンは3000人。宿泊先のプラザ・ホテル前では“We Want The Beatles!”の大合唱も起こった。ブリティッシュ・インヴェイジョンの幕開けだ。
そして2月9日、ビートルズは“アメリカで最も有名な音楽番組”といわれた『エド・サリヴァン・ショー』に生出演した。スタジオの観客数728人に対しチケットの申し込みは6万通を超え、この“歴史的瞬間”をアメリカ全土の2,324万世帯、7,300万人が観たという。ビートルズが出演していた間、ニューヨークの犯罪発生件数は過去50年間で最低だったというエピソードまで残されている。
2月11日、8,092人の熱狂的なファンを前にしてのワシントン・コロシアムでのコンサートを終えた4人は、翌12日に再びニューヨークに戻り、“音楽の殿堂”カーネギー・ホールのステージに立つという栄誉を得た。そして13日にはナショナル・エアラインズ11便でニューヨークからマイアミに発ち、16日にドーヴィル・ホテルで3,500人の観衆を前に、『エド・サリヴァン・ショー』への2回目の生出演を果たした。今回も2,244万5千世帯、7,000万人が番組を観たという。
17日以降は、水上スキーをしたり、エルヴィス・プレスリーの映画『アカプルコの海』を鑑賞したりと、主にマイアミで余暇を楽しみ、ニューヨーク経由で2月22日午前8時10分にロンドン空港に凱旋帰国した。こうして2週間のアメリカ滞在中にすべてのメディアを巻き込み、世界進出への第一歩を築いていった。ちなみに4月4日付の全米チャートでは、1位から5位を独占し、100位以内に14曲を送り込むという離れ業も演じている。
初の主演映画
続いて3月2日から4月24日にかけて、初の主演映画の撮影が、同名のサード・アルバムのレコーディングと並行して行なわれたまだアルバムを2枚しか発表していないイギリスの「新人」バンドなのに、1962年10月のレコード・デビューから1年後に主演映画も制作されるのだから、ビートルズは当時すでにイギリスでは最も人気のあるグループになっていた、ということだろう。
50年代半ばにイギリスに移住したアメリカ人のリチャード・レスターがアメリカ人のプロデューサー、ウォルター・シェンソンの依頼で監督を務め、脚本はリヴァプール出身のアラン・オーウェンが手掛けた。1963年10月には監督も脚本家も正式に決まっていたので、1964年のアメリカ初上陸に向けて、舞台裏では準備が徐々に進められていたのだった。
映画『ハード・デイズ・ナイト』(当時の邦題は『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』)は、7月6日にロンドン・パヴィリオンで初公開された。ロンドンで行なわれるテレビ・ショーに出演するビートルズの2日間をドキュメンタリー・タッチで追ったこの瑞々しいモノクロ映像作品は、日本でも同年8月1日に公開された。
世界的現象となったビートルズ
その間、ビートルズはさらに世界に目を向け、6月4日から29日まで、デンマーク・オランダ・香港・オーストラリア・ニュージーランドの5ヵ国を回る本格的な世界ツアーを敢行する。さらに、その勢いを持続したまま、8月19日から9月20日までの計33日間、2回目のアメリカ・ツアーが、カナダを含む24都市で計31回行なわれることになった。
この時期に、ニューヨークのホテル滞在中のビートルズをボブ・ディランが訪問するというロックの歴史に残る出来事もあった。特にジョンはボブ・ディランの影響を強く受け、まず「I’m A Loser」を書いた(4枚目のアルバム『Beatles for Sale』に収録)。
1964年も後半になると、アメリカでのビートルズ人気は最高潮に達し、リンゴが摘出した扁桃腺が欲しいという少女や、ビートルズの風呂の残り湯を買いたいという実業家が現れたり、ビートルズの息が入った缶詰が売り出されたり、ビートルズの使ったシーツやタオルが数センチ四方に切り売りされたり、という始末だった。ビートルズと名の付いたものなら、偽物だろうが何だろうが商売になる――。ビートルズの存在は、1964年にすでにアメリカでも社会現象になっていた。
こうして1964年、まさに“A Hard Day’s Night”を地で行くような1年間を体験した“England’s Phenomenal Pop Combo”(イギリスで社会現象にまでなったポップ・コンボ)は、アメリカで最初の頂点を迎えたのだった。
ザ・ビートルズ『The Beatles: 1964 U.S. Albums in Mono』
2024年11月22日発売
直輸入盤仕様/完全生産限定盤
8LPボックス / 限定カラーLP+Tシャツ / 単品 / カレンダー
- ザ・ビートルズ アーティスト・ページ
- ビートルズ、アナログ盤ボックス『1964 U.S. Albums in Mono』発売
- 新作ドキュメンタリー『ビートルズ ‘64』配信決定
- ザ・ビートルズ“ホワイト・アルバム”が全米TOP10に返り咲き
- ザ・ビートルズ『Sgt. Pepper』カヴァー・ヴァージョン
- ザ・ビートルズ関連記事