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ヒップホップは対立の歴史:隣町との抗争から東西抗争、二人の死まで
己を知ることの大切さを語るリリックや、ヒップホップ・ファンを団結させようという立派な試みは存在するものの、ヒップホップは基本、対立の上に築かれている。音楽ファンもヒップホップをムーヴメントとしてとらえており、その考えは正しい。ヒップホップは未だに、ポップの通常ルールに抵抗して成長するサウンドであり続けており、その時に最善と思われる表現方法を用いている。
しかし、音楽の表現方法を巡る戦いで、ヒップホップ・アーティストの間で内戦が勃発する――そして何よりも熾烈かつ残忍なのが、ヒップホップの東西戦争である。
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・ヒップホップとは何か、その定義とは
・50周年の年に考える、ジャマイカの影響と“パチモン”によるヒット曲
地域的な現象とレゲエからの影響
ヒップホップは元来、地域的な現象だった。DJがブルックリンやブロンクス周辺でブロック・パーティや公園でのパーティをやると、一緒に行動するクルーがいた。忠誠心が重要で、ラップ・クルーのファンは、マイクを持つ人物が、ファンの忠誠心に値するほどにエキサイティングな存在かを見極める必要があった。こうして、有望なパーティ・ポエトはマイクを握ると、数ラインのライムを披露して、本物のMCであることを証明するのだった。
ヒップホップの起源は未だ議論されているが、ひとつ明白なのは、70年代にニューヨークのストリート・サウンドを支配したモバイルDJたち――クール・ハーク、グランドマスター・フラッシュ、MCコーク・ラ・ロック――は、70年代のレゲエ・カルチャーに大きな影響を受けていたことである。
サウンドシステム同士のクラッシュという概念が音楽に活気を与え、MCたちはマイクを使い、自分たちの優位性を証明しようとした(例えば、70年代半ばにアイ・ロイとプリンス・ジャズボがリリースした一連のディス・シングルや、ショーティ・ザ・プレジデントの「President Mash Up The Resident」のレコードを聴いてみてほしい)。
ジャマイカン・ミュージックで‘クラッシュ’と呼ばれたものは、ラップでは‘バトル’となり、ジャマイカ生まれのクール・ハークと、才能ある彼のフォロワーたち(グランドマスター・フラッシュ、アフリカ・バンバータ等)はこの概念を推進し、ブロンクス一帯でブレイクを巡る対決を行った。
そして70年代にニューヨークのラッパーたちが初めて公の場でマイクを握った時、彼らが考えることは2つだった。パーティ・ラップで観客を盛り上げることと、そして自分がライヴァルよりも優れていると証明することである。
こうしてマスター・ジーは、「俺は最高にヤバいラッパーとして歴史に名を残す」と、シュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」(音楽ファンの大半にとって、初めて聴いたラップ・レコード)で大言壮語している。ラップはパーティで生まれたかもしれないが、最初から食うか食われるかの世界だったのだ。
ライバルを打ち負かす!ディスからビーフへ
自分の実力を示し、向かってくる相手と戦うという概念が、ヒップホップのDNAの一部となり、この概念が常に顔を出した。RUN DMCの「Sucker MC’s」、LLクールJの「Mama Said Knock You Out」、EPMDの「Strictly Business」、アイス-Tの「Rhyme Pays」……ライバルを打ち負かすと定期的に宣言していなければ、MCにはなり得なかったほどである。
当初、‘サッカー(腰抜け/suckers)’とディスられるライバルは、ごく身近な人物――近くに住んでいる者や、近くのサウンドシステムの連中だった。しかし、80年代半ばにヒップホップが大きなビジネスとなると、他のプロデューサーお抱えのMCや、他の街に住むMCがライバルとなった。
こうしたディスは、あくまでヒップホップの生まれ持った気質で、尊重されるべき伝統であること、もしくはリスペクトやパブリシティを得るための方法にすぎないことを大半のラッパーは知っていたが、ヒップホップの歴史を知らないラッパーや、業界ナンバー・ワンのマイクロフォン・ピンプというイメージに憑りつかれたラッパーは、そのビーフ(諍い)をさらにエスカレートさせ――最終的には悲劇的な結末を招いた。
東海岸ラップの隆盛
80年代半ば、ニューヨークはウェスト・コースト・ラップの隆盛に対する準備ができていなかった。今日になって、これが明白になったように思われる。ニューヨークは、それまで5年以上もの間、ヒップホップを独占しており西のことは眼中になかったのだ。
20世紀初頭、英国の軍人が戦争は血縁関係のような相手(ドイツ)ではなく、従来の敵(フランス)とするものだと信じていたように、イースト・コーストのラッパーは、偏狭的なバトルを続け、その間にウェスト・コーストは兵器を製造していた。そしてイースト・コーストは、全てが自分たちの有利に進展すると信じきっていた。実際、1986年までのラップの進化は、全てがニューヨークの5つの区が発祥である。パーティ・ラップ、エレクトロ、ロック・ラップ、コンシャスな‘エデュテインメント’・ヒップホップ、女性MC、政治的なラッパー等、あらゆることがニューヨークから始まった。
ニューヨークはその後も、ヒップホップの進化を後押しする力を持った才能ある新人を永遠に送りだすパイプラインを持っているかのようだった。フーディニ、マントロニクス、ロクサーヌ・シャンテ、ハービー・ラヴ・バグ、マーリー・マール、エリックB&ラキム、ピート・ロック&CLスムース、ブギ・ダウン・プロダクションズ、ジャスト・アイス、ウルトラマグネティックMCズ……イースト・コースト・ラップの天才は続々と登場した。
ニューヨーク以外の地域での発展
ニューヨーク以外のヒップホップは、追いつくまでにしばらく時間を要したが、それでも世界的な別シーンで注目を集めはじめていた。ロンドンで開催された史上最大のヒップホップ・イヴェント、UKフレッシュ86には、フィラデルフィアのステディ・B、LAのドクター・ドレーが在籍していたLAのワールド・クラス・レッキン・クルー、地元シアトルで話題だったサー・ミックス・ア・ロットが出演した。
とはいえ、ホイッスルを持ってパーティしに来た英国の観客が地域による差異を理解していたかは疑わしい。同イベントのプロモーションには、ストリート・サウンズ・レーベルも関わっていた。同レーベルがリリースしていたコンピレーション・アルバム・シリーズ『Electro』は、80年代初頭から半ばにかけて、英国の平均的なBボーイ気取りのファンが聴く曲を決定づけていた。『Motown Chartbusters』や『Tighten Up』といったコンピレーション・シリーズが前世代で誇っていたような影響力を持っていたのだ。
ストリート・サウンズは、エレクトロ・マーケットに特化してビジネスを行っていたが、高予算で運営されていたわけではないため、輸入盤で何が売れているかに敏感だった一方で、コンピレーションに収録する楽曲の選択については、おそらく使用料金や権利者の協力度によって決まっていたと思われる。
そのため、エジプシャン・ラヴァーや後に N.W.Aの要となるアイス・キューブを擁していたCIAといったLAのアーティストが、UTFOやダグ・E・フレッシュといったニューヨーカーとともに収録されていた。つまり、こうしたレコードは、特定のシーンや音楽のスタイルを代表していたために収録されたわけではなく、輸入盤で人気が高く、使用許諾料が手頃だったために収録されたのだ。
しかしこうして、ウェスト・コーストのヒップホップは、ローカル・シーンを越えて聞かれるようになった(ニューヨークでは注目されずに終わっていたが)。そして、カリフォルニアのアーティストは未だイースト・コーストのアーティストにインスピレーションを求めていたものの、そのヒップホップ・スタイルは融合し、大きくなりつつあった。
ウェスト・コーストのスタイルが起動
ウェスト・コースト・スタイルの礎として引き合いに出されることが多いのは、並々ならぬBボーイ/ピンプ・スタイルで、警察との揉め事を詳述した「6 In The Mornin’」だ。1986年にリリースされた同曲は、ニュージャージー生まれだがLA在住歴の長いMC、アイス-Tによる5枚目のシングルで、フィラデルフィアのスクーリーDに大きな影響を受けている。
スクーリーDは大きな影響力を持っていたが、あまり楽曲をレコーディングしておらず、決して広く聴かれているわけではなかった。徹底した独立主義の彼は、ライバルには情け容赦なく、ストリートで目にした‘ギャングスタ’な生きざまをラップしていた。
ニューヨークは彼の見事なスキルにリスペクトを示していた一方、ウェスト・コーストでは、スクーリーDのスキルからアイス-TやN.W.Aのようなスタイルが派生し、テキサス州ヒューストンではゲトー・ボーイズがスクーリーDの功績を手本とした。 イージー・Eの「The Boyz-N-The Hood」(アイス・キューブのペンによる1987年の楽曲)は、アイス-Tの上記ヒット曲、つまりはスクーリーDに負うところが大きい。こうしてイースト・コーストの力を貸りて、ウェスト・コーストのスタイルは起動したのだった。
東高西低の時代
その頃、イースト・コーストでは通常通りのビジネスが行われていた。ヒップホップは1987年もヒットを連発、人気のラップ・アルバムは25万枚のセールスを上げることができた。イージー・Eの12インチやN.W.AのEP『Panic Zone』がウェスト・コーストからリリースされ、ほとんど話題にならなかった一方で、ニューヨークはラップで一儲けしたアーティスト達に恵まれ、彼らがヒップホップを新たな高みへと押し上げた。
そして、エリックB & ラキムの『Paid In Full』や、ブギ・ダウン・プロダクションの『Criminal Minded』、パブリック・エネミーのデビュー・アルバム『Yo! Bum Rush The Show』に加え、ステッツアソニックやジャングル・ブラザーズ、ウルトラマグネティックMCズの傑作シングル等が生まれた。翌年、ニューヨークはパブリック・エネミー、ビズ・マーキー、エリックB & ラキム、EPMD、ブギ・ダウン・プロダクションのパワフルな作品をさらに送りだした。しかし、1988年8月9日、ヒップホップは方向性を変え、突如としてもうひとつの中心地を持つこととなる。
Straight Outta Comptonの衝撃
N.W.Aの『Straight Outta Compton』は、従来のスタイルを破ったわけではない。サンプリングについては目新しい手法もなく、彼らのヒップホップの方向性は、既に他のアーティストが指し示していたものだった。しかし言うまでもなく、ドクター・ドレー、アイス・キューブ、MCレンが中心となった同グループは多くを主張し、イージー・Eは独特の声でラップした。
DJイェラとドレーの共同プロダクションは、パブリック・エネミーのレコードをプロデュースしていたザ・ボム・スクワッドに比べれば、洗練性と先進性には欠けていたかもしれないが、ファンキーな楽曲でありながらも、リリックにスポットライトを当てるという意味では、この上なく効果的だった。
N.W.A.のリリックは、ターゲットとするオーディエンスが‘ゲットー・ライフの厳しい現実’と考える事項に焦点を定めていた。しかし、彼らのターゲットに入らないリスナーは、そのライムについて、ほとんど犯罪的であるととらえ、ニヒリズムに満ち、女性や権力(特に警察)を侮辱していると考えた。当然のごとく、当時の大メディアであったラジオではオンエアされなかったが、アルバムは成功し、これまでのヒップホップ・レコードにはないほどのセンセーションを巻き起こすと、口コミ(もちろん悪い評判も含め)だけで100万枚を売り上げ、プラチナ・ディスクを獲得した。
『Straight Outta Compton』はイースト・コースト・ラップの要素をまとめ上げながら、それをダイヤモンド並みの硬度にまで磨き上げると、カリフォルニアのゲットーのギャングスタ・ライフを語るラップに再構築した。ニューヨークと覇権争いができる勢力がようやく現れたのだ。
親が忌み嫌うアルバムとして成功
1988年、ニューヨークにチャレンジを挑んだのは、N.W.Aのアルバムだけではない。ゲトー・ボーイズも、まだ成功には辿りついてはいなかったものの、デビュー・アルバムをリリース。そして、アイス-Tのセカンド・アルバム『Power』は9月にリリースされ、全米アルバム・チャートで36位に入り、それまで最高位37位だったN.W.Aのアルバムよりも1ランク上を記録した。ラップ・チャートでも同様の結果が出たが、『Straight Outta Compton』は最終的にはより多くのセールスを記録し、長期的にはより大きな文化的影響力を誇った。
激怒した体制側の注目は、上記2アーティストに集中した。彼らはFBIから‘家族の利益’を代表するグループに至るまで、あらゆる方面から攻撃を受けた。ラップは当時のブラック・アメリカの悪の原因とされ、スケープゴートとなったのは全てLA出身のアーティストだった。しかし都合の良いことに、これはアーティストにとって格好のプロモーションとなった。
また、意図せぬボーナスは他にもあった。新たに導入された“ペアレンタル・アドヴァイザリー”のステッカーである。このステッカーが貼られたラップ・アルバムは実質、‘親が忌み嫌うアルバム’であるという印になり、若い顧客の購買意欲をかき立てた。ウェスト・コーストのギャングスタ・ラップは、アメリカの反抗的なティーンにとって、最高のサウンドトラックとなったのだ。
一生安泰だと思っていたニューヨーク・ラップをさらに複雑にしたのは、そのサウンドの変化である。ジャングル・ブラザーズのデビュー・アルバム『Straight Out The Jungle』やラキム・シャバズの『Pure Righteousness』はヒップホップを違った解釈でとらえている。一方はファンキーで茶目っ気とユーモアがあり、他方は鋭く質素でシリアスだった。
前者はデ・ラ・ソウルの「D.A.I.S.Y. Age」サウンドの先駆けとなり、後者はダウンビートでハードなスタイルを提供し、ブレイクと緊迫したライムを持つ音楽へと立ち戻った。ニューヨークはこうした選択肢を提供したが、大衆はこうしたアルバムよりもギャングスタ・ラップを購入していた。
イースト・コーストの急進的な進化
基本に戻る代わりに、イースト・コースト・ヒップホップの急進的な進化は衰えることなく続いた。これは称賛に値するものだった。ニューヨークはブレイクダンスのリノリウム(板)をたたみ、カリフォルニア・スタイルの変型を作ることもできたが、その代わり1989年にギャング・スターのデビュー・アルバム『No More Mr. Nice Guy』を提供し、「ジャズ・ラップ」という素晴らしいフュージョンの先駆けとなったのだ。
また、サード・ベースの『The Cactus Album』も同年の作品だ。これは、メンバーの大半が白人のヒップホップ・グループの作品の中でも特に傑作とされる1枚である。ビースティ・ボーイズの『Paul’s Boutique』、ジャングル・ブラザーズやブギ・ダウン・プロダクションのアルバムもリリースされた。しかし、レコードの売り上げは、N.W.A、アイス-Tの『The Iceberg』、そして同年のラップ界を大いに沸かせたトーン・ロックの全米チャートで首位を獲得した『Lōc’ed After Dark』に軍配が上がった、そう全員がウェスト・コーストのアーティストだ。
絶賛されたデ・ラ・ソウルの『3 Feet High And Rising』は、今日では“史上最高”の栄誉を欲しいままにしているが、当時の全米チャートでは、24位に終わっている。商業的な意味では、そしてヒップホップの主脈を誰が持っているかという意味においてはウェスト・コーストが1989年の戦いを制した。
東西戦争
LAで活動するイースト・コースト生まれのラッパーが、ラップの東西戦争を始めたというのは、興味深い話である。アイス-Tが「I’m Your Pusher」(アルバム『Power』で最も聞かれた楽曲だ)でLLクールJをディスった意図は未だはっきりしない。
しかし、LLクールJ を攻撃していたMCはアイス-Tの他にもいた。LLクールJはロマンティックな「I Need Love」をレコーディングしたことで、非難の的となっていたのだ。ロンドンのギグで同曲を始めた時には、野次られてブーイングを受けた。
アイス-Tは「Girls L.G.B.N.A.F.」を書き、LLクールJのラヴ・ラップを冷笑した。しかし彼は後年、おそらく自分の利益のため、もしくは話題作りのために、ライバルとの騒ぎを起こそうと思っただけだと話している。
どちらにせよ、自尊心に満ちたラッパーの例に漏れず、LLクールJはこのディスを見過ごさず、1990年に「To Da Break Of Dawn」というアンサー・ソングをリリース。LLクールJは同曲で、アイス-Tのライムの才能、ファッション・スタイル、バックグラウンド、さらにはガールフレンドのダーリーン・オーティズのことまで嘲った。なお、ダーリーン・オーティズは、肌を露出した水着姿で『Power』のジャケットに登場している、手にはショットガンを持ちながら。
戦闘が始まった。おそらく最初はちょっとした冗談のつもりだったのだろうが、その後、東西戦争は誰も予想だにしなかった事態へとエスカレートしていく。
様々な争い
その前に、ラップは長い間、縄張りをめぐる争いをしていたことをおさらいしておこう。LLクールJは80年代、クール・モー・ディーともビーフ(諍い)を起こし、カリフォルニア州オークランドのラッパー、MCハマーをレコード上で攻撃した。
もうひとつの無作法な争いはさらに長引いた。これは、ヒップホップのルーツを巡るバトルで、ニューヨークの2つのエリアが争っていた。マーリー・マールのジュール・クルーが代表するクイーンズブリッジと、KRSワンとブギ・ダウン・プロダクションが弁護するサウス・ブロンクスだ。あちこちから批判されながら素晴らしい才能を持つLLクールJも、この争いに引きずり込まれた。
両者が自分の主張が正しいとばかりに、LLクールJを引き合いに出したのだ。別の争いとしては、1991年にKRSワンがニュージャージーのクロスオーヴァ―・ヒップホップ・グループ、P.M.ドーンをステージから引きずり下ろした事件がある。KRSワンは、P.M.ドーンのフロントマン、プリンス・ビーがインタヴューで発言したことに腹を立て、ショウを乗っ取ったのだった。イースト・コーストのスター同士でもバトルするのだ。ウェスト・コーストから新たに現れたライバルに容赦するわけがないのは明らかだった。
加速する闘争
1991年、カリフォルニアとニューヨークの争いは、さらに加速した。ブロンクス出身のMC、ティム・ドッグは、ロサンゼルス市一帯に対して大きな怒りをぶつけた。「Fuck Compton」は、当時のヒップホップとしてはこの上なくヘヴィーかつハードで、センセーションを巻き起こした。
ティム・ドッグは、音楽業界がニューヨークのラップに興味を失い、ウェスト・コーストの音楽を贔屓していると感じたフラストレーションをきっかけにウェスト・コーストの中心をディスった同曲を作ったとされている。この頃、『Straight Outta Compton』のヒット後、コンプトンズ・モスト・ウォンテッド、トゥー・ショート、DJクイック、アバヴ・ザ・ロウ等、ウェスト・コーストのアーティストが、たちまち名声を獲得していた。
確かに、ティム・ドッグのレコードには、手っ取り早く曲を聴いてもらおうという意図もあった。彼がかつて在籍していたグループ、ウルトラマグネティックMCズは80年代半ば、徹底的なヒップホップの名曲を次々にレコーディングしていたが、アンダーグラウンドな名声を得るにとどまっていたこともあるだろう。
「Fuck Compton」は、しっかりとドクター・ドレー、イージー・E、ミシェレイ、MCレンをディスしていたが、アイス・キューブとアイス-Tはその口撃を逃れた。デビュー・アルバム『Penicillin On Wax』では、ティム・ドッグはさらに過激さを増し、N.W.Aがアルバム『Efil4zaggin』で使ったのとビートを使ってそれを改編すると、「お前のビートを盗んで、改良してやった」と自慢げに語り、同グループのことを‘プッシー’を呼んで蔑んでいる。LAのヒップホップ・アイコン、DJクイックも標的となり、ティム・ドッグがDJクイックを殴るスキットも登場する。
当然のことながら、ウェスト・コーストのアーティストは、こうした侮辱を甘んじて受け入れなかった。ドクター・ドレーは、スヌープ・ドギー・ドッグを初めて送りだし「Dre Day」で応戦。DJクイックは「Way 2 Funky」、コンプトンズ・モスト・ウォンテッドは「Another Victim」と「Who’s Fuckin’ Who?」をリリース。
さらに、ロドニー・O & ジョー・クーリーは『Fuck New York』と題したアルバムをリリースし、大いに侮辱されたDJクイックは、前述の曲の後にペントハウス・プレイヤーズ・クリックと一緒に「PS Phuk U 2」をリリースした。
事態の深刻化
リアルであることが極めて重要とされ、リスペクトが不可欠とされるヒップホップという音楽において、取るに足らない冗談のつもりで放たれた言葉が、遥かに深刻なこととして受け止められることもある。
クイーンズのラップ・グループ、サード・ベースが、コンプトンに隣接するカーソン出身のサモア系アメリカ人ヒップホップ・バンド、ブーヤー・トライブと一緒に公演をした時のことだ。サード・ベースは公演前、ユーモラスでほとんど罪のないディス・ソング「The Gas Face」の中でブーヤー・トライブの名前を出すなと警告を受けた。
また、ほんの些細なことが、ことを荒立てることもあった。性的に露骨ながらも、紛れもない才能が光るラップで何百万枚ものアルバムを売り上げていたトゥー・ショートは、ニューヨークで行われた自身のレコード・リリース・イベントで野次られた。彼の発言が原因だったわけではなく、彼がカリフォルニア出身というだけで嘲られたようだ。
アイス・キューブはN.W.Aを脱退し、革新的なデビュー・アルバム『AmeriKKKa’s Most Wanted』のプロデューサーにパブリック・エネミーのサウンド・プロデューサー・チームのザ・ボム・スクワッドを選んだ。このことから、東西の諍いは意味がないことが証明されたと思った人々もいるだろう。東西の一流アーティスト(パブリック・エネミーと元N.W.A)が手を組み、ほぼ間違いなく史上最高のギャングスタ・ラップ・アルバムと評されるアルバムを作ったのだから。
大半のビーフは、言葉で相手を侮辱するだけのものに過ぎなかった。そして、理論上は「棒や石は人を傷つけるかもしれないが、言葉で人は傷つかない」という言葉が当てはまるはずだったが……言葉はラップの通貨であることを心に留めておかなければならない。そして、通貨(金)というものは誰からも欲しがられるものである。人々は金のために生き、そして死ぬのだ。90年代、血を見るほどに激化した東西戦争を見れば、これは明らかである。
トゥパックとビギー
トゥパック・シャクールは、デジタル・アンダーグラウンドのダンサーから、90年代にはヒップホップの一大アイコンへと大躍進した。彼のキャリアは、多くのラッパーから羨望されたことだろう。トゥパックは、高校の時には演劇の授業を受け、シェイクスピアを愛し、強い社会的良心を表現することもあった繊細で文学的な人物だったが、ヒップホップのライバル文化に大きな投資をしていた。
ニューヨークのイースト・ハーレムで生まれて幼年期を過ごし、後にカリフォルニア州マリン・シティへと移住した彼ならば、東西の仲裁役になれたはずだ。しかし、そうは行かなかった。
トゥパックの同胞の1人には、ブルックリン出身のMC、ビギー・スモールズ、別名ザ・ノトーリアス・B.I.G.がいた。1994年9月にリリースされたビギーのデビュー・アルバム『Ready To Die』は、Nasの『Illmatic』と並んで、ヒップホップの中心の座をウェスト・コーストからイースト・コーストへと戻したアルバムだ。ビギーがアルバムを制作し、アルバムがチャートを駆け上がっていた頃、2人はよく一緒にいた。しかし、すぐにその関係はこじれた。
1994年11月、トゥパックはマンハッタンのスタジオで強盗に遭い、撃たれたのだ……その時、ビギーもスタジオにいた。トゥパックは翌年4月、ビギーは強盗について事前に知っていたと主張し、バッド・ボーイ・レコード重役のアンドレ・ハレルとショーン・‘パフィ’・コムズは事件に関与しているとほのめかした。しかし、これらの主張は強く否定された。
この時までに、トゥパックは第一級性的虐待のかどで服役しており、9カ月後に出所した時には、デス・ロウ・レコードのCEO、シュグ・ナイトが彼の保釈金を支払っていた。デス・ロウは、トゥパックがアルバム3枚契約を結んだレーベルである。
1995年2月、ビギーは「Who Shot Ya?」をリリース。「I’m Crooklyn’s finest/ You rewind this, Bad Boy’s behind this.(俺はクルックリンことブルックリン最高のラッパー/巻き戻して聴けよ、バッド・ボーイがこれに関与してる)」というリリックを含む同曲は、トゥパックへのディスととらえられていた。ビギーもショーン・コムズも、同曲はトゥパックが撃たれる前にレコーディングされた曲だと言明したが、それでも同曲のリリースは、リリックの真のターゲットが誰であれ、扇動的とみなされた。そして流血の事態が起こったが、何の決着もつかなかった。
トゥパックが、「Hit ‘Em Up」「Bomb First (My Second Reply)」「Against All Odds」といったレコードで反撃する間、デス・ロウとバッド・ボーイの対立は深まっていった。両社は、非常に自己主張が強く大衆によく知られているリーダー(ショーン・コムズとシュグ・ナイト)、ヒップホップ界の2大アーティスト(ビギーとトゥパック)、そして保つべき評判があった。
ビギーはトゥパックのレコードに直接返事をしなかったが、多くのファンはビギーの「The Long Kiss Goodnight」がトゥパックについての曲だと信じた。ただし、ショーン・コムズはこれを否定している。
二人の死
デス・ロウとバッド・ボーイの間のプレッシャーは耐えがたいものになりつつあった。そして1996年9月13日、トゥパックがラスヴェガスで走行中の車から撃たれて死亡した時、エンターテイメント界はショックを受けた。
そして1997年3月9日、ザ・ノトーリアス・B.I.G.は、ロサンゼルスで銃撃を受け殺害された。ラップ界で最もパワフルな二つの声が殺された。様々な調査が行われ、憶測や意見が飛び交い続けているが、どちらの事件も未だ解決していない。
最も才能に恵まれたヒップホップ・アーティスト2人の殺害を矮小化してはいけない。弾丸は曲ではなく、発砲は侮辱ではない。2人の若者が、自身のアートのために命を落としたのだ。他のポピュラー・カルチャーと比較することは、理にかなってはいるものの、間違っている。アル・パチーノは『スカーフェイス』に出演したかもしれないが、その後に撃たれてはいないし、彼は実世界で犯罪を犯したことはなかった。
ヒップホップで重要な点は、リアルさである。ヒップホップはストリートの声なのだから、真実味がなければならない。特にギャングスタ・ラップでは、その傾向が強い。ザ・ノトーリアス・B.I.G.は、ドラッグの取引で刑期を務めた。トゥパックは幾度か刑務所に入った上に、彼の家族は政治活動家で、警察と揉めることも多かった。つまり彼らは、口先だけで粋がっていたわけではないのだ。
『Ready To Die(死ぬ準備はできている)』、「Suicidal Thoughts(自殺念慮)」、サグ・ライフ(ギャング・ライフ)、『Me Against The World(世界を敵に回す俺)』等、こうしたタイトルは単なる見せかけの態度ではなかった。ビギーの曲のとおり、「Somebody’s Gotta Die.(誰かが死ぬことになる)」ことが現実に起きたのだ。
そして、誰かが泣くことになる。ビギーは2人の子どもを残して死んだ。そして、どちらのラッパーも、何百万人ものファンを悲しませた。デス・ロウもバッド・ボーイも、2人が他界した後にも楽曲をリリースし、その中には他のアーティストを侮辱するものもあった。しかし2人の死後、イースト・コーストとウェスト・コーストの消耗戦は下火となった。そしてショーン・コムズは、ミリオンセラーを記録した自身のデビュー・アルバム『No Way Out』収録の「I’ll Be Missing You」でビギーの死を嘆いた。
団結
アイス・キューブの「The Drive By」や、ブーヤー・トライブの「One Upon A Driveby」から、2人のラッパーがそれぞれ走行中の車からの襲撃で銃殺されるまでに状況は大きく変わった。また、かつてニューヨークのブロック・パーティで大いに盛り上がったMCの無邪気な大言壮語から、ラップを巡る事態は大きくかけ離れた。
「俺は歴史に名を残す/史上最高のラッパーとして」というライムは、近年では全く無邪気に聞こえる。しかし、シュガーヒル・ギャングのマスター・ジーは未だにライムしており、彼が黎明期に携わったヒップホップと言う音楽スタイルは、何十億規模のビジネスへと成長した。
ウェスト・コーストのアイコン、ドクター・ドレーも、ヒップホップの重鎮となった。ドクター・ドレーは、80年代後半から90年代初頭にN.W.Aが誇った影響を見直した2015年公開の伝記映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』の撮影にインスパイアされ、自身がかつて先駆けとなったウェスト・コーストのギャングスタ・サウンドを現代にアップデートしたアルバム『Compton』をリリースした。
このアルバムはドクター・ドレーにとって、ヒップホップの前線からの引退作品であると広く噂されている。アイス・キューブやスヌープ・ドッグ等のゲストの中でも特に傑出していたのはケンドリック・ラマーだ。彼はアルバム『Good Kid, MAAD City』と『To Pimp A Butterfly』で、新たなウェスト・コーストのアイコンとして浮上し、コンプトン、そして団結の旗を振るのだった。
最後の言葉は、ブリッジ・ウォーズに参加したアーティストの1人に送ろう。この争いは、2007年にマーリー・マールとKRSワンがともにアルバム『Hip Hop Lives』を制作したことで、休戦を迎えた。1989年、KRSワンはチャリティ活動「Stop The Violence Movement」の中心人物で、ここから生まれたシングル「Self Destruction」のリリックで、彼はこうラップしている。
To crush the stereotype, here’s what we did
We got ourselves together
So that you could unite and fight for what’s right
ステレオタイプを破壊するため、これが俺たちのやったこと
俺たちは団結したんだ
団結して、正しいことのために戦えるように
イメージに沿って生きること、つまり、ステレオタイプ通りに生きることで、‘自分’が破壊されることもあるのだ。
Written By Ian McCann
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