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ベートーヴェンの傑作、交響曲第3番《エロイカ(英雄)》を再発見しよう
ベートーヴェンの革新的な交響曲第3番《エロイカ》にまつわる話で作品を再発見しよう。
―音楽界を変えた偉大な傑作だ。
ベートーヴェンの交響曲第3番変ホ長調《エロイカ》は、音楽界を変えた、彼の決定的な代表作といえる。管弦楽は、一気に、それまで夢みていたものを超えた、幅広い概念と感情的、文化的な繋がりや範囲の別次元へと突入する。ベートーヴェンは当初、《エロイカ》交響曲をナポレオンに献呈していたが、彼が自分を皇帝に任命して即位したと聞くと、怒りでナポレオンの名前を削除してしまった。交響曲は1805年4月7日にオーストリア、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場にて初演された。当初、作品への反応は賛否両論であったが、《エロイカ》交響曲は、はるか未来へと影響をおよぼした。
おすすめのヘルベルト・フォン・カラヤン指揮・ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン:交響曲第3番《エロイカ》の演奏を聴いて、下にスクロールし、この影響力のある傑作の背後にある物語を発見しよう。
ベートーヴェンの交響曲第3番《エロイカ》を再発見しよう。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、交響曲第3番《エロイカ》の楽譜に記した献辞を、強くこすって紙に穴を開けて消してしまったという話がある。最終的には、表紙に「ある英雄の想い出のために作曲」という謎めいたコメントが残された。切り取られた言葉は、ナポレオン・ボナパルトについて言及したものだった。
ベートーヴェンは、最初、フランス革命からの流れでナポレオンが掲げたプロメテウス的な、自由と変革への希望を崇拝していた。しかし、友人のフェルディナント・リースから、ナポレオンが自身を皇帝に任命するというニュースを知らされると、ベートーヴェンは「彼もまた普通の人間に過ぎないのか。今や彼さえも、人間の権利を踏みにじり、自分の野心のみを追求するというのか!」と嘆いた。(リースの回想より)。
ベートーヴェンの「英雄的」な作曲の時代の始まり
この時に味わった幻滅こそが、ベートーヴェンの交響曲第3番の献呈ばかりか、芸術的な運命を変えることになった。1801-02年に彼が最初に前例のない規模と野心にあふれた作品の構想をスケッチし始めた時、彼はそれに完全な標題音楽として明白な「ボナパルト」というタイトルを付けるつもりだった。
しかし、結局は「シンフォニア・エロイカ(英雄的交響曲)」という、より広義な印象を与える言葉に転化されたのだ。革命があるとすれば、それは音楽そのものの中にある、というわけだった。これがベートーヴェンの作曲における「英雄的」な時期の始まりで、“新しい道”を築き上げようとした。この曲以上に彼のそのような意図や、それを達成するために成し遂げた熟練度を示す作品は他にない。
ベートーヴェン:交響曲 第3番 変ホ長調 作品55《エロイカ》
第1楽章:アレグロ・コン・ブリオ
交響曲《エロイカ》の変ホ長調の調性は、当時、人道的で高貴であり、“啓蒙的”な調性であると受け止められていた。これは第1楽章からではなく、終楽章からとられたもので、彼の同じ調性によるバレエ音楽《プロメテウスの創造物》の主題をベースとしたものだった。
プロメテウス(オリンポス山のギリシャ神話の神々から火を奪って人類に火をもたらし、恐ろしい罰を受けた巨人)のイメージを、我々はナポレオンとベートーヴェンのどちらか、あるいは両者に見出すべきなのだろうか? プロメテウスのイメージは、正当な理由があってそこに置かれているのだ。フィナーレの冒頭を飾る輪郭のある和音は、作品全体を通した、萌芽的なモチーフなのだ。
第1楽章の主題もそれに基づいており、ベートーヴェンは半音階的な傾斜で脱線するかのように音楽をひねる。しかしこのひねりこそが、この楽章全体の本質を表している。すべての構想が絶えず動き続ける。それは、「ソナタ形式」という概念をはるかに超えているが、その対立する要素やコントラストと展開は健在で、他と違うのは展開が永遠に続くところだ。
最近発表されたジャン・スワッフォード著のベートーヴェンの伝記には、「この音楽は、何ものかに成る過程を描いたものだ。ここにあるのも、また抽象的で象徴的な要素である。“英雄”が何かを追い求めて努力する。それを勝利と呼ぼう。彼の本領発揮と呼ぼう」と記されている。
第2楽章は葬送行進曲。大きな疑問は、その理由である。
第2楽章は葬送行進曲となっているが、大きな疑問はその理由である。ナポレオン自身は30代半ば(ベートーヴェンより1歳年上)で活力に溢れており、彼の多くの軍事作戦の中でも最も血なまぐさいものが将来に控えていた。それゆえに、ベートーヴェンが、当時の彼の英雄の死を想像したという一般的な仮説は、少し奇妙に思えるのだ。
ベートーヴェン:交響曲 第3番 変ホ長調 作品55《エロイカ》
第2楽章:葬送行進曲(アダージョ・アッサイ)
葬送行進曲は、フランス革命後に新しい壮大さが人気となった、儀式のための音楽のスタイルで、フランスの伝統として発展したものだ。ベートーヴェンは、この少しニッチなジャンルにおいて、特異な興味を抱いたようだ。1800-01年に書かれた彼のピアノ・ソナタ作品26の一部は「英雄の死のための葬送行進曲」と題された主題の変奏曲となっている。ピアノ・ソナタ作品27の2《月光》(1801年に完成)の第1楽章の主題にも、奇妙にもそれと似た性質の特徴的なリズムが含まれている。
これが、彼にとって純粋に音楽的な興味を超えた重要性をもっていたのかどうかは、議論が分かれるところだ。確かなことは、彼の耳が20代の頃から聞こえなくなってきていたことだった。おそらく、チフスの一種、耳硬化症、あるいは何か他の原因によるものだろう。そして悪化する状況を受け入れようとしていた矢先の1802年に危機が訪れた。
いわゆる「ハイリゲンシュタットの遺言」の中で、二人の弟たちに宛てて、自殺を考えたことを打ち明けている―「私を引き留めたのは芸術だけだった…私の中にあると感じるものをすべて出し切るまでは、この世を去ることができないと思った」。彼はこの交響曲の葬送行進曲で、自分自身の過去を埋葬したのだと考えたとしても、それほど非現実的なことではないだろう。
スケルツォが音楽を生命、空気、そして精神に引き戻す。
スケルツォは、ベートーヴェンがいつもそうであるように、音楽を生命、空気、そして精神へと引き戻す。トリオのセクションは、実際に三重奏の形を呈し、3本のフレンチ・ホルンが太陽に照らされたかのようなアンサンブルをもたらして、この作品が、はじめて2本以上のホルンを取り入れた交響曲となったことを強調している。
ベートーヴェン:交響曲 第3番 変ホ長調 作品55《エロイカ》
第3楽章:スケルツォ(アレグロ・ヴィヴァーチェ)
ベートーヴェンが葬送行進曲に魅了されたのだとしたら、主題と変奏というもう1つ別のジャンルは、彼に生涯にわたる恋愛関係をもたらした。初期のあまり知られていないピアノ作品から、巨大な《ディアベッリ変奏曲》作品120に至るまで、この形式は彼にとって、独立した形式、多数のソナタや室内楽の中で、無限の可能性を秘めたものとなった。
《エロイカ》交響曲の最終楽章は、その最たる例だ。曲は和声とリズムの外郭をなぞるような形で始まり、そこからプロメテウスの主題が徐々に姿を現す。ベートーヴェンは、その後に続く変奏を展開させて、完全に構造化されたグランド・フィナーレで勝利を収める。
作曲家がこの《エロイカ》交響曲を自身で指揮して私的な初演を行ったのは、1804年、8月にウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸(現在の市の演劇博物館)の宮殿でのことだった。ここからが本題だ。あのこすって消された献辞を思い出してほしい。ロプコヴィッツ侯爵にはパトロンの代表として、この作品が出版され、公で演奏される前に、彼自身への献辞と数ヵ月の私的な使用権が与えられたのだった。
ベートーヴェンの王室の庇護への依存と、自由と平等を求める情熱との間に哲学的な対立があると感じるのは間違いではない。だが、ベートーヴェンがナポレオンに幻滅する前に、パリへ移住しようとしていたことを考えると、リースの「ボナパルト」説も、その理想主義に照らすと、否定することはできないのだ。
《エロイカ》交響曲の公の初演は、1805年4月7日にアン・デア・ウィーン劇場にて行われたが、この豪華なオペラハウスは、ベートーヴェンがこの交響曲を書いていた1803年から04年にかけて、コンポーザー・イン・レジデンス(常駐作曲家)として滞在していた場所だった。彼は劇場の敷地内にあるアパートで生活してオペラを作曲するように求められていたため、文字通り、そこに常駐していたのだ。
(そこからまた別の物語が生まれることになる)
最初、作品への反応は分かれた。
この作品に対する反応は、当初は賛否両論だった。ベートーヴェンの友人たちは、最初から傑作だと確信していたが、一部の評論家は「終わりのないような長さと、交響曲の中でも最高に難しいこの作品は、耳の肥えた専門家をも疲れさせ、単なるアマチュアには耐えられないだろう」と不平を述べた。
しかし、その後すぐに、この作品を演奏することになった音楽家たち(常に、喜ばせるのが最も難しい人たち)は、この曲を心に刻み込むようになる。1807年のライプツィヒでは、「オーケストラが自主的に集まり、報酬もないのに追加のリハーサルを行った。その作品を演奏する名誉と特別な楽しみを得るために」と報告されている。
《エロイカ》交響曲の影響力は、はるか未来にまで及んだ。
《エロイカ》交響曲は、シューベルト、ベルリオーズ、ワーグナー(《神々の黄昏》の〈ジークフリートの葬送行進曲〉)からマーラーに至るまでの作曲家をはじめ、後世に計り知れない影響を与えた。また、“発展的な変奏”の原理は、ブラームスやシェーンベルクにとっても重要な作曲技法となった。この交響曲で自分自身のための新たな道を模索したベートーヴェンは、結果的に、その後の一世紀の音楽をも形作ることになったのだった。
Written By Jessica Duchen