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ザ・クラッシュとパブリック・イメージ・リミテッドの創設メンバー、キース・レヴィンが逝去

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Keith Levene (right) with John Lydon in PiL - Photo: Peter Noble/Redferns

ザ・クラッシュとパブリック・イメージ・リミテッド(PiL)の創設メンバーであった英国の革新的なギタリスト、キース・レヴィン(Keith Levene)が2022年11月11日に65歳で逝去した。肝臓がんを患っていたレヴィンは、ノーフォークの自宅で亡くなり、英国ロック音楽に影響を与えるという永続的な遺産を残した。

ポスト・パンクの音楽史に影響を与えた彼には多くのミュージシャンのファンがおり、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのギタリスト、ジョン・フルシアンテは以前、キース・レヴィンのスタイルを「壮大」と表現し、「彼はギターで何ができるかの可能性を追求した」とコメントしていた。

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Public Image Ltd.- The Flowers Of Romance (Top Of The Pops) 1981

 

その生涯

ロンドン北部のマスウェル・ヒルで生まれ育ったキース・レヴィンは、英パンクロックの創始者の一人だが、10代の頃はプログレッシブ・ロック・バンドのファンであり、1970年代初頭にはイエスのローディを短期間務めたほど熱心なファンであった。

彼はイエスのスティーヴ・ハウのようなギタリストのテクニックを賞賛していたが、2001年にはFurious.comに次のように語っていた。

「(ギターの)ルールがわかるほどうまくなったら、他のギタリストと同じにはなりたくなかったんだ。無理やり人と違うことをしようとは思わなかったけど、何が間違っているのかを聞き分ける耳は持っていた。もし間違ったこと、つまりミスをしたり、キーが合っていなかったりしても、もう一度聴き直せるくらいオープンマインドだったけどね」

ギタリストのミック・ジョーンズ、ベーシストのポール・サイモンと共にわずか18歳でザ・クラッシュを結成したキース・レヴィンは、バンドのマネージャーであるバーナード・ローズと共に、当時The 101’ersのフロントマンだったジョー・ストラマーにバンドへの参加を依頼。クラッシュにとって幸運だったのは、ストラマーがロンドンのナッシュヴィル・ルームズでセックス・ピストルズの演奏を見たばかりで、パンクこそが進むべき道だと確信するようになっていたことだ。

レヴィンはクラッシュに在籍した時にはライブに出演し、1977年のデビュー・アルバム『The Clash』に収録されている「What’s My Name」の作曲に参加しているが、レコーディング前に脱退した。

The Clash – What's My Name (Official Audio)

 

パブリック・イメージ・リミテッドの結成

1978年1月にセックス・ピストルズが解散すると、ボーカルのジョン・ライドン(以前はジョニー・ロッテンとして知られていた)とレヴィンは、ベースのジョン・ウォードル(ジャー・ウォブルとして知られていた)と共に新しいバンドを結成した。ウォードルは2012年に「ジョン・ライドンはキースを得るという賢い選択をしたんだ」と語っている。

ファースト・アルバム『Public Image: First Issue』は1978年にUKチャートで22位を記録し、それに先立って発売された名作シングル「Public Image」はUK9位を獲得した。

1979年に発売したセカンド・アルバム『Metal Box』は、ポスト・パンクの名作として評価されている。フィルム缶のような金属製のブリキ箱に入れられたこのアルバムは、3枚の12インチ・シングルにプレスされ、ターンテーブルのスタイラスが振動で飛び出すほどの大音量のベース・サウンドを実現している。

「Poptones」「Careering」「The Suit」、そして「Graveyard」(この曲は、ライドンのボーカル入りバージョンを「Another」というタイトルでB面としてリリースしながら、アルバムにはインストゥルメンタルとして収録されるという対照的な方法で収録されている)等の曲で、アルバムはポスト・パンクが目指すべき新しいスタンダードとなるものであった。

Poptones (Remastered)

様々なドラマーが参加した初期パブリック・イメージ・リミテッドは、ポスト・パンク、ダブ、フリーフォーム・ジャズ、クラシック音楽の独創的な新しい形式を取り入れ、「Death Disco」「Flowers Of Romance」「This Is Not A Love Song」といったシングルでトップ20入りを果たしている。キース・レヴィンは2012年にこう語っている。

「人々は俺がクラシックの訓練を受けていると考えていたけど、それは馬鹿げたことだったね。Eの和音は知っていたし、Eマイナーにも挑戦した。ライドンのために、皿の上に音楽を並べたんだ。彼は当時とてもヒップで、本当にいい仕事をしていたよ」

キース・レヴィンは1981年の『The Flowers Of Romance』ではほとんどの楽器を演奏しているが、これがパブリック・イメージ・リミテッドにキースが参加した最後の作品となった。1983年のアルバム『This Is What You Want… This Is What You Get』には彼が作曲した曲が多く収録されているが、彼は演奏では参加していない。

Public Image Ltd – (This is Not a) Love Song

 

脱退以降

その後、レヴィンは目立たないように過ごしていたが、ロサンゼルスに移り住み、そこの音楽コミュニティーに溶け込むようになった。1987年には、レッド・ホット・チリ・ペッパーズやフィッシュボーン、セロニアス・モンスターといったLAの若いバンドのメンバーが参加したEP『Violent Opposition』に参加。

また、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの3作目『The Uplift Mofo Party Plan』のデモを制作した(皮肉にも、このグループのデビュー・アルバムはギャング・オブ・フォーのアンディ・ギルがプロデュースしており、彼の演奏スタイルと非常に似ている)。

その後も活動を続け、2012年にはジャー・ウォブルとのアルバム『Yin & Yang』を発売し、ソロ・アルバムも次々と発表した。2015年には『I Was a Teen Guitarist for the Clash』という自伝を出したが、これは2019年にはドキュメンタリーにもなっている。ガーディアン紙は、近年彼が作家アダム・ハモンドとパブリック・イメージ・リミテッドの歴史を執筆していると報じている。

元PiLのドラマー、マーティン・アトキンスは、ツイッターで以下のような追悼の意を表している。

「ギターの巨人キース・レヴィンの訃報を知り、悲しい時を過ごしている。私たちは浮き沈みが激しかったが、時間とともにまろやかになった。彼のユニークな才能に対する僕の尊敬は、これからも変わらないよ」

Written By Tim Peacock



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