News
伝説的ジャズ・サックス奏者、ファラオ・サンダースが逝去。その功績を辿る
ジョン・コルトレーンとともに活動し、前衛芸術の先駆者としても活躍したジャズ・サックス奏者、ファラオ・サンダース(Pharoah Sanders)が2022年9月24日に逝去した。81歳だった。
ファラオ・サンダースのようにテナー・サックスを演奏する人はいない。彼が楽器を吹くと、まるで竜が火を噴くような感じがした。さらに大音量で激しく吹くと、ハリケーンと火炎放射器を合わせたような、驚くほど不気味な遠吠えになる。生々しく、タフで、筋肉質でありながら、信じられないほど優しくて美しい。そして、あるリスナーにとっては、それは、現世をはるかに超えた別の場所と時間へと誘うサウンドへの入り口であるようにも思えた。
サンダースは、師であるジョン・コルトレーンを受け継ぐスピリチュアル・メッセンジャーであり、音楽の表現を自己発見の手段とし、無限のものに触れ、神や創造主に近づくことを可能にしたのだ。
70年にわたるキャリアで30枚以上のアルバムを発表したサンダースは、特異なサックスの音色であることとともに、多才なミュージシャンであることも証明している。
彼は当初、1960年代にスピリチュアル・ジャズとして知られるようになった強烈な感情や非常に個人的な前衛的スタイルの重要な立役者だった。キャリアが進むにつれ、彼は異なる音楽ジャンルや他の文化の音の間に音楽の橋をかけるようになった。そして、静かに眠りにつくかと思われた晩年でも、UKのDJ/プロデューサーであるフローティング・ポインツとの2021年のコラボレーションによって、彼は再びスポットライトを浴び、その輝かしいキャリアに驚くべきコーダをもたらしたのだ。
<関連記事>
・ジャズ界の伝説的ピアニスト、ラムゼイ・ルイスが87歳で逝去
・2022年に亡くなったミュージシャン、音楽業界の関係者たち
・【特集】アストラル・ジャズの探究
ジャズと芸術への情熱
ファラオ・サンダースは1940年、アーカンソー州リトルロックでフェレル・サンダース(Ferrell Sanders)として生まれた。彼は市役所に勤める父と、学校の食堂で調理師をしていた母の間に生まれた一人っ子だった。両親とも副業で音楽を教えていたこともあり、その熱意が幼い息子に伝わり、サンダース少年は最初にドラムを始めた。その後、地元の教会の掲示板でクラリネットが売られているのを見て、ドラム・スティックからクラリネットに持ち替えた。2020年、彼は『ニューヨーカー』誌に、「僕はこうして初めて楽器を手に入れたんだ。”17ドル!”のね」と語っている。
クラリネットをマスターしたサンダースは、もうひとつのリード楽器であるサックスに狙いを定め、高校から借りていたアルト・サックスを手にしたが、やがて、より人気のあるテナー・サックスに魅了され、クラリネットを売ってサックスを購入。
高校ではバンド活動を行い、バンドディレクターのジミー・キャノンという恩師に出会い、ジャズを学んだ。キャノンが抜けると、サンダースはバンドのリーダーを務める一方、地元のライブハウスでも演奏をはじめ、時には街に演奏をしに来たミュージシャンが演奏するジャズやブルースのクラブに忍び込んで共演することもあった。
サンダースは、楽器の腕前を伸ばす一方で、芸術への情熱も育んでいた。絵画の才能を買われて、カリフォルニア州のオークランド短大に入学し、音楽と並行して芸術を学んだ。クラスメートから「リトル・ロック(Little Rock)」と呼ばれたサンダースは、副業としてジャズやリズムアンドブルースのライヴに出演。その後、サンフランシスコに移り住んでジャムセッションに参加するようになった。しかし、1962年、22歳のとき、より大きな仕事のチャンスがあると考え、当時ジャズの中心地と呼ばれていたニューヨークへの移住を決意する。
貧しき下積み時代とサン・ラーとの出会い
当時は経済的に厳しい生活だったこともあり、サンダースはヒッチハイクでニューヨークを目指した。しかし、誰も彼のことを知らないし、彼の音楽的才能を保証してくれる人もいない、だから仕事もなかなか見つからない。一時はホームレスとなり、路上で暮らしていたこともあったが、献血やホルンを質に入れたり、時にはシェフやウェイターの仕事をすることで数ドルを捻出して、なんとか食料を調達していた。
数年間、手探りで生活していたが、1964年に宇宙を意識したバンドリーダー、サン・ラーと出会い、彼の人生は好転した。サン・ラーはアーケストラという大きな家族のようなアンサンブルを率いていた。サンダースもアーケストラに引き入れられたが、サンダースは自分のバンドを率いることを望んだため、アーケストラでの活動は短期間であった。
1964年、前衛的なトランペット奏者ドン・チェリーやピアニストのポール・ブレイといくつかのサイドカットを行った後、同年9月には初のレコーディングを行い、バーナード・ストルマンのESP Disk レーベルから『Pharoah』というタイトルでリリースされた。
師コルトレーンとの再会
そして、サンダースの人生において重要な転機が訪れた。それはジョン・コルトレーンと再会したことだった(コルトレーンがマイルス・デイヴィスのグループで演奏していた1961年、サンダースはカリフォルニアで初めて会っていた)。サンダースが再会したときのコルトレーンは、ビバップからモーダルジャズに移行しており、音楽の別の方向性を模索していた頃だった。いつものドラマー、エルビン・ジョーンズがライブに出られなくなり、ラシード・アリという若い前衛ドラマーにチャンスを得た。そしてサンダースとサックス奏者のアーチー・シェップも一緒に連れて行くことになったのだ。
サンダースより14歳年上のコルトレーンは、この若いミュージシャンたちとジャズへのアプローチに魅了され、彼らのライヴに通うようになった。やがてコルトレーンは、彼らを自分の新しい拡大されたグループに引き入れた。
サンダースは1965年、コルトレーンのアルバム『Ascension』(いまだにジャズ評論家を当惑させる、激しく前衛的な大編成の作品)に参加したが、自分に何が期待されているのか、よくわからなかった。後に彼はThe New Yorker誌にこう告白している。
「当時は、ジョン・コルトレーンと一緒に演奏する準備ができているとは思えなかった。彼のそばにいると、”さて、何をすればいいんだろう?”という感じだったよ。彼が私や他のミュージシャンを必要としていたとは感じない。彼はただ、何か違うことをしようと思っていたんだと思う。
サンダースは当時のことをそう思い返していたが、コルトレーンはサンダースのサックスへのアプローチから音楽的な糧を得ていた。そして、重要なことは、1966年と1967年のレコーディングでより不協和で、より探求的になっていた彼自身のサウンドに、その内臓の生々しさをもたらしていたことだ。
ソロとしての飛翔
コルトレーンのプロデューサーのボブ・ティールは、サンダースがジャズ界の重要な新しい顔となったことに気づき、1966年にインパルスと契約。新レーベルから発売されたアルバム『Tauhid』は、魅惑的なグルーヴにサックスが絶叫するサンダースの代表曲「Upper Eygpt And Lower Egypt」を収録している。しかし、本来なら師であるコルトレーンも喜ぶべき作品だったが、発売直前の1967年7月、コルトレーンは癌で亡くなってしまった。
“コルトレーンの後継者”、あるいは前衛サックス奏者アルバート・アイラーの言う“聖なる父コルトレーンの息子”として認識されていたサンダースは、スピリチュアル・ジャズのバトンを受け取ったが、彼はJazzTimesに、コルトレーンの仕事を引き継いでいたのではないとこう語っている。
「彼がやったことを引き継いだわけではない。私がやっていたこととは全く違うことなんだ」
その後5年間、彼はインパルスから最も有名な楽曲である「The Creator Has A Master Plan」を収録した『Karma』を含む、一連のアルバムをリリースすることになる。「The Creator Has A Master Plan」では、さまざまなアフリカンパーカッションと呪文のようなヴォーカルチャントをフィーチャーした、長くてオープンエンドな曲でジャズのフロンティアを拡大したものだった。
当時のレコードでは、彼は表現の自由とリスナーとのつながりのバランスを取ろうとしていた、と彼は2003年にAll About Jazzにこう語っている。
「当時、あのアルバムを作っていたとき、私は“内”と“外”の両方のことをやろうとしていたんだ」
“人々はファラオがやっていることに共感する”
1971年のアルバム『Thembi』には、サンダースの最もよく知られた楽曲の一つである「Astral Travelling」を収録。この曲には、音の探求の旅を通して別の世界を発見するというサンダースの探求心が凝縮されている。この曲は、ジャズ・ファンクのパイオニアとして成功を収めたピアニスト、ロニー・リストン・スミスによって書かれたものだ。スミスは2012年に筆者にこう明かしてくれた。
「ファラオは2つ、3つの音を同時に弾いているように聴こえるんだ。ファラオは、リハーサルをあまりせず、ただ演奏するだけだったから、とてもオーガニックだった。本当にクリエイティブで、伸びやかでだった。彼は、“この地点から始めて、行きたいところまで行くんだけど、観客を宇宙に置き去りにしたくないから、必ず最初の地点に戻すんだ”と言っていたよ。だから、人々はファラオがやっていることに共感するようになったんだ」
60年代後半から70年代前半にかけて、サンダースはコルトレーンの妻アリスとも共演した。アリスは夫の死後、ソロ活動を開始。1971年のインド・フュージョン作品『Journey in Satchidananda』をはじめ、彼女のアルバム3枚に参加している。
サンダースは1974年までインパルスに在籍したが、その後10年間はレーベルを転々とするようになった。その期間の最も重要なレコーディングは、1978年にメジャーレーベルのアリスタに短期間在籍し、元コルトレーン信奉者でドラマーのノーマン・コナーズをプロデューサーに迎えた『Love Will Find A Way』というアルバムを作成したことであろう。ソウル・シンガーのフィリス・ハイマンをフィーチャーしたこのアルバムでは、サンダースのテナー・サックスが、いくつかの曲で、まだ吹き矢のような激しさを持っていた。このレコードは全米アルバムチャートで163位、全米R&Bチャートで41位まで上昇した。
再評価の時代
1980年代に入ると、サンダースはカリフォルニアの小さなレーベル、テレサに居場所を見つけ、そこで何枚かリリースし、以前のアルバムのサウンドと精神的メッセージにより近い有機的なスタイルでレコーディングを行った。また、彼は自身のレコードでコルトレーンのナンバーを再演し、ピアニストのマッコイ・タイナーによる『Blues For Coltrane』で、インパルスと再会することになった。
1994年、モロッコのビル・ラズウェルがプロデュースしたグナワ音楽家マフムード・ギニアとのアルバム『The Trance Of Seven Colors』に参加したのをきっかけに、サンダースに対する世間の関心は大きくなった。批評家たちから絶賛されたこのアルバムは、サンダースが新しい聴衆を見つけるのに役立ち、同年には世界中のHIV/AIDSと闘う非営利団体レッド・ホット・オーガニゼーションのコンピレーション・アルバム『Stolen Moments: Red Hot + Cool』へ参加。このアルバムには、サンダースの代表作「The Creator Has A Master Plan」のトリップ・ホップ・リミックスが収録され、影響力のある『タイム』誌による年間最優秀アルバム推薦をはじめ、多くの称賛を受けた。
批評家の賞賛を浴びた結果、サンダースの株は著しく上がり、ヴァーヴと契約。プロデューサー、ビル・ラズウェルと再会して評判の高いアルバムを2枚リリースすることになった。このアルバムはジャズ、ファンク、ダブ、ワールドミュージック、トリップホップを融合させたもので、印象的なトラック「Our Roots (Began In Africa)」を生み出し、サンダースは若いリスナーの間で流行となった。
サンダースは、90年代後半から2000年代初頭にかけて、フォーク・ソウルのトルバドール、テリー・キャリア、ハードバップのトランペッター、ウォレス・ローニー、アバンギャルドなサックス奏者のデヴィッド・マレイなど様々なアーティストのアルバムにスペシャルゲストとして参加し、また自身の音楽も様々なレーベルに録音してきました。
しかし、2003年にEvolverレーベルから出したLP『Without A Heartbeat』でラズウェルと再びスタジオに入って以降ソロ・アルバムを制作することはなかった。しかし、ライヴ・パフォーマーとしての需要は依然として高く、世界中のジャズフェスティバルで何度も演奏していた。
2016年、National Endowment for the Arts Jazz Masterに選ばれたことで、偉大なアーティストたちの一員として彼の地位は確固たるものとなったが、彼のレコードへの出演は明らかに散発的になってきていた。
晩年での大復活
しかし、2021年、フローティング・ポインツとして知られるUKのプロデューサー兼DJのサム・シェパードとコラボレートし、ロンドン交響楽団と録音したアルバム『Promises』で、彼は驚くべき、そして記憶に残る復活を遂げた。
46分に及ぶ没入型のアルバムにおいて、サンダースは主役だった。彼のサックスは、1分間は嗄れたように威張り、次の瞬間には柔らかく魅惑的になり、繊細なキーボードと音色の良い弦楽器の豊かな音風景に縁取られている。
このアルバムのプレスリリースによると、サンダースは若い協力者に感銘を受け、45年の歳月を隔てているにもかかわらず、共通の認識を見出したという。サンダースはサム・シェパードに対してこう言っていた。
「サムは偉大なミュージシャンであり、この地球上を歩き回っている天才の一人だよ。彼の演奏も、彼の書く文章も大好きなんだ」
サム・シェパードも、新しい友人に感激していた。
「この曲でファラオの演奏を聴くと、まるで楽器が彼の存在の延長線上にあるかのようなんです」
この『Promises』は、サンダースの音楽に新しい聴衆を引き込んだが、悲しいことに、彼の墓碑銘となった。しかし、彼のミュージシャンとしてのユニークさと、しばしば過小評価される彼のサウンドの美しさを捉えた、優雅なものであった。
ステージの外では寡黙で、インタビューが嫌いだったという伝説を、サックスのサウンドを通じてコミュニケーションすることで、魂を込め、本当の自分をさらけ出すことができたと死の1年前にサンダースはこう語っている。
「みんなは私があまり語りたがらないと思っている。でも私は自分の音楽を通して伝えようしていたんだよ」
Written By Charles Waring
- レコード盤で所有すべきベスト・チェス・アルバム25選
- 史上最高のチェス・シングル50選
- 創設者の息子語る想い出話とチェス入門
- ミニー・リパートンの31年の生涯と素晴らしい音楽
- エタ・ジェイムスはいかにして傑作アルバムを生み出したか
- チャック・ベリーの『Blues』
- チェス・レコード 関連記事