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MCハマーの功績:自身のレーベルとともに、帝国を築くテンプレートをも創り上げたラップスター
MCハマー(MC Hammer)のキャリアの変遷は、非常に極端である。ベイエリア出身のレジェンドは、1980年代の終わりに華々しく打ち上がり、ヒップホップをポップ・カルチャーのメインストリームに強く押し込む一助となった。1980年代の半ばにランDMCがデビューして以来、デフ・ジャム所属のアーティストだったLL・クール・Jやビースティ・ボーイズが次々と成功し、ヒップホップは本格的に主流に入り込むようになり、「Yo! MTV ラップ」や「ラップ・シティ」といった人気テレビ番組の開始でさらに活気づいていた。
1990年にハマーが放ったアルバム『Please Hammer Don’t Hurt ‘Em』は爆発的に売れ、彼は世界的な大スターになった。このアルバムの大成功のあと、彼の人気がどうなったかは広く知られているが、彼の軌跡は『Please Hammer Don’t Hurt ‘Em』や、至るところで流れている「U Can’t Touch This」から始まったわけでもなければ、そこで終わったわけでもない。
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野球選手になりなかった幼少期
カリフォルニア州オークランドの小さなアパートで育った本名スタンリー・バレルことMCハマーは、ジェームス・ブラウンに心酔していた。「アポロ・シアターで歌っている彼を、3、4才のときにテレビで観て、よく真似したものです」と、ハマーは1990年にローリング・ストーン誌に語っている。「床に倒れたり這ったりしながら“Please, Please, Please”を1曲丸ごと真似しました。兄がシーツをマントみたいにつけてくれたんです」
バレルの才能は、間もなく広く知られることになる。趣味でマクドナルドやコカ・コーラのCM用コマーシャルを作り、オークランド・コロシアムの駐車場でファンのためにパフォーマンスしてみせた。オークランド・アスレチックスのオーナーだったチャーリー・フィンレーは11才のスタンレーが踊っているのを見て、彼に仕事を与えた。
少年だったバレルは、アスレチックスのバットボーイとして働き、そこから好運がいくつも舞い込んだ。有名な話としては、野球の名選手レジー・ジャクソンが、「ハマーリン」ハンク・アーロンに似ていると思ったため、「ザ・ハマー」というニックネームをつけ、数年後、アスレチックスの関係者がハマーの音楽のキャリアを立ち上げる際、大きな役割を果たしたのだ。
アスレチックスで働いていたことあって、当時のハマーの夢はプロの野球選手であった。高校卒業後、サンフランシスコ・ジャイアンツのトライアウトを受けたが、メジャーリーグへの挑戦はうまく行かなかった。大学で学んだコミュニケーション学も、同様の結果に終わった。そこで、彼はドラッグの売買をやろうかと検討したが、結局、短期間海軍に身を置き、それから信仰の道に入った。キリスト教はハマーの人生において重要な役割を果たしていたため、ゴスペル・ラップ・グループのホーリー・ゴースト・ボーイズを結成したのだ。このグループに、いくつかのレコード・レーベルが興味を示したものの、実を結ばなかった。
自身のインディー・レーベル“バスト・イット・レコード”
ホーリー・ゴースト・ボーイズの解散後、自分の運命を自らの手でなんとかしようと決心したハマーは、レコード・レーベルのバスト・イット・レコード(Bust It Records)を立ち上げる。彼はストリートに出かけ、ラッパーやDJ、ダンサーを募集した。ケント・ウィルソン(ローン・ミキサー)とケビン・ウィルソン(2・ビッグ・MC)は、それぞれ彼のDJとハイプマンになった。ハマーはさらにスヘイラ・サビア、タバサ・ジー・キング-ブルックス、フィリス・チェールズをバック・ダンサーに誘い、オークタウンズ・357と名付けた。こうして、彼は自身と周りの人々をさらに大きな、広範囲の成功へと売り出したのだ。
ハマーの決意は固く、集中して延々と続くリハーサルのセッションをくり返し、自分たちの芸を高めた。「規律正しい組織に仕立て上げました。ゴールがありましたからね」とローリング・ストーン誌のインタビューで語っている。「ゴールを達成するためには、自らを律する必要があったんです」。ハマーの方法論は、自分のバンドとバック・コーラスに非常に厳しいことで有名だった彼のアイドル、ジェームス・ブラウンと通じるところがあった。その時代の黒人のエンターテイナーたちは、芸が卓越していることが必須条件であった。
ハマーはオークランド・アスレチックスの外野手、ドウェイン・マーフィーとマイク・デイビスから借りた2万ドルで1986年にバスト・イットを創設し、最初のシングル「Ring ‘Em」をレコーディングした。次のシングル「Let’s Get It Started」を出す頃には、地元のラジオ局のミックス・ショーでかかるようなっていた。ハマーは、解散したばかりだったコン・ファンク・シャンのフロントマンで、楽器も演奏するプロデューサーでもあるフェルトン・パイレートと組み、彼の地下スタジオで最初のアルバムに取り掛かった。彼らの共同作業はその後、ずっと続くことになる。
1986年8月、バスト・イットはMCハマーのデビュー・アルバム『Feel My Power』を発売する。彼と妻のステファニーは、休む間もなくローカルのDJたちにこのアルバムを推しまくった。夫婦がバスト・イットのプロモ・チームとして動いた甲斐があり、『Feel My Power』は6万枚も売り上げ、キャピトル・レコーズの目に止まった。なんとかしてヒップホップ市場に切り込みたかったキャピトルにとって、すでにビジネス・モデルを確立していたハマーは爆発寸前のショーマンに映った。1千万ドルとも言われる契約金とともに、ハマーはバスト・イットのジョイント・ベンチャーとして契約し、75万ドルの前金を自分のレーベルにつぎ込んだ。
メジャーとの契約とモンスターヒット
キャピトルは『Feel My Power』を改良し、1988年の秋に『Let’s Get It Started』として再リリースした。シングル「Turn This Mutha Out」とアップデートされた「Let’s Get It Started」はラップ・チャートで大ヒットした。アルバムは150万枚売れ、ハマーはヒップホップの注目株となる。
ハマーは、アルバムを押すためにレーベルの全アーティストを連れ、トーン・ロックやN.W.A.、ヘヴィ・D&ザ・ボーイズといったヒップホップの重鎮と一緒にツアーをした。ツアーバスの後方にレコーディング・スタジオを設え、ツアー中でも音楽を作る時間を削られないようにした。
自分のキャリアが加速するのと同時に、ハマーはバスト・イット自体にスポットライトが当たるようにした。1989年から1990年にかけて、様々な音楽ジャンルに新人を送り込んだのである。先陣を切ったのは、ダンサーのオークタウンズ・357。彼女たちは、J.J.ファドやソルトン・ペパにぴったり並ぶような、セクシーで堂々としたラップグループだった。1989年の春にデビュー・アルバムを発売し、中毒性のあるリード・シングル「Juicy Gotcha Krazy」は、その年の大きなラップ・ヒットとなった。ハマーのいとこでバック・ダンサーでもあったエース・ジュースがその後すぐにデビュー・アルバムを出し、シングル「Go Go」が少しヒットした。
トークショーの「アーセニオ・ホール・ショー」への出演で、MCハマーはメインストリームのオーディエンスに広く知られるようになり、彼の人気とバスト・イット・レコーズのアーティストの運命は爆発寸前のように見えた。その爆発は、ハマーのツアーバスで録音された「U Can’t Touch This」が1990年のモンスターヒットとなったことで起こった。この曲は全米シングルチャートドのトップ10まで打ち上がり、ビデオは1990年代初期にくり返し放映され、MCハマーは大人気のスーパースターになったのだ。そしてメジャー・レーベルであるキャピトルからのセカンド・アルバム『Please Hammer Don’t Hurt ‘Em』は、最終的に1,000万枚を売り上げた。
ハマーはさらに、1990年の映画『ミュータント・タートルズ』と『ロッキー4/炎の友情』のサウンドトラックにも参加した。どんな仕事が来ても、ハマーは自分のチームも一緒に引き上げようとした。たとえば、『ロッキー4/炎の友情』のサウンドトラックには、バスト・イット所属のラッパー、ジョーイ・B. エリスの「Go For It」も収録された。その間、ハマーのバック・コーラスからR&Bの男性グループになったスペシャル・ジェネレーションは、ハイ・ファイブやトゥループらで溢れていたニュージャック・スウィング・シーンに、パイレートがプロデュースした『Take it To the Floor』で乗り込んだ。パイレートはまた、オークタウンズ・357のボーカリストからソロになったB・アンジー・Bの、1991年のセルフ・タイトル・アルバムもプロデュースしている。アンジーのスタイルは、同年代向けのセクシーなR&Bコンテンポラリーに、クワイエット・ストーム時代の成熟した歌い方を混ぜたものであった。
短命に終わったレーベル
察しがいい読者の想像通り、この頃のハマーのステージは、ド派手なことで有名だった。ダンサー、DJ、バンド、バックシンガーなど、多い時は30名も総出演するステージは、ヒップホップ・アーティストでは前代未聞のエネルギッシュなパフォーマンスだった。MCハマーはやることなすこと派手で目立っていた。たとえば、彼のトレードマークとなった「ハマー・パンツ」は、ファッション・トレンドとなり、バスト・イットもポップ・ミュージックの最前線まで押されることになった。
1991年、ハマーが『Please Hammer Don’t Hurt ‘Em』の次のアルバムを用意している間、バスト・イット/キャピトルの社長で、ハマーのマネージャーでもあった兄のルイス・バレルは、ニューヨークとロサンゼルス、オークランドにオフィスを構えている同レーベルが、翌年にはポップ・ミュージックとメタルにも進出するとLAタイムズに語った。だが、1991年にリリースしたシングル「2 Legit 2 Quit」は、流れが変わる前兆を見せた。シングルと同名のアルバムは『Please Hammer Don’t Hurt ‘Em』ほどは売れず、ハマーに対する急激な反動が起こり、引き潮のような流れにつながる。さらに追い打ちをかけるように、バスト・イットの旗印を掲げたアーティストたちからヒットが生まれることもなかった。
ハマーの運勢は著しく下降線を辿っていたが、それでも彼はバスト・イットから曲をリリースし続け、ヒップホップのパイオニア、ダグ・E・フレッシュやR&Bグループのトゥループといった新人アーティストとも契約した。だが、音楽の流行は、さらにハードなギャングスタ・ラップへと向かっていった。ハマーは、1994年のシングル「Pumps In A Bump」をヒットさせ、その翌年、バスト・イットからはNFLのスーパースター、ディオン・サンダースの企画ものの「Must Be the Money」が予想外のヒットを記録した。しかし、ダグ・E・フレッシュとトゥループの曲をリリースしたものの、MCハマーが破産申告をし、キャリアの再構築を試みるにつれ、バスト・イットは失速していった。
バスト・イット・レコーズは比較的短命に終わったが、レーベルの広大な野望はMCハマーのビジョンと起業家精神の強さの証左であった。ヒップホップとR&B、ゴーゴー、そしてポップ・ミュージックをなめらかに混ぜようとしたハマーの試みと、レーベルの中核にいたアーティストたちが、ヒップホップがまだポップとR&Bを中心にかけていたメインストリームのラジオ局に切り込もうとしていた時代に、ポップなラップとニュージャック・スウィング両方の前線に立っていた事実は、忘れ去られている。
同様に、大衆から不興を買ったことにより、ハマーのレーザー光線のように鋭い起業家精神や、インディペンデント・レーベルとしての成功、自分のブランド力を使ったペプシやブリティッシュ・ナイツといった企業との仕事、自主制作映画やアニメなどの功績も、影に隠れている。それから約10年後、歴史が繰り返すようにマスター・Pのノー・リミット帝国が似たような偏在性で売り出すことになる。
Written by Stereo Williams
uDiscoverミュージックで連載している「ブラック・ミュージック・リフレイムド(ブラック・ミュージックの再編成)」は、黒人音楽をいままでとは違うレンズ、もっと広く新しいレンズ−−ジャンルやレーベルではなく、クリエイターからの目線で振り返ってみよう、という企画だ。売り上げやチャート、初出や希少性はもちろん大切だ。だが、その文化を形作るアーティストや音楽、大事な瞬間は、必ずしもベストセラーやチャートの1位、即席の大成功から生まれているとは限らない。このシリーズでは、いままで見過ごされたか正しい文脈で語られてこなかったブラック・ミュージックに、黒人の書き手が焦点を当てる。
MCハマー『Please Hammer, Don’t Hurt ‘Em』
1990年2月12日発売
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