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カーティス・ブロウの功績:いかにしてラップ初の50万枚を売りあげ、ラッパーのお手本となったのか
ハーレム生まれの多才な才能の持ち主はいかに今日のラッパーのお手本となったのか。もし、実験室でラップのスターを生み出そうとしたら、結果はカーティス・ブロウ(Kurtis Blow)に限りなく近くなるかもしれない。
今日、音程を外さないラッパーは珍しくないが、さらに恵まれた外見、カリスマ性、裏付けのあるストリートでの名声、そして百科事典並みの音楽とビジネスに関する知識を加えると、ヒップホップ文化の完璧な大使ができあがる。それが、まさにカーティス・ブロウだったのだ。
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メジャーと初めて契約したラッパー
ニューヨークのハーレムでカーティス・ウォーカーとして生まれたこの先駆者が、ヒップホップ・カルチャーにおいてやり遂げられなかったことは何もない。まず、1970年代初期、13才でDJを始め、ブロンクスをはっきり分断していた悪名高いギャング、ピース・メーカーズに短期間だけ籍を置き、そこでメリー・メルと友人になった。しかし、彼にはエンターテイナーになりたいというはっきりとした目標があったため、ストリートの生活から退いた。
それから名前をクール・DJ・カートからカーティス“スカイ”ウォーカー、そしてカーティス・ブロウへと進化させた。カーティス・ブロウという芸名にするように、しつこく改名を勧めたのは、パーティー・プロモーターの相棒からマネージャーになったラッセル・シモンズである。音楽史において、メジャー・レーベルと契約した初のラッパーになったとき、カーティスは20才になったばかりであった。
カーティス・ブロウの最初のシングル「Christmas Rappin’」は、20ものレーベルの重役から却下された後、1979年にマーキュリー・レコーズからリリースされた。当時、ブロウはまだ大学生で、何枚売れば残りの学費を払い切れるか、ということばかり考えていた。曲が大ヒットしたため、彼は退学してツアーにでかけ、さらにプロモーションを行った。
「Christmas Rappin’」での大成功
「Christmas Rappin’」はメジャー・レーベルから出た初のシングルだっただけでなく、最初の輸入盤でもあった。というのもブロウは、マーキュリーのイギリスのロンドン・オフィスと契約していたのだ。「Christmas Rappin’」の成功で、セルフ・タイトルのアルバムをレコーディングすることになり、そこからヒット・シングル「The Breaks」が生まれた。この曲は、重力に逆らうようなダンスでパーティーやストリートを盛り上げていたBボーイのダンサーたちに対して、ブロウが自分の持つスキルと魅力すべてを使って、敬意を表したものだった。賢い言葉遊びと、ベースの効いたグルーブのおかげで、ブロウはラップの曲で初めて50万枚を売り上げ、ゴールド・ディスクを得た。
カーティス・ブロウ本人でさえ、グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴの「The Message」をもっとも偉大なラップ・ソングと呼ぶかもしれない。だが、デビュー・アルバムですでにモティベーションを高めるような曲を書き、“コンシャス・ラップ”の土台を作ったのは彼である。例えば、「Throughout Your Years」はゴールを定める重要性をはっきり述べて、子供たちを励ましている曲だ。
ブロウは、マーキュリー・レコーズから8枚のアルバムをリリースした。最大のヒットは、1984年の『Ego Trip』からの「Basketball」と、1985年『America』からの「If I Ruled The World」である。後者は、ヒップホップ映画『クラッシュ・グルーブ』が大々的に取り上げ、映画の中でブロウがパフォーマンスしている。
他アーティストへの楽曲提供
しかし、ブロウが桁外れであったのは、この時期すでに彼がほかのアーティストに曲を提供していたことである。故ラリー・スミスと一緒に、ディスコ・スリーとして知られていた売り出し中の3人組に曲を作ったのだ。その「Fat Boys」は大ヒットとなり、彼らはその曲名をグループ名にした。ブロウは、ファット・ボーイズの1984年のセルフ・タイトルのデビュー・アルバムと、1985年の『The Fat Boys Are Back』でもプロデュースを手がけている。
前述した映画『クラッシュ・グルーブ』のサウンドトラックも制作したほか、ニュー・エディションやホィットニー・ヒューストン、若かりしリッキー・マーティンや彼がいたメヌードのメンバーを招いて、若々しくてヒップな「We Are The World」風の「King Holiday」を作り、1986年に初めて国事行事となったマーティンルーサー・キング・ジュニアの誕生日を祝った。
カーティス・ブロウはまた、ランDMCの1985年の曲「You Talk Too Much」を、たった200ドルの金額でゴーストライティングを請け負った。これは彼が2時間以内に曲を書けるか、という賭けをした結果だったのだ。彼はたった30分で書き上げ、昔DJをしてくれたジョセフ“ラン”シモンズに渡し、彼の仲間はセカンド・アルバム『King Of Rock』のリード・シングルとしてリリースしたのだった。
同じ時期に、ラッパーとして彼が初めて成し遂げたことはさらに増え、そのリストにスプライトのテレビ・コマーシャルへの出演が加わった。これはスプライトがヒップホップを中心に据えた「渇きに従え/Obey Your Thirst」キャンペーンを展開するずっと以前のことだ。彼の万人受けする声と、国際的な知名度があれば、どんな商品でも理想的なピッチマンになれたが、彼の溌剌とした人柄と清涼飲料水は完璧な組み合わせであり、彼はライバルのセブンナップではなくスプライトの「リモン」味にしようと、と勧めたのだ。
後継者たちへの影響
しかし、おそらくカーティス・ブロウが持つ同時代性とタイムレスな魅力は、彼の音楽が数え切れないほどサンプリングされ、カバーされていることによる。1996年、「If I Ruled The World」はクィーンズのラッパー、Nasの同タイトルの曲にサンプリングされ、そのフックをローリン・ヒルが歌った(ローリンはそれ以前に、在籍していたフージーズの「Ready or Not」で同じフックを引用していた)。これはトラック・マスターズが、ブロウのヒット曲と、彼のパートナーでもあったラリー・スミスがフーディーニに作った「Friends」を組み合わせて作った曲であり、クリーンズブリッジ出身の若者だったNasの、初のR&Bチャートトップ20に入るヒットとなった。
それから1年も経たないうちに、R&Bのトリオ、ネクストが扇情的な「Too Close」に「Christmas Rappin’」をサンプリングした。言うまでもなく、「Christmas Rappin’」のイントロの「Hold it Now!(ちょっと待って)」のフレーズは神出鬼没で、ビースティ・ボーイズから(彼らはこのサンプリングを曲名にしている)から、少年のラップ・スター、アナザー・バッド・クリエーションまで、数え切れないほどの曲で使われている。カーティスの楽曲は、南部のコンシャス・ラップにまで届いた。アレステッド・デヴェロップメントのヒット曲「Tennessee」は、ブロウの「Tough」を改変したものである。
ヒップホップ・カルチャーと音楽業界へのカーティス・ブロウがもたらした最大の貢献は、早く生まれた先人であっても、後々まで妥協なしで成功できると証明したことだろう。事実、ごく自然にそして本腰でヒップホップの様々な面に参加したことで、カーティス・ブロウは頭からつま先まで影響のあるパフォーマーとなったのである。カーティスのステージから映画、またその間にある諸々の場面を参考にしたすべてのラッパーは、カーティスに感謝するべきだなのだ。
Written By Jerry Barrow
uDiscoverミュージックで連載している「ブラック・ミュージック・リフレイムド(ブラック・ミュージックの再編成)」は、黒人音楽をいままでとは違うレンズ、もっと広く新しいレンズ−−ジャンルやレーベルではなく、クリエイターからの目線で振り返ってみよう、という企画だ。売り上げやチャート、初出や希少性はもちろん大切だ。だが、その文化を形作るアーティストや音楽、大事な瞬間は、必ずしもベストセラーやチャートの1位、即席の大成功から生まれているとは限らない。このシリーズでは、いままで見過ごされたか正しい文脈で語られてこなかったブラック・ミュージックに、黒人の書き手が焦点を当てる
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